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3-8 十七歳の境界線【ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第3話 十七歳の侵攻

 駿河台のマンションの一室。

 分厚い防音扉に守られたその空間は、絶えず稼働を続ける無数のサーバー群が発する排熱と、冷徹な機械油の匂い、そして微かなファンの駆動音に支配されていました。

 しかし、その無機質な空間の片隅には、場違いなほど柔らかな「陽だまり」が存在しています。

 受験勉強という大義名分を掲げ、邦明のマンションに居座る時間が長くなった高校3年生の春。まさ子の家事能力は、もはや芸術の域に達していました。

 邦明が仕事から戻り脱ぎ捨てた上着は、いつの間にかクローゼットに収まり、風呂は最適な温度で沸き、胃に優しい夜食が当然そこにあるべきものとして並んでいる。

  まさ子は決して「やってあげました」という顔をしません。ただ、春の陽だまりのようにそこにいて、邦明の刺々しい疲れを、その柔らかな微笑みで包み込んでしまうのです。

  そして邦明のその日の身の回りの世話が終われば、静かに自分のことをしているまさ子。模試でも第一志望に余裕の判定を取り続けていて、まったく無理をしている様子はありません。

 まさ子が長年の通い妻生活で少しずつ持ち込んだ温かみのある北欧風のラグと、肌触りの良いクッション。その中心のラウンドテーブルには、今夜も東帝大の過去問と数式の羅列が広げられていました。

 まさ子はシャープペンシルを走らせながら、ふと視線を壁の時計へと移しました。

時刻は、午後十一時四十五分。

 カチ、カチ、と秒針が進むたび、学生鞄の底に沈めた小さなパッケージの重みが、まさ子の心臓を直接撫で上げるように存在を主張してきます。

 しいちゃんの言う通りでした。あの小さな箱があるという事実だけで、まさ子の中に「いつでも退路を断てる」という、女としての奇妙な余裕と、ひりつくような緊張感が同時に生まれていたのです。


 深夜零時少し前。

 重い扉が開く音がして、邦明が帰宅しました。

 「叔父さま、お帰りなさいませ」

 まさ子がパタパタと小走りで出迎えると、邦明は万年寝不足の目元をさらにくぼませて、驚いたように瞬きをしました。

 「まさ子、まだいたのか。遅くまで勉強ご苦労様……と言いたいところだが、こんな時間まで起きていては体に毒だぞ」

 「キリの良いところまで解いてしまいたかったのです。叔父さま、今日もお疲れ様でした」

 邦明がソファに深く腰を下ろし、ネクタイを緩めて息を吐く。そのひどく疲労した、けれど気を許してくれている無防備な姿を見るだけで、まさ子の胸の奥のザラメ砂糖が、甘く、熱く溶け出していくのを感じます。

 邦明が食事を終え、シャワーを浴びてリビングに戻ってきた時。 時計の針は、すでに午前零時半を回っていました。

  「あ……」 まさ子は、わざとらしくならないよう、あくまで自然に、小さく声を漏らしました。

  「叔父さま、ごめんなさい。数学に熱中していたら、すっかり時間を忘れてしまって……終バスの時間が、過ぎてしまったみたいです」

 邦明の動きがピタリと止まりました。

 壁の時計を見上げ、眉間に深いシワを寄せます。大人の男の顔に浮かんだ、明らかな狼狽と焦り。

「……しまった、僕も気付くのが遅れた。すまない、まさ子」

 邦明はすぐにスマートフォンを取り出し、画面を操作し始めました。

 「今からタクシーを呼ぼう。いや、こんな深夜に君を一人で乗せるわけにはいかないな。僕が一緒に乗って行くか。いや、僕の車で……」

「叔父さま」

 まさ子は、スマートフォンを操作する邦明の大きな手に、自分の小さな両手をふわりと重ねました。

 邦明の肩が強張るのが分かります。

 「お疲れのところ、夜中にうちまで往復なさるなんて、絶対に危ないです。明日の朝も早いのでしょう?」

 まさ子は、少しだけ首を傾げ、詩織直伝の「潤んだ瞳」で、真っ直ぐに邦明を見上げました。

 「私、今日はこのソファで仮眠を取らせていただきます。毛布を一枚お借りできれば、それで十分ですから」

 「馬鹿なことを言うな。大切な君を、こんな簡易ベッドにもならないソファで寝かせるわけにはいかない」

 「じゃあ、私が叔父さまのベッドをお借りします」

 「それは……っ、いや、そういう問題じゃなくてだな」

 邦明は言葉に詰まり、まさ子から視線を逸らしました。

 まさ子には、手に取るように分かりました。彼の中にある「大切な姪を深夜に帰すわけにはいかない」という過保護なまでの優しさと、「年頃の娘を自分の部屋に泊めるわけにはいかない」という大人の理性が、激しくせめぎ合っていることが。

