忘却の底で
深く、どこまでも深く…冷たい水底へ落ちていくかのような感覚の中へ意識が沈んでいた
恋冬はゆっくりと目を開くが視界に映るものは何もなかった。上下の感覚も足元も、空や地面すら存在せず果てしない暗闇だけが広がっている。
恋冬「___」
恋冬は小さく声を漏らしたつもりだったがその声さえもどこか遠く、自分のものではないように感じられた。
ここがどこなのか分からない。なぜ自分がここにいるのかも思い出せない。ただ…何か大切なことがあった気がした。
誰かに会わなければならなかった気もするけれどその肝心な部分だけが霧に包まれたように思い出せなかった
…その時
『待ってて』
その声には確かな聞き覚えがあり不意に声が響き恋冬は顔を上げた。
とても大切な声だったはずなのに誰のものなのかが分からない
恋冬「……だれ、?」
思わず呟くも名前や顔が思い出せない。それなのに胸の奥だけが妙に苦しくなり、締め付けられるような痛みを覚えた
『待ってて』
と今度は先程よりも少し近くに再び声が響く
恋冬は無意識に手を伸ばしたが指先は何にも触れず、暗闇は何も返してくれなかった
その頃別の場所でもまた一つの意識、虚はゆっくりと目を開くとそこにも同じような暗闇が広がっていた
何も存在しないまま静寂だけが果てなく続いている
虚「……」
小さく息を吐いた瞬間、強い違和感に気付く。思考が鈍く頭の中に穴が空いているような感覚
何かを考えようとすると途中で消え、誰かの顔を思い浮かべようとすると輪郭が崩れていく。名前を思い出そうとしても霞が掛かったように掴めない。
虚「…なんだ、これ」
低く呟いたその時、暗闇の奥から声が響いた
『忘れろ』
男とも女ともつかない不気味な声だったが、そこに宿る悪意だけは明確だった
『忘れろ。思い出すな。苦しみだけ残せ』
虚「…黙、」
『後悔だけあればいい。罪悪感だけあればいい。孤独だけあればいい。それ以外はいらない』
その言葉を聞きながら虚は静かに目を細めた。
虚「……そういうことか」
花は記憶を喰っているが無差別に奪っているのではない。
楽しかった記憶。救われた記憶。誰かと笑った記憶。前へ進むために必要な感情。その全てを優先して消している。
逆に負の感情だけは残している。だからこの世界は存在できるのだ
恋冬が自分を少しでも責め続ける限り、碧春が自分を少しでも許さない限りこの世界は終わらない虚は苦く笑った
虚「趣味悪ぃな」
『黙れ』
虚「図星か」
『黙れ』
それに呼応するように暗闇そのものが震え始めたその時だった。
頭の奥で誰かの顔、誰かの声、誰かと過ごした時間
思い出そうとした瞬間それらは霧に包まれたように崩れて消えようとする
虚「……っ」
今失えば二度と思い出せないという確信だけがあった。遠くへ、消えかけた記憶へ虚は必死に手を伸ばす。
そしてその中で一つの声だけが微かに響いた
『待ってて』
名前は出てこないけれどその声走っている
…ただ
誰だ
誰だった
誰だったんだ
虚「……さ」
喉から漏れた声は最後まで形にならないまま記憶が崩れる。その隙を狙うように花の声
『忘れろ忘れろ忘れろ』
重なり続ける声に押し潰されそうになりながらも虚は必死に抗い続けていた
一方恋冬もまた暗闇の中を歩いていた
どこへ向かうのか分からないが、立ち止まれば何か本当に大切なものまで失ってしまう気がしたから…歩き続けている
『待ってて』
再び聞こえたその声に恋冬は思わず足を止めた。胸の奥が締めつけられるように痛み、息が苦しくなる。
今にも涙が零れそうになるほど切ないのに、その理由だけがどうしても分からなかった。
なぜこんなにも会いたいのだろう、なぜこんなにも大切なのだろうと記憶を辿ろうとしても答えは見つからず、肝心な部分だけが霧の中に沈んでいる。
それでも、その想いだけは確かに胸の中に残り続けていた。
恋冬「……さ」
自然と唇が動くその瞬間、どこか遠くから花の鼓動のような音が響いた
それでも恋冬は静かに目を閉じる。思い出したい、忘れたくない、とその一心だけを抱き締めながら心の奥底に沈んでいた何かへと手を伸ばした
__そして
恋冬「……紗夜」
