父と娘
夜刀神家の庭には全員が集まっていた。
空気は重く張りつめ、誰も軽々しく口を開こうとはしない。
添霧だけが周囲を警戒するように辺りを見回していた。
添霧「来てる」
その声はいつもよりずっと低かった。
添霧「…今度は、逃げない気だとおもう」
次の瞬間、庭の中央に闇が滲み始める。
地面に落ちた影がゆっくりと膨らみ、人の形を取って立ち上がった。
昴琉が反射的に一歩前へ出ようとする。しかしその肩を紳漓が腕一本で制した。
紳漓「……待て」
昴琉「父さん?」
紳漓は闇から目を離さない。
紳漓「…これは」
その視線が紗夜へ向く。
紳漓「……紗夜の顔に…似とる?」
雲の隙間から明かりが差し込む
その光に照らされて闇の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。
そして誰もが息を呑んだ
そこにいたのは、紗夜によく似た顔をした男だった。
紗夜は叫びも取り乱しもしない。
ただ静かに理解する。
どこかでそれを察していたみたいに
紗夜「お父さん」
その一言ですべてが繋がった。
添霧「…えっあの人外が?」
男はゆっくりと紗夜を見て低い声を落とした。
「…まだそう呼ぶか」
紗夜「他に呼び方ない」
淡々とした返答だった。紳漓が前へ出ようとする。
しかし、
紗夜「大丈夫」
即座に制止させた
紗夜「これは、私の問題」
紫暖は静かに紗夜を見つめ、小さく頷いた。
紫暖「…分かったわ。私たちはここにいる……でも口は出さない」
添霧は拳を握り締める。
添霧「さな」
紗夜「紗夜」
添霧「あ、ごめん」
こんな時でも直らない。添霧は苦笑しながら
添霧「無理だと思ったら、すぐ言って」
紗夜「……うん」
夜刀神家の面々と添霧は静かに距離を取った。
庭の中央に残ったのは、紗夜と父だけだ
しばらくはなにも話さないまま風だけが二人の間を通り過ぎる。
やがて父が口を開いた。
父「…随分、変わったようだな」
その声は記憶の中より低く、乾いていた。
紗夜「……死んだと思ってた」
父「馬鹿言うな。……でも、終われなかった」
紗夜「……そう」
短いやり取り。そこに感情のぶつけ合いはない。
紗夜「お母さんの事」
紗夜は真っ直ぐ父を見つめる。
紗夜「…覚えてる?」
父は一瞬だけ沈黙した。
父「…忘れるわけがない」
その答えに嘘は感じられなかった。
父「でもお前を見ると嫌でも思い出す」
紗夜は黙って聞く。
父「守れなかった。全部」
その言葉は後悔そのものだった。
紗夜「だから?…だから私を狙った?」
闇がわずかに揺れる。
父「最初は確かめたかった」
紗夜「なにを」
父「…まだ、境界にいるのか…負の感情故にこちらにくるのか」
紗夜は何も言わない。
父「でも」
その声が少しだけ歪んだ。
父「…羨ましかった。人間のまま立っているお前が」
紗夜は静かに息を吸う。
そして、ゆっくりと言葉を返した。
紗夜「……私は、お父さんの代わりに生きてない」
父は黙っている。
紗夜「…お母さんの代わりでもない。私は私」
その言葉はまっすぐだった。父は逃げず真正面から受け止める。
父「…そうか。それが選んだ道か」
紗夜「私は戻らないし、戻れない」
沈黙が落ち、風が再び二人の間を吹き抜けた。
父「それでも」
最後に父は言う。
父「お前がこちらに来ないなら引きずり下ろそうと思っていた」
紗夜は迷わなかった。
紗夜「いかない」
父「……」
紗夜「私には、場所がある」
その言葉を聞いた瞬間、父の輪郭が少しずつ薄れていく。
闇が崩れるように静かに消えていく。
父「…そうか…だが覚えてろ」
紗夜「……なに」
父「俺はお前を恨んでいる。お前を見る度、どうしようもない憎悪が精神の奥を蝕んでくる」
直後、その姿は夜の中へ溶ける
闇が完全に消えたあとも誰もすぐには動かなかった。
静寂が庭を包む。
最初に歩き出したのは添霧だった。
添霧「紗夜」
紗夜は振り返る。
添霧「大丈夫?」
