ここから。
紗夜の家は静かだった。
…静かすぎて逆に空気が重い。
添霧「ここ?」
紗夜「うん」
添霧「狭いね!」
紗夜「そう」
添霧は内装を見回して少しだけ眉を下げた。
物が散らかっているわけじゃないけど…謎に息が詰まる
紗夜「ここらへんで待ってて」
紗夜は玄関の前で振り返らずにそう言った。
添霧「え、いいの?」
紗夜「すぐ戻る」
添霧「ふーん…分かった!」
軽い返事が背中に落ちる。
紗夜は靴を脱ぎかけて少しだけ手を止めた。
添霧はすでに部屋の中を覗き込んでいる。勝手に入っていいのかどうかを考える様子もない。
紗夜「…勝手に入らないで」
添霧「えっ、じゃあここで待つ!」
紗夜「うん」
それだけ言って紗夜は奥へ向かう。
廊下は薄暗く、歩くたびに床がきしむ音がした。
紗夜「……ただいま」
返事はなく、代わりにリビングの奥からテレビの音だけが漏れている。
画面ではバラエティ番組が流れていて、笑い声だけがやけに軽い。
父はソファに沈み込むように座っていた。
片手には瓶。もう片方の手はだらしなく膝の上に落ちている。
紗夜「…ただいま」
父「…………」
返事はない。それどころか、自分の娘である紗夜を見てもいない。
ただ視線だけが一瞬こちらを横切って、またテレビに戻る。
紗夜は音を立てないように廊下へ向かう。
父「おい」
呼ばれて足が止まる
紗夜「……なに」
父「今日もか」
紗夜「……学校」
父「学校行ってりゃ偉いって顔か?」
紗夜「そんなこと……」
父「母親がいなくなった家で、のんきに学校行って、帰ってきて、それで終わりか」
言葉がゆっくりと刺さる。
鬱憤に似た何かを吐き出しているだけの声
紗夜「……ごめん」
父「喋んな」
紗夜「……」
父「謝るなら、最初からそうなるな」
テレビの笑い声だけがやけに遠い。
紗夜は何も言わずに視線を落とす。
紗夜「ご飯いらない」
父「勝手にしろ」
その一言が落ちた瞬間に会話は終わった。
紗夜はリビングを背にして歩き出す。
床板が一箇所だけ軋んだ音がする。その音に父の視線がわずかに動いた。
紗夜の背中に向けられたそれは、呼び止めるでもなくただ見ているだけの目だった。
紗夜「部屋行く」
父「……」
返事はない。
途中で一度だけ、後ろから小さな舌打ちが聞こえた気がした。
紗夜の足が一瞬止まる。
紗夜「……」
それでも何も言わずそのまま向かう。自分の部屋のドアノブに手をかけたとき、開ける前に背後から声が聞こえた
父「おい」
紗夜「…なに」
振り返るとさっきより近い距離に父が立っていた
父「…今日さ」
紗夜「……」
父「お前、気持ち悪いんだよ」
空気が止まる
紗夜「……」
父の視線が紗夜の後ろへ
__何もない空間を睨むように動く。
父「誰と喋ってたんだよ」
紗夜「……別に」
父「嘘つくな」
声が一段低くなる。
父「さっきからずっと一人でブツブツ言ってんだろ」
紗夜「……」
父「あの女が死んでからおかしくなったんじゃねぇのか」
その言葉のあとに父の手が握られた酒瓶を持ち直すように手が動く。
紗夜の視線がそこに引き寄せられる
紗夜「……お父さん、それ」
父「黙れ」
ゆっくりと瓶が持ち上がる。
最初はただの動作だが、途中から明確な殺意が混じる
紗夜「……やめて」
父「うるせぇ」
瓶が肩の高さを越える。
視界の端で瓶の中の液体が揺れる音がした。
紗夜「……っ」
瓶が勢いよく振り上げられる。その威力は明らかに自分の子供に向けるものではなかった。
紗夜「お父さん……やめ」
「黙れ!!」
怒声と同時に影が落ちる。
ガラス瓶と振り下ろされる腕の軌道が重なって、紗夜の視界を覆った。