その名前が唇から零れ落ちた瞬間、世界のどこかで巨大な花が決して呼ばれてはならなかった名を呼ばれたかのように大きく脈打った
その鼓動は激しく深く、世界そのものを揺らすほどの痛みを伴って響き渡った
暗闇の中で恋冬はゆっくりと顔を上げる。同じ瞬間虚もまた静かに目を開いた。
二人を包み込んでいた静寂は微かに揺らぎ、その奥から不快な声が響く
『忘れろ』
花の声は先程までとは違い、そこには確かな焦りが混じっていた
『忘れろ。思い出すな。苦しめ。憎め。許すな』
何度も繰り返される声を聞きながら恋冬は静かに息を吐く。先程まで霧に包まれていた記憶が少しずつ輪郭を取り戻し始めていた。
全てではなく失われたものは多い。それでも一つだけ確かに思い出せたものがある
恋冬「……紗夜、ちゃん」
その名を口にした瞬間世界そのものにひびが入ったかのように暗闇に亀裂が入り周囲の景色が大きく揺らいだ
虚「しつこい花だな」
『黙れ』
虚「断る」
短く返したその瞬間世界が激しく震えた次、二人の意識は強引に現実へと引き戻される
恋冬「っ!!」
虚「っあ、?」
目を開いた二人の視界へ最初に飛び込んできたのは巨大な花弁だった。
白い根と黒い根が全身へ深く食い込み胸の奥を締め付けるような痛みが走る。そして遥か下方へ視線を向けた瞬間、二人は同時に息を呑んだ
恋冬「……え」
虚「おい」
花の内部は既に戦場と化していた。紗夜達はまだ戦っている。しかしその状況は先程までとは比較にならないほど悪化していた。
開花した無数の蕾から人外が絶え間なく生み出され、花そのものが軍勢を産み落としているかのように倒しても倒しても終わらない
添霧「“消えろ!!”」
怒りの籠もった言霊が炸裂し前方の人外達をまとめて吹き飛ばすが空いた空間を埋めるように新たな群れが押し寄せてくる
昴琉もまた必死だった
昴琉「下がってください!」
幾重にも展開された魔法陣から魔術が放たれ人外達を次々と薙ぎ払っていくが、その表情に余裕はなく明らかに消耗していた。
そして最前線に立ち続けているのは紗夜だったが、その動きには微かな重さがあった。
理由は明白だった。周囲にいるのは人外だけではなく紗夜自身が抱え続けてきた負の感情までもが花によって形を与えられていたのだ
母の死、喪失、後悔が幻影となって紗夜を取り囲み心を揺さぶり続けている
それは添霧も同じだった
忘れたかった過去、消したかった記憶、向き合いたくなかった傷を花は容赦なく暴き出している
昴琉もまた例外ではなかった。未完成である自分。届かなかった理想、抱え続けてきた劣等感、その全てを突き付けられながらそれでも戦い続けていた
その光景を見た瞬間恋冬の顔から血の気が引いた
恋冬「そんな……」
全ては自分達のせいだった。自分達を助けようとした結果が今の惨状を生み出していたのだ
巻き込まれたのは紗夜達だけではない。紫暖達までもがこの絶望の渦中へと引きずり込まれている。
虚は奥歯を強く噛み締めながら吐き捨てるように言った。
虚「最悪だな」
その言葉に呼応するかのように巨大な鼓動が空間全体へ響き渡る。
『そうだ。それでいい。絶望して苦しめ。』
恋冬と虚の苦しみと紗夜達の焦りを、そして失われていく全てのものを。養分として貪り喰らいながらその存在は愉悦に震えていた。
だから終わらせたくない。だから離したくない。だから誰一人として救わせない。
そんな執念にも似た悪意が空間を満たしていた。
恋冬はゆっくりと視線を落とす。そこには皆が未だに戦い続けている姿
傷付きながら、苦しみながら、それでも決して諦めることなく自分達を救うために。
その姿を見つめた恋冬は唇を強く噛み締めた
恋冬「……だめ」
その一言には確かな意思が宿っている
虚もまた下方へと視線を向ける。必死に戦い続ける三人の姿を見つめた後、彼は再び巨大な花へと目を向けた。
黒い根が軋み身体を拘束し続けている。それでも虚は小さく笑う
虚「どうやら、本当に俺達が何とかしなきゃ終わらねぇらしい」
その言葉が響いた瞬間その言葉そのものを恐れるかのように、二人が再び立ち上がることを本能的に拒絶するかのように巨大な花の鼓動が一瞬だけ乱れたように感じた




