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3-8 十七歳の境界線【ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第2話 十七歳の威力偵察

 パティスリーを出ると、街はすでに茜色の夕暮れに染まっていました。

 御茶ノ水駅から駿河台へと続く緩やかな坂道を登りながら、まさ子の胸は期待と恐れで早鐘のように打っていました。

 鞄の底にある小さな重みが、一歩足を踏み出して邦明のマンションに近づくごとに、まさ子に女の自覚を問うてきます。

(叔父さま。私、もう子どもではありません。ただあなたに笑顔を向けるだけの可愛い姪っ子では終われないのです)

 四歳の春、真剣な叱責を受け、叔父さまへの恋心を初めて自覚した日。

 十三歳の春、お花畑での告白、宣戦布告をした日。

 そして今、十七歳の春。

 静かな高台に建つ、無機質な高級マンション。ふだんの通り、インターホンは素通りして、まさ子は叔父さまから渡されているカードキーでエントランスを開け、郵便物を取って上階へと上がります。

 「叔父さまからこのカードキーを頂いたときも、しいちゃんにお世話になったのでした」

 まさ子は鞄にキーを戻しながらつぶやき、微笑みました。叔父さまが事実上の通い妻状態を認めてまさ子に合鍵を渡してくれてから、もう二年ほどになります。

 本人はほんわかと良い想い出のように回想していますが、実際にはこの合鍵を手に入れるため、まさ子は文字通り命を懸けたのです。


 高校一年生になったばかりのころ。まだ合鍵を渡されていなかったまさ子は、行くたびに邦明の在室を事前に確認してから部屋に向かうしかありませんでした。あの日も、邦明が家にいることを確認して、その日の夕食の鍋の材料を大量に買い込んで向かったのです。

 しかし折悪しく、まさ子からの連絡の直後に緊急事態が発生し、邦明は急遽外出することに。もちろん邦明はまさ子に電話をしましたが、買い物中の彼女は気づきません。留守電にならなかったため、邦明は「帰りが遅くなるから今日は実家に帰るように」とメールを送ったつもりでした。しかし、なぜかそのメールも届いておらず、まさ子はお野菜の山を抱えてほくほくしながらマンションへ到着してしまったのです。

 邦明は留守。携帯は圏外か電源が入っていないアナウンスで、仕事中であることはまさ子にも分かりました。しかし、しばらく待とうにも、お野菜の山を抱えてエントランスに居座るわけにもいきません。

 近くの喫茶店で時間を潰しましたが、そこも夜八時で閉まってしまいました。悪いことにその前日、邦明のところに入り浸るまさ子を心配した姉の凜と、少し強めの言葉で揉めてしまったばかりでした。そのため、この大量のお野菜を抱えて実家に帰ることは、まさ子には憚られたのです。

 行き場を失ったまさ子は、近くの公園で時間を潰すことにしました。しかし、無情にも雨が降り始めます。ようやく仕事から帰ってきた邦明が目にしたのは、雨に打たれてずぶ濡れになった、捨て猫状態のまさ子でした。

 すぐに部屋で熱いシャワーを浴びさせ、置いてあった着替えに替えさせたものの、まさ子はその晩、実家に帰ってから高熱を出し、救急搬送されてしまいます。診断は肺炎。幸い数日の入院で済みましたが、あと数時間遅かったら命に関わる重篤な状況だったと医師に告げられました。

 そんな死線を彷徨う状況にあっても、まさ子はベッドの上でぽやぽやと「あのお野菜の山、バタバタして置いてきてしまったけれど、叔父さまはちゃんと調理して召し上がったかしら」などと心配していたのです。

 この事態に黙っていないのが凜と詩織でした。

 しかし、二人の怒りのベクトルは全く違いました。姉の凜は「もう、まさ子を邦明のところには行かせない」と邦明にねじ込みました。他方、詩織は真っ向から邦明に対し「まさ子に合鍵を渡しなさい」と迫ったのです。

 今まさ子が手にしているこの合鍵は、彼女の入院中に、詩織が邦明の強固な理性をこじ開け、凜をも説得して勝ち取ってきた戦果だったのです。


 そんな命懸けの過去のできごとを、まるで絵本をめくるように優しく回想しながら、まさ子は邦明の部屋の前に立ちました。

 「今日、私は境界線を越えます」

 誰にともなく小さく呟いたその声は、春の宵の風に溶けて消えていきました。

 カードキーに反応してガチャリ、と重い扉の鍵が開く音。

 その先にあるのは、基盤の匂いと、膨大な排熱や電子音が響く無機質なサーバー空間。……いや、今ではその一角に、まさ子が長年の通い妻生活で柔らかい色の可愛らしい調度品を少しずつ持ち込み、愛しい人のために作り上げた温かな「陽だまり」が、確かにできていました。

 普段であれば、まさ子はその陽だまりの中で、ただ微笑んで彼の帰りを待つだけです。

 しかし、今夜のまさ子が持ち込んだのは、そんな日常を根底から覆しかねない、熱く重い「覚悟」でした。

 かといって、「二十歳になるまでは、一線を越えない」。それはあくまで、まさ子が自分自身に課したルールに過ぎません。まだそんな心配をする関係ではありませんでしたから、これまで邦明に伝えてもいません。

 もし今夜、自分の仕掛けた熱に当てられ、叔父さまの強固な理性のリミッターが限界を超えてしまったら。彼が自分を力強く求め、最後まで奪い尽くそうとするのなら。

 まさ子に、彼を拒絶するつもりなど毛頭ありませんでした。叔父さまが自分を求めるのなら、予定が早まろうが、自分がどれほど汚されようが構わない。すべてを捧げ尽くす。それこそが、彼女の本当の覚悟だったのです。

 親友の詩織もまた、まさ子のその底知れぬ情念と覚悟を完全に見抜いていたからこそ、最後の保険となる「お守り」を持たせたのでしょう。

 鞄の底の小さな重みをますます強く感じながら、まさ子は自ら作り上げたその陽だまりの中へと、一人の女として、静かに、そして確かな足取りで踏み入れたのです。


(了)

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