過去を知る影
夢ではなかった。
紗夜ははっきりと目を開けていた。部屋の中は暗く、夜刀神家らしい静かな夜が広がっている
だが、その静寂の中に確かな違和感があった。
……気配だ。
紗夜は音を立てないように起き上がり、ゆっくりと縁側へ近づいた。
障子越しに差し込む月明かりが、一つの影を映し出している。
紗夜「……」
息を潜める。その影は人の形をしていたが、ただそこに立っているだけではない。
はっきりとこちらを見ていることが分かった。
「……霊場 紗夜」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が一拍だけ遅れる。
紗夜(…知ってる、?どうして)
返事はしなかった。それでも影は構わず言葉を続ける。
「……母親を亡くした夜」
低く、静かな声だった。
「……泣かなかったな」
紗夜の指先が僅かに震える。
紗夜(…そんな事、誰にも言ってない)
「…守られた側が何もできなかった夜。その後の家」
まるでその場にいたかのように自然な口調で語られる。
「空気が壊れていく音。毎日少しずつ」
胸の奥がじくりと痛んだ。
「…お前は」
影が一歩近づく。
「あの時から、こちら側を見ていた」
紗夜は唇を噛んだ。
「見えるはずのないものを、見続けてきた」
紗夜「……誰」
影はわずかに笑ったようだった。
「当事者だ」
紗夜「?」
「奪われる側も残される側も、どちらも知っている」
闇がゆらりと揺れる。
その瞬間、一瞬だけ過去の経験に似た振動が空気を震わせた。
紗夜「……っ」
思わず一歩下がる。
「思い出したか」
紗夜は何も言えない。
「お前は、“境界”に立ち続けてきた」
紗夜「…違、」
「だから」
声がさらに低く沈む。
「こちらに近い」
その時
添霧「離れろ」
添霧の声に影が反応した。
「邪魔をするな」
添霧「するよ!」
迷いのない即答だった。
添霧「だってさ!この子の過去に勝手に触る権利なんて、誰にもない!」
「俺にはある」
添霧「なーい!!!」
しばらく沈黙が落ちる。…やがて闇は静かに後退
「今日はここまでだ。だが」
最後に紗夜へ視線を向ける。
「…次は、覚悟の話をしよう」
紗夜「っ、」
「紗夜」
そう言い残し、影は夜の闇へと溶けるように消えていった。
しばらくの間、二人とも何も話さなかった。
静寂の中で紗夜はゆっくりと息を吐く。
紗夜「知ってた。」
添霧は強く頷いた。
添霧「うん」
添霧「…あれは偶然じゃないよね、当事者みたいだった」
紗夜も同じことを感じていた。だからこそ不気味だった。
添霧「…だからこそ危ない」
添霧は拳を握る。
添霧「さな」
紗夜「…紗夜」
添霧「あ、ごめん」
こんな状況でも、反射的に言い直してしまう。
添霧「あいつは、紗夜の存在だけじゃなくて、過去ごと引きずり出そうとしてる」
紗夜はしばらく黙っていた。それから静かに口を開く。
紗夜「…逃げない」
その声は震えていなかった。
紗夜「…でも、一人じゃいない」
添霧はその言葉を聞いて、小さく笑った。
添霧「……うん」
夜は何事もなかったかのように静かだった。
けれどもう誰も気づいている。
敵は紗夜の存在だけを見ているのではない。
彼女の過去も傷も記憶も知った上で近づいてきている。
そしてその視線は、今もどこかからこちらを見つめていた。
夜明け前。空の色がまだ決まりきらない曖昧な時間だった。
紗夜は庭に立っていた。特別な理由があるわけではない。
ただ胸の奥に残るざわつきが眠りを遠ざけて…
冷たい朝の空気の中で静かに佇んでいると、不意に空気が薄く揺れる。
添霧が異変に気づくよりも、ほんの一瞬だけ早くそれは現れた。
闇は以前よりも静かで、以前よりもはっきりとした存在感を持っていた。
紗夜「…また来たの」
紗夜の声は落ち着いていた。
「……逃げないのか?今は」
紗夜は相手を真っ直ぐ見つめる。
紗夜「……聞きたい」
闇の中の人影が、わずかに首を傾げた。
その仕草に紗夜は小さな違和感を覚える。
_似ている。
無駄な動き。感情を表に出す取り方。
そのすべてがどこか血を見ているようだった。
「やはり、同じだ」
紗夜「……何が」
「生き残り方」
紗夜は眉をひそめる。
紗夜「…誰なの」
すぐに答えは返ってこなかったが代わりに静かな声が落ちる。
「…守られたな」
紗夜の胸の奥が微かに軋んだ。
「代わりに、失った」
紗夜「…あなたもなの」
人影が一歩だけ月明かりの中へ出る。
顔は相変わらずはっきりしない。しかしその瞳の奥だけが異様なほど人間らしかった。
「ああ。俺も、あの場所にいた」
紗夜「あの場所?」
「…電車の音、鉄の匂い、絶望に止まった時間」
紗夜の呼吸がわずかに乱れる。
そこにいた。
ただ見ていただけではないその言葉には、確かな実感があった。
「…生き残ったのはお前だけじゃない」
紗夜は黙って聞いていた。
「…ただし」
その声が少しだけ歪む。
「俺は、こちら側に落ちた」
風が吹いて闇が揺れる。
「…同じように守られ、同じように取り残された。でも」
その輪郭が一瞬だけ紗夜と重なったように見えた。
「…お前は人間のまま。俺は境界に縛られた」
しばらく沈黙が続く。そして紗夜ははっきりと言った。
紗夜「…似てない」
その言葉に、相手がわずかに反応する。
紗夜「…人間を辞めたのか、元からそうなのかは知らないけど」
朝の風だけが二人の間を通り抜ける。やがて静かな声が返ってきた。
「そうか」
初めてそこに感情らしいものが滲んだ気がした。
「なら尚更だ」
紗夜「……?」
「お前が、選ぶ番だ」
紗夜「……何を」
人影はゆっくりと後退する。
「境界に立ち続けるか、引きずり込まれるか」
さらに輪郭が薄れていく。
「……あるいは」
最後に残された囁きが朝の空気に溶けた。
「…自ら堕ちるか、な」
その姿は夜明け前の闇の中へ静かに消えていった。
しばらくして庭の方へ駆けてくる足音が聞こえた。
添霧「…さな、」
紗夜「……紗夜」
添霧「あ、ごめん!」
N回目のやり取り。
添霧は紗夜の前で立ち止まり、心配そうに顔を覗き込む。
添霧「…大丈夫?」
紗夜「……うん」
紗夜は空を見上げた。東の空は少しずつ白み始めている。
紗夜「……あの人、私に似てた」
添霧は静かに頷いた。
添霧「うん、だから危ない」
紗夜はしばらく黙ってから小さく言う。
紗夜「でも私は、ああならない」
それは決意よりもっと静かなものだった。
誰かに証明するための言葉ではなく、自分自身が選ぶための言葉。
夜明けの光がゆっくりと庭を照らし始める。
境界はまだそこにあり、壊れても越えてもいない。
けれどその先へ進む道を選ぶ時は確実に近づいていた。
そして、その選択をするのはもう紗夜自身だった。