__届く
そう思った瞬間
添霧「_割れろ!!!」
幼くも鋭い声。
次の瞬間、瓶の表面に細い亀裂が走る。
それは一瞬で広がり、まるで最初からそうなる運命だったように全体へ伝播した。
「……っ!?」
父の手の中でガラスが崩れる。
音は爆発じゃない。もっと静かでものだった。
宙に散った破片は、紗夜に届く前に重力を忘れたように崩れ落ちる。
床に散る音だけがやけに現実的に響いた。
父は後ずさって目を見開いたまま、手元と紗夜の周囲を何度も見比べている。
「……な、何だ今の……」
怒りでも焦りでもなく理解できない顔。
紗夜は動けないまま息だけが浅く上下していた。
添霧「……大丈夫?」
声はすぐ隣から聞こえたはずなのに、距離感が曖昧だった。
紗夜「……」
言葉が出るまで少し間が空く。
紗夜「……ちょっと、怖かった」
その言葉を聞いた瞬間、添霧の目がわずかに見開かれる。
添霧「…そっか」
でもその声にはさっきの鋭さがもうない。
紗夜は視線を落としたまま続ける。
紗夜「でも…もういい」
添霧「さな」
紗夜「……」
添霧「あ、紗夜」
一瞬だけの間の次、添霧は小さく息を吐くみたいに笑った。
添霧「ここ、だめだ」
紗夜「……うん」
添霧「一緒に出よ」
紗夜「…分かった。」
紗夜は何も言わずに部屋へ戻る。
上着だけを掴んで羽織る動きはやけに淡々としていた。
背後では父がまだ立ち尽くしている。
さっきの出来事を処理しきれていないままの空気。
それでも紗夜は止まらず父の横を通り過ぎる。
視線は一度も交わらなかった。
靴を履き、玄関に手をかける。
その瞬間、強く腕が掴まれた。
紗夜「……離して」
父「駄目だ」
即答だった。
紗夜「……」
紗夜は振り返らないままもう一度言う
紗夜「…離して」
父「どこ行くつもりだ」
紗夜「ここじゃないところ」
父「そんなもんあるか」
掴む力が強くなる。骨が軋むほどではないが、確実に逃がさない意思だけが増していく
紗夜「…痛い」
その言葉にも父は反応しない。
父「戻れ」
紗夜「……」
父「いいから戻れ」
紗夜の腕がわずかに引かれ、足が半歩だけずれる。
でも、それ以上は動かない。
紗夜「…離して」
父「駄目だ」
紗夜「…………」
玄関の空気だけがさっきより重くなる……その瞬間
空気が一瞬だけ歪んだと思えば、添霧が父の体を通り抜けた
触れていない。
押してもいない。
ただそこを通過しただけ。
「……っ」
父の背筋が目に見えて粟立ち、一瞬遅れて呼吸が乱れる。
何が起きたのか理解できないまま、視線だけが虚空を泳ぐ。
その隙を紗夜は逃さなかった。
紗夜「……っ」
今度は父の力がわずかに緩んでいた。
その時もう一度強く振りほどく。
掴まれていた圧がようやく切れ、紗夜はそのまま玄関へ踏み出した。
振り返らず扉を開けると外の空気が肌に触れる。
冷たいのにどこか軽い。
玄関を出た瞬間に夜が一気に広がった。家の中の重さが、背中から剥がれ落ちる。
添霧「……ねえ」
紗夜「なに」
紗夜は立ち止まるが振り返らない。
添霧「さっきの、怖かった?」
紗夜「……少し」
添霧「そっか」
短い返事のあと添霧は少しだけ息を吐く。
それは安心というより確認に近かった。
添霧「じゃあさ、今日は僕が一緒にいる!」
紗夜「…最初からでしょ」
添霧「うん!」
少しだけ声が軽くなる。家の灯りが背後で小さくなっていく。
窓の明かりがひとつずつ遠ざかる。
その夜
紗夜は初めて「戻らない」選択をした。
添霧は初めて「守れた」と思った。
__ここから、2人の物語が始まった。




