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幽間世界  作者:
38/83

再会の抱擁

遠くでは戦闘音が続いている。


けれど、この場所だけは別の世界のように静まり返っていた。


虚は頭を押さえながら叫ぶ。


虚「違う違う違う!!」


その声が墓地中に響き渡る。


虚「俺は碧春なんかじゃない!虚だ!!」



「俺は、俺は……!」



だがその先の言葉が続かない。


自分は何なのか。


病気なのか


災厄なのか


概念なのか



答えを探そうとした瞬間、恋冬が一歩前へ踏み出す

そして__そっと虚を抱きしめた。


虚「……っ!?」


本来ならあり得ないことだった。


病気そのものに触れれば感染し、壊れて傷つく


それが当然のはずだった…それなのに。


恋冬の腕は震えながらも温かく、どうしようもなく懐かしかった。


恋冬はしばらく何も言わなかった。


ただ離さないように抱きしめる。


そして小さく囁く。


恋冬「…碧春だよ…間違いなく…ね?」


虚「ちが……」


否定しようとしたその瞬間だった。


視界が真っ白に染まる


窓から来る外の匂い


病室の白い天井


規則正しく鳴る機械音


泣いている恋冬


震える自分の手


『……ごめんな』


あの日の声が蘇る。


『もう嫌だよな、でも……』


そっと彼女に触れながら、自分は笑っていた。


『…大丈夫だって』


その言葉に恋冬が初めて笑った。


さらに記憶が流れ込む


病に蝕まれている彼女の名前を呼び続けた時


最期、熱に浮かされた意識の中でそれでも願ったこと。


『恋冬…』


『……生きろ』


『俺の分、まで…』


虚「…あ……」


息が詰まる。


虚「……や、め……」



否定したい


あんなの忘れたい



…壊したい


だが記憶は止まらない。


自分が碧春として死んだ瞬間。


そして絶望と未練と後悔が絡み合い、病気そのものとして生まれ変わった瞬間までもが鮮明に蘇る。


虚の膝が崩れ落ちた。


虚「…俺は……」


声は震え、かすれていた。


虚「碧春じゃ…ない…だって……」


恋冬は抱きしめる腕に少しだけ力を込める。


恋冬「…じゃあ、どうして」


静かな問いだった。


恋冬「…私のこと、そんな顔で見たの?」


虚「……っ……!」


答えられない。

否定しようとするたびに胸の奥が悲鳴を上げる。


虚「…やだ」


ぽつりと本音が零れた。


虚「…戻りたくない…あの時に…最後の最後で泣かせた自分に……」


恋冬は涙を浮かべながらも、小さく微笑む。


恋冬「…大丈夫……私、今ここにいるよ」


その言葉は奇跡でも病気を治す魔法の言葉でもない。


けれど…病気でしか存在できなくなった少年の心を、確かに揺らした。


虚は何も言えないまま恋冬の温もりだけを感じていた。


そしてその瞬間


まるで碧春だった頃の自分が、ようやく追いついたかのように。


長い間止まることのなかった病の力が初めて静かに沈黙する。


恋冬の腕の中で虚の身体からふっと力が抜けた。


虚「……ぁ……」


指先が小さく震える。だがそれは今までのような病を撒き散らす動きではなかった。


ただ怯えた者が見せる、ごく普通の震えだった。虚は自分の手を見つめて


虚「…あれ……?」


病を生み出す感覚がない。


触れれば感染させるという確信も、世界へ広がっていく病の気配もどこにも存在しなかった。


虚「…何だよ、これ……」


そのまま膝をつき崩れ落ちる。恋冬が慌てて身体を支えた。


恋冬「だ、大丈夫……?」


虚「…わかんない……」


弱々しい声だった。そこには皮肉も嘲笑もない。


虚「…いつもなら考えなくても…病気が勝手に……」


言葉が途中で止まる。


もうできないという事実を理解した瞬間、虚の顔に明確な恐怖が浮かんだ。


虚「…なぁ……」


おそるおそる恋冬を見る。


虚「…俺、今…何もできない……?」


恋冬は少し驚いたあと、静かに頷いた。


恋冬「…うん」


虚「…………」


小さく喉が鳴る。


虚「そ、か……」


能力を失った恐怖だけれど、本当に恐れていたのはそれだけではなかった。


守れない側へ戻ってしまったこと。


かつての自分へ戻ってしまったこと。


その時、遠くから戦いの音が微かに響いた。


虚はびくりと肩を震わせる。


虚「…っ……」


恋冬「どうしたの?」


虚「…危ない……」


思わず漏れた言葉だった。


恋冬「え…?」


虚「行くな、そこに立つな……」


弱っているはずなのに、虚は恋冬を自分の後ろへ引き寄せる。


恋冬はその背中を見つめ、そして確信する。目の前にいるのは病気ではない。


人を傷つけたい存在でもない。誰かを守ろうとしていた一人の少年だった。


