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幽間世界  作者:
17/83

優しさの居場所



朝の光が廊下に細く差し込んでいく


紗夜は縁側に座り、膝を抱えながら庭を眺めている。


朝露の残る草木が風に揺れ、その様子をぼんやりと目で追っていた。


紫暖「…早いのね」


穏やかな声が背後から聞こえる。

振り返ると、紫暖が湯気の立つ湯呑みを二つ持って立っていた。いつものエプロン姿


紗夜「…眠れなかった?」


紫暖「それは私の台詞じゃないかしら」


少しだけ楽しそうに笑いながら、紫暖は隣へ腰を下ろした。


紫暖「少し、温かいわよ」


紗夜「…ありがとう」


湯呑みを受け取りそっと口をつけると、ほんのりとした温かさが体に染み渡っていく。


二人の間には静かな時間が流れていた。鳥のさえずり、木々を揺らす風の音……それは誰も急かさない朝の空気。


やがて紫暖が静かに口を開いた。


紫暖「紗夜ちゃん」


紗夜「…なに」


紫暖は少しだけ言葉を選ぶように視線を落とした。


紫暖「あなた、自分がどうしたいかを言わない癖があるわね」


紗夜「……」


紫暖「でも、それはあなたが冷たいからじゃないの」


穏やかな声が続く。


紫暖「誰かを困らせないように。誰かを怒らせないように。ちゃんと考えてきた人の癖」


紗夜の指先がほんのわずかに動く


紗夜「…それ、良い事?」


紫暖「ええ」


迷いのない返事だった


紫暖「とても優しいことよ」


紗夜は黙ったまま庭を見つめる


紫暖「でもね」


その声が少しだけ柔らかく沈む


紫暖「優しい子ほど、我慢するのが当たり前になってしまうの」


紗夜「……慣れてる」


紫暖「そうでしょうね」


否定も責めもせずただ頷いた

そして紫暖はそっと紗夜の手に触れる。強く握るわけではない。


紫暖「だから、覚えておいて」


紗夜は小さく視線を向ける


紫暖「あなたが嫌だって思う気持ちは、悪いものじゃない」


紗夜の目を見つめて続ける


紫暖「逃げたい時に逃げるのも、守ってほしいって思うのも、全部ちゃんとした生きる力よ」


紗夜の喉が小さく鳴り、しばらく黙った後ぽつりと声を落とす


紗夜「……私の」


紫暖「うん」


紗夜「…母さんが、そうだった」


紫暖は何も言わない


紗夜「……何も言わずに、全部背負って…いなくなった」


淡々とした口調だったけれど、その奥に揺れる感情は隠しきれていない。


紫暖はゆっくり息を吸い、優しく言った。


紫暖「……お母さんはね」


紫暖「きっと、あなたが自分を大事にする姿を見たかったと思うわ」


紗夜は黙ったまま耳を傾ける。


紫暖「守るために生きる人は多いけれど、守られながら生きていい人も、ちゃんといるの」


そして少しだけ笑った。


紫暖「…あなたは、その一人よ」


風が縁側を吹き抜ける。

紗夜は膝を抱えたままゆっくりと口を開いた。


紗夜「……私、ここに居ていい?」


その声はこれまでになく小さかったけれど、確かに自分の意思で出した言葉だった。


紫暖は迷わない。


紫暖「ええ」


紗夜は紫暖を見る。


紫暖「いつまででも」


その一言に紗夜の肩から力が抜けた。胸の奥で固く結ばれていた何かが少しだけほどけていく


ここに居てもいい


その言葉は、思っていた以上に温かかった。


午後になると、家の空気はいつも通り穏やかだった。



だがその平穏の外側で、紳漓は屋敷の外れに立ちながら遠くを見つめていた。


ふと足を止める。


紳漓「……?」


空気が微妙におかしい。風が止まっているような、耳を澄ませば遠くから何かが軋むような音が聞こえた。


紳漓「……来よるな」


低い声が漏れる。


何がとは言えないけれど、長年の経験が告げていた。見えない違和感が確かにこちらへ近づいている。


その頃。

家の中では、紫暖がふと顔を上げていた。


紫暖「……」


胸の奥に理由の分からない痛みが走る


紫暖「…嫌な予感」


無意識のうちにそう呟いていた。


居間では紗夜が湯呑みを手にしていた。


紗夜 (……何か、近い?)


理由は分からないけれど確かに感じる。


何かが動き始めている……と


誰もまだ言葉にはしないが、この平穏が永遠ではないことを全員がどこかで感じ始めていた。


夕暮れの影がゆっくりと静かな家を包み込むように


そしてその影の向こうには、まだ誰も知らない新たな夜が待っていた。


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