自分の為の一撃
自分のための一撃
闇がさらに濃くなった。
まるで夜そのものが凝縮されていくように、庭の空気が冷え込んでいく。
離れた場所で見守っていた添霧でさえ、その変化を肌で感じていた。
添霧「……まずい」
父の影は紗夜を見下ろしていた。その瞳に宿っているのは怒りだけではなく、もっと深いもの
もっと弱く、
もっと醜く、
そして誰よりも人間らしい感情
__恐怖。
父「…お前は」
声が歪む。
父「あの女に似てきた」
紗夜の胸が小さく揺れた。
紗夜「……お母さん?」
父「そうだ」
吐き捨てるような声だった。
父「…あいつも、そうだった。何も言わず…それでいて、全部を分かっているような目で」
闇が激しくうねる。
父「…守れなかった。二人とも」
その声は怒鳴っているようでいて、どこか泣いているようにも聞こえた。
父「だから今度こそ壊れる前に俺が止める!」
それは支配だ。
閉じ込めようとする、無理やりな力だった。
けれどその根底にあるものは……確かに愛情だった。
歪みきってしまった父なりの愛情。
だからこそ苦しく
だからこそ悲しく
だからこそ…醜かった
紗夜は震えていた。その恐怖を否定することはできない。
だが同時に胸の奥ではっきりと分かることもあった。
_違う。
それは守ることじゃない
閉じ込めること
その瞬間、紗夜の中で何かが静かに切り替わった。
恐怖が消えたわけでも迷いがなくなったわけでもない。
ただ、自分が何を選ぶのかだけははっきりした。
紗夜「…お父さん」
声は驚くほど落ち着いていた。
紗夜「私はお父さんの後悔を埋める存在でもない」
闇が激しく揺れた。
父「っ黙れ!!!」
次の瞬間影が襲いかかる。
これまでで最も速く、最も重い一撃。
添霧が叫ぶ。
添霧「っ紗夜!!?」
紗夜は背中越しにその声を受け取る。
けれど振り返らない。
ただ自分がここに立つために紗夜は一歩踏み出した。
逃げも祈りも誰かを頼ることもしない。
ただ自分自身の意志で前へ出て木刀を握る。
紳漓に教わった足運び。
教わったすべてが自然に身体へ馴染んでいて
そして振り抜く
紗夜はその間に引かれ続けていた境界へ向かって木刀を振るった。
父の後悔と自分の人生を隔てる線
過去と未来を繋ぎ止めていた鎖
衝撃が庭を震わせ、空気が弾ける。
血はも悲鳴もないまま父の影だけが揺らぐ
崩れかけた闇の向こうで一瞬だけ人の姿が現れた。
父「……あ」
そこにいたのは人外でも怒りに呑まれた怪物でもなかった。
ただ一人の父親だった。
父「……紗夜」
その呼び方はただ娘を呼ぶ父親の声だった
紗夜は静かに息を吐く
紗夜「…私は、私の人生を生きる……それだけ」
父は答えないままその言葉を受け止めていた。
闇が少しずつ後退していく。
完全には消えない。
終わったわけでも決着がついたわけでもない。
けれど確かな変化があった。
見守っていた添霧には分かる
今までは違った
あの存在はずっと紗夜を追いかけていた
過去から
後悔から
喪失から
逃げ場のない影として縋っていた。添霧は静かに拳を緩める
これはもう向き合ってしまった存在だ。
向き合った以上、いつか必ず答えを出す日が来る。
その日まで、紗夜は自分の足で歩いていくのだろうと感じた
そして、父の終着点
闇はゆっくりと霧散していった。裂けるでも吹き飛ぶでもなく、ただ長い時間をかけてほどけていくように。
そこに立っていたのは、久しく見ていなかった…昔の父の姿だった。
背中は少し丸くなり、目の下には隈が落ちている。
それでももう、人外でも闇でもなかった。ただ一人の男が、そこに立っていた。
紗夜は木刀を下ろしたままその姿を見つめる。
父はゆっくりと顔を上げ、「……大きくなったな」なんて言った
紗夜は何も返さない。父は少し目を細めて
父「…母さんにそっくりだ。強いところも、逃げないところも」
紗夜は視線を逸らさずに答えた。
紗夜「似たくて、似たわけじゃない」
その言葉に父は小さく笑う
父「……そうだな」
しばらく沈黙が続いた。
空の端では朝焼けが静かに広がり始めていた。
やがて父は真っ直ぐ紗夜を見て言う。
父「……紗夜。あの夜止められなかった。守れなかった。それを…俺はお前のせいにした」
その声にはもう怒りも執着もなかった。
父「…最低だ」
紗夜は少しだけ眉を寄せる。
紗夜「知ってる」
短い返事だった。
そして
紗夜「だから私は戻らなかった」
父はゆっくりと息を吐いた。
父「…正しかったな」
その一言は、紗夜がずっと聞くことのなかった肯定だった。
父「……お前は、ちゃんと生きようとしてた」
一歩だけ父が前へ出る。
その距離はもう手を伸ばせば届くほど近かった
父「…もう、これ以上付きまとえない」
静かな声が続く。
父「……影になるのも、父親を名乗るのも」
紗夜は察していた。
紗夜「消えるの」
父は頷く。
父「ああ」
それから少しだけ目を伏せて再び紗夜を見た。
父「…紗夜」
その呼び方は不思議なくらい穏やかだった。
父「斬れ」
命令でも懇願でもないそれは、自分の終わりを娘に委ねる言葉だった。
紗夜は木刀を握り直す。
手は震えておらず、負の感情に飲まれていたさっきとは違った
紗夜は一歩踏み出す。
紗夜「これは復讐じゃない。終わらせるため」
その言葉に、父は静かに目を閉じた。
父「…ありがとうな」
そして最後に、父としての願いを残す。
父「……生きろ」
その声だけはどこまでも優しかった。
紗夜は静かに呼吸を整える。
脳裏に浮かぶのは紳漓に教わった足運びと、何度も繰り返した構えだった。
逃げるために学んだ護身術。生き残るために覚えた一太刀。そのすべてを胸に木刀を握り直す。
そして…振った。
型通りに無駄なく、まっすぐに木刀は父の身体を通り抜けた。
音はなかった。血は流れず、ただ父の輪郭だけがゆっくりと崩れていく。
砂のように、霧のように……長い年月抱え続けた執着と後悔が朝の空気へ溶けていった。
消えていく最後の瞬間、父はほんの少しだけ笑った。
父「……紗夜」
呼ばれたのはそれだけだった。
娘の名前だけを残して、父は完全に消える。
庭には朝の光だけが残った。
誰もすぐには声をかけなかった。
離れた場所で見守っていた添霧も、昴琉も、朧偈も、紳漓も、紫暖も、この時間だけは壊してはいけないものだと理解していた。
紗夜はしばらくその場に立ち尽くし、やがてゆっくりと空を見上げる。
夜は終わっていた。父との決着も終わった。
それは許しでも忘却でもない。ただ背負い続けるしかなかった過去が、ようやく過去として置けるものになっただけだ。
朝日が静かに庭を照らす。その光の中で紗夜は木刀を下ろし、小さく息を吐いた。
そして初めて、自分の足で前へ進くように夜刀神家の待つ場所へ歩き出した。




