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『鮮血の厄災』で配信を行った翌日。イベントが行われる会場にミヨリはやって来ていた。楽屋にある椅子に座って、ガッチガチに緊張しながら膝の上に乗せた拳を握りしめる。
本日はアビスソフトのイベントに、ゲストとして出演することになっている。はじめての企業案件だ。
基本的に企業案件は全て断っているのだが、アビスだけは特別なので引き受けることにした。もっとも、最初はSNSに依頼のメッセージが届いたときは、なんらかのトラップじゃないかと疑ったけど。綾乃から話を聞いてみると、どうやら本物のようだった。
「ミヨリ。あなた悪霊に取り憑かれた人みたいに顔色がやばいわね」
付き添いで来ている香奈子が、笑いながら声をかけてくる。
お母さんは緊張とは無縁で、どんなときでも気楽に人生を謳歌していそうだよね。そう思いながら、ミヨリはジットリとした目で母親を見あげる。
「あ~っと、ミヨリ」
同じく付き添いで来ている茂則が、コホンと咳払いをする。
「誰だってはじめてのことは緊張するものだ。仕事をすれば、このさき何度も緊張することはあるだろう。これも経験だ。慣れていくしかない。その経験が、人生の役に立っていくんだぞ」
「お父さん」
ミヨリを気づかって、茂則は父親としての助言をくれる。
「それにムラサメさんもいるんだ。何かあったら助けてもらうといい。父さんと母さんも、ミヨリのことを見守っているからな」
茂則は穏やかに微笑んで、そっとミヨリの肩を叩いてくる。
「……お父さん」
……もしかしてお父さん、イベント会場まで来たのはムラサメちゃんがゲストとして参加するからじゃない?
そう思ったけど、あえてそこは追及しなかった。
隣にいる香奈子も首を振って「触れてやるな」と言っている。
ずっと心臓はドキドキしっぱなしだけど、まだ出番までは時間がある。会場内にはアビスソフト関連の展示物が飾られているので、そのことを考えるとソワソワして身体がうずいた。
「わかったわよ、ミヨリ。あなた会場の展示物を見てまわりたいのね?」
落ち着きのないミヨリを見て、香奈子はすぐにピンときたようだ。
「まだ時間もあることだし、好きなだけ見てくるといいわ。それで緊張がほぐれるかもしれないし」
「まぁ展示物を見てまわるのはいいが、きちんと時間までには戻ってくるんだぞ。それから他のお客さんにはバレないように気をつけるんだ。もしもバレたら、大騒ぎになるだろうからな」
茂則は眼鏡のブリッジを指先で押しあげながら唸った。
今となっては、ミヨリの知名度はかなりのものになっている。それにアビスソフトのイベントなので、訪れるのはミヨリと同じアビス信者ばかりだ。ミヨリの存在が表沙汰になれば、まちがいなく騒ぎになる。
「それじゃあ、行ってくるよ」
シュバッと椅子から立ちあがった。
気分転換をして緊張をほぐすためでもあるが、アビス信者の一人として是非とも会場内を見てまわりたい。
帽子とマスクで顔を隠して変装すると、楽屋の扉に手をかける。
「わたしもお父さんと一緒にその辺をうろついてるわね」
のんびりとした母親の声を背中に受けて、ミヨリは足を弾ませながら楽屋を飛び出していった。