紗夜「…うん」
添霧「終わった?」
紗夜は少しだけ考えて首を横に振った。
紗夜「まだ…でも」
夜明け前の空を見上げながら続ける。
紗夜「…前には進める」
紫暖が優しく微笑んだ。
紫暖「よく向き合ったわね」
紗夜は何も言わずその言葉を受け取る。
紳漓もまた何も言わないまま代わりに深く一度だけ頷いた。
これは誰かが裁く話ではない。許すか許さないかを決める話でもない。
紗夜が自分の過去と向き合い、自分の人生を誰のものでもない「自分の人生」として選び取った瞬間だった。
……その夜
いや、夜の空気が歪み始めていた時
夜刀神家の庭を包んでいた虫の声はいつの間にか消え、風さえ吹いていない。
世界そのものが息を潜めているような静寂の中、添霧が小さく呟いた。
添霧「……来る」
その声は低く警戒に満ちていた。
庭の中央で闇が滲むように広がり、ゆっくりと人の形を作っていく。
現れたのは父だった。
しかし前回とは違う。
輪郭は不安定に揺らぎ、感情が抑えきれないまま外へ漏れ出しているようだった。
父「あの夜だ」
震える声が庭に落ちる。
父「…お前が、出ていった夜」
紗夜は黙って見つめる。
父「何も言わず、振り返りもせずに」
その言葉と共に闇が大きく波打った。
紳漓が反射的に一歩前へ出る。
その前に紗夜が静かに口を開いた。
紗夜「…大丈夫」
紳漓が足を止める。
紗夜「今回は私が行く」
紫暖が静かに問いかけた。
紫暖「…一人で?」
紗夜は一度だけ頷く。
紗夜「一人の、娘として」
誰も止めなかった。
添霧も、昴琉も、朧偈も。
皆が見守る中紗夜は一歩前へ出る。月明かりがその背中を照らしていた。
紗夜「……お父さん」
その呼びかけは静かだったが父の闇は大きく揺れる。
紗夜「……あの夜」
紗夜は逃げなかった。視線を逸らすこともない。
紗夜「…怖かった」
父は何も言わない。
紗夜「…でも、出ていかないと壊れるって分かってた」
沈黙。
紗夜「…お父さんも、私も」
その瞬間、父の声が荒くなった。
父「分かってたならなぜ置いていった」
闇が唸り紗夜へ向かって伸びる時、空気そのものが重くなる。
添霧が思わず叫んだ。
添霧「さな!」
そしてすぐに言い直す。
添霧「っあ、紗夜!」
それでも紗夜は止まらなかった。逃げない。下がらない。
ただ父を見つめる。
紗夜「お父さん、私は縛られるためにいるんじゃない」
闇が一瞬だけ止まった。
紗夜「…私は、守られるだけの存在じゃない」
父の瞳が揺れる。
だが次の瞬間押し込めていた感情が爆発した。
父「なら証明しろ!」
庭が震える。
父「お前が一人で立てるというなら!」
闇が地面を裂くように走った。
紗夜は腰の木刀を握り足を開いて重心を落とす。呼吸を整え、紳漓に教わったことを思い出す。
斬るためでも勝つためでもない。
_生きるため、自分を守るために。
紗夜は踏み込んだ。闇と木刀がぶつかり、低い衝撃音が庭に響いた。
腕が震えて身体が悲鳴を上げる
怖い……けど
紗夜「…私は、私は生きる」
闇がさらに押し寄せる。
父「なら!見せてみろ!」
影が覆いかぶさる。
父「その選択を!」
圧力が増し、木刀を握る手が軋む。
それでも紗夜は離さなかった。
紗夜「私は誰かの代わりじゃない」
父の瞳が揺れた。
紗夜「お母さんの代わりでも、お父さんの代わりでもない」
木刀がわずかに前へ進む。
紗夜「私の人生は私が選ぶ」
その言葉は叫びではなかった。
静かで確かな意志だった。
父は何も言わないでただ紗夜を見ていた。娘ではなく一人の人間として立つ姿を
夜刀神家の誰も動かない。
添霧も拳を握ったまま見守っている。…これは親子の戦いだった。
勝ち負けを決めるためのものではなく互いの生き方をぶつけ合うためのものだ。
張り詰めた空気の中で紗夜はもう逃げていなかった。
どれほど怖くても
どれほど苦しくても
自分の足で立ち自分の意志で前を向いている
その姿だけは誰にも否定できなかった。