しばらく沈黙が続いたあと、虚がぽつりと呟く。


虚「…俺、昔さ……」


恋冬は黙って耳を傾ける。


虚「…こういう時何もできなくて、それが一番嫌だった…」


虚の視線が地面へ落ちる。


虚「…強くなったつもりだったのにな…結局また同じ、」


声が震える。瞳の奥には涙が滲んでいた。


虚「…俺、碧春に戻ってる…よな」


恋冬は迷わなかった。


恋冬「……うん」


優しくはっきりと答え、そして少しだけ笑う


恋冬「でも私が知ってる碧春はね」


虚「……?」


恋冬「…一緒にいてくれた人だったよ」


その言葉は静かだったけれど、どんな刃よりも深く胸に届いた。


虚は何も言えない。ただ目を見開いたまま恋冬を見つめる。


病気を止めた人ではない。誰かを救った英雄でもない。


ただ自分の隣にいてくれた人。

それだけで良かったのだと、今さら知ってしまった。


虚「…………」


一粒の涙が零れ落ち、続いてもう一粒。


それはただ自分の弱さを認めた少年の涙だった


恋冬は何も言わず、その涙が止まるまでそばにいた。


墓地には静かな風が吹いている。崩れた世界の中で。


長い間「病」として存在していたものは、少しずつ形を失い始めていた。


そして代わりに――


かつて恋冬のために笑い、泣き、命を懸けた一人の少年。


夏百合 碧春が、ゆっくりと帰ってきていた。



人外たちを退けると、墓地には再び静寂が戻った。


砂利を踏む足音とともに、紗夜、昴琉、添霧の三人が戻ってくる。


最初に異変へ気づいたのは添霧だった。


添霧「え?」


目を見開きその場にとまる。


添霧「…病気がない?」


昴琉も状況を見て眉をひそめた。


昴琉「……は?」


視線の先では恋冬が地面に座り込んだ虚を支えていた。


その腕の中で虚は俯いたまま肩を震わせている


紗夜は何も言わず一歩前へ出た。


視線の先にいるのは、つい先ほどまで明確な敵だった存在。


紗夜「あれは?」


添霧「…能力が止まってる?完全じゃないけど、病気じゃない…」


昴琉は静かに息を吸う。


昴琉「…つまり?」


添霧「…少なくとも、今の状態なら危険じゃないと思う」


その瞬間、紗夜の手が刀の柄へ伸びた。


昴琉「…紗夜さん」


紗夜の視線は虚から離れない。


紗夜「…あれは」


低い声だった。


紗夜「恋冬を傷つけた」


恋冬の肩が震える。


恋冬「……っ」


反射的に虚を抱きしめる腕へ力が入った。


恋冬「…で、でも!」


言葉は途中で詰まる。昴琉は二人を見比べた。

紗夜は真っ直ぐな目をしている。


恋冬は泣きそうな顔で、必死に虚を守ろうとしていた。


しばらく考えたあと、昴琉は一歩前へ出る。


昴琉「…確認します」


淡々とした声で虚を見据える。


昴琉「あなたは、自分が何者か理解していますか」


虚はゆっくり顔を上げた。その目は本当に空虚でどこか怯えている。


虚「…………」


小さく唇を動かす。


虚「…わからない……」


かすれた声だった。


虚「でも、碧春じゃないって言い続けてた…」


唇を噛みしめる。


虚「なのに今…」


胸元を押さえる。


虚「ここが苦しい…」


添霧が息を呑んだ。


添霧「…なにそれ?」


昴琉「記憶?」


恋冬は小さく頷く。


恋冬「…碧春だよ、間違いなく」


沈黙が落ちる。風が墓標の間を吹き抜け供えられた花を揺らした。


紗夜はしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと柄から手を離す。


紗夜「……」


一歩だけ後ろへ下がった。


紗夜「今は斬らない」


添霧「…さな……」


紗夜は続ける。


紗夜「でも、仲間でもない」


恋冬は少しだけ目を伏せる。


恋冬「…うん……」


その言葉を否定せず、静かに受け止めた。

昴琉も頷く。


昴琉「…妥当です」


そして結論を口にする。


昴琉「今は保留ですね」


その言葉を聞いた虚は小さく笑った。


虚「…保留、か」


力のない笑みだったが、どこか安堵したようにも見える。


虚「それでもいい」


そう言って恋冬の袖をぎゅっと掴んだ。


虚「…離れないで…くれるか?…」


恋冬は優しく微笑み頭を撫でる。


恋冬「…うん、今だけでもここに居て」


虚は何も答えなかった。


その光景を紗夜は黙って見つめていた。敵だったはずの存在。守るべきだった少女。


そして、その少女が守ろうとしている少年。


この世界に来てから抱いていた「守る」という感情が少しずつ形を変え始めている。


その変化を、紗夜自身もまだ言葉にはできなかった。


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