 そして、その勝負は最初から決まっているのです。あの心優しく責任感の強い叔父さまが、愛しい姪の安全と体調を天秤にかけて、深夜の帰宅を強行できるはずがありません。


 「……叔父さま。お願いします」

 まさ子はもう一度、小さく囁きました。

 邦明は、深く俯いたまま、額に手を当てています。

 サーバーの駆動音だけが、部屋を満たしていました。

 やがて彼は、自分に言い聞かせるように、小さく呟きます。

 「違う……。」

 その声は、まさ子へ向けたものではありませんでした。

 「違うんだ。こんなことを続けていたら、君の人生を壊す。君はもっと……。」

そこで言葉が止まります。

 何度も言い聞かせてきたはずの理屈が、今夜だけは、まさ子を前にして、うまく出てきません。

 目の前にいるのは、守らなければならない幼い姪ではなく、自分をまっすぐ見つめる、一人の女性でした。

 邦明は長く目を閉じ、そして観念したように息を吐きました。

「……わかった。君が僕のベッドを使いなさい。」


 午前一時。 部屋のメイン照明が落とされ、間接照明の薄暗いオレンジ色の光だけが、ラグジュアリーな空間をぼんやりと照らし出していました。

 まさ子は、借り物の大きすぎるパジャマに身を包み、ソファに座る邦明の隣に、音もなく腰を下ろしました。

 邦明はバツが悪そうに、ロックグラスに入ったブランデーを静かに傾けています。

 二人の間に落ちた、濃厚で、ひりつくような沈黙。

 サーバーの駆動音だけが単調に響く中、まさ子の耳には、自分自身の心臓の音がうるさいほどに鳴り響いていました。

 隣から漂ってくる、少しビターなアルコールの香りと、大人の男の体温。

 「叔父さま。……お疲れ様。いつも、ありがとうございます」

 まさ子が静かに口を開くと、邦明はグラスをテーブルに置き、両手を組んで俯きました。

 「……よせ。礼を言うのは僕の方だ」

 邦明の声は、夜の静寂に溶け込むように低く、そしてひどく自嘲的でした。

  「……まさ子。君は、もっと自分を大切にするべきだ。僕みたいな、エスの血を引くクズに関わるのは、君の人生にとって何のプラスにもならない。君には、もっと日の当たる場所で、真っ当に前を向いて――」


 「クズだなんて、もう言わせません」

 まさ子の手が伸び、その細い人差し指が、邦明の自嘲する唇を、そっと、けれど有無を言わせず塞ぎます。

 二人の視線が重なります。

 ほんの数秒。

 まさ子は、唇に当てていた指をゆっくりと離しました。

 見つめ合ったまま、邦明の広い肩へ両腕を回します。

 そして、その唇を奪い、境界線を越えたのです。


 永遠にも感じられた時間が過ぎ、まさこはそっと唇を離しました。

 目を開けると、すぐ目の前に、少し驚いたような、しかし優しい邦明の眼差しがありました。

 その瞬間。 まさ子の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちました。 自分でも驚くほどの涙でした。

 悲しいわけではありません。

 怖いわけでもありません。

 四歳の春、彼に初めて叱られ、恋心を自覚したあの日。

 十三歳の春、お花畑で真っ直ぐに想いをぶつけたあの日。

 彼にふさわしい女性になりたくて、必死に勉強し、家事を覚え、背伸びをしてきたこの四年間の時間が、今、「拒絶されなかった」というたった一つの事実によって、歓喜の涙となって一気に決壊したのです。

 「あ……れ……?」

 まさ子は慌てて自分の涙を拭おうとしましたが、後から後から溢れ出して止まりません。しゃくり上げるような泣き声が、静かな部屋に響いてしまいます。

 「……泣くくらいなら、しなきゃいいのに」

 邦明の、温かみのある、少しかすれた声が降ってきました。

 「……だって」

 まさ子は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、邦明の胸にすがりつきました。 「だって、叔父さまが……、ちゃんと受け止めてくださるから……。嬉しくて……!」

 次の瞬間。 まさ子の細い背中に、大きな腕が回されました。 邦明が、まさ子を力強く、壊れ物を扱うように優しく、その腕の中に抱きしめ返してくれたのです。

 耳元で聞こえる、彼の早く、力強い鼓動。まさ子を包み込む、確かな熱と匂い。

 まさ子の勝利でした。

 今晩、カバンの中のお守りを使うことはありません。身体の関係は二十歳まで待つという自分との約束は、この先も守り通すつもりです。

 しかしこの夜、二人の魂は、「叔父と姪」という深い淵を飛び越え、確かな熱を持って結びついたのです。

 まさ子は、邦明の腕の中で至福の涙を流しながら、彼の背中に回した手に、そっと力を込めました。


(了)

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