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3-8 十七歳の境界線【ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第4話 十七歳の戦果報告

 いつもの放課後のパティスリーで、まさ子は目の前に置かれた好物の苺のタルトをじっと見つめたまま、心ここにあらずといった様子で小さく息をつきました。

 あの夜の唇と抱擁の感覚が、数日たってもなお、まさ子の胸の奥のザラメ砂糖を絶え間なく甘く溶かし続けています。

 

 「……で?」

  コトリ、と向かいの席で川野詩織がダージリンティーのカップをソーサーに置く音がして、まさ子はふわりと我に返りました。

  「結局、私が渡した『お守り』、出番はあったの?」

 四年にわたる執念の片想い。その核心へとついに単独潜入を果たした親友の戦果を、詩織は値踏みするような、それでいてひどく楽しげな瞳で探ってきます。

 まさ子はいつものふんわりと、けれどわずかに熱を帯びた潤んだ瞳で微笑みました。

 「……ううん。お守りは、カバンの底で眠ったままでした」

 そのあまりの透明感とふわゆるな空気に、詩織は思わず天を仰ぎ、盛大にため息をつきました。

 「ちょっと、まさ子。あんなに完璧なお泊まりシチュエーションを私がプロデュースしてあげたのに、何もなかったわけ? まさか、本当に朝まで数学の解法について語り合ったとか言わないわよね?」

 「ふふ、さすがにそこまで無粋じゃありません」

 まさ子はいたずらっぽく笑い、フォークで小さくタルトを切り分けはじめました。

 「……でも、身体はまだ。それは、私が二十歳になってからのお楽しみです」

 「はあ……あんたのその、清純なんだか、計算高いんだか分からないところ、本当に怖いわ」

 詩織は呆れたように肩をすくめました。しかし、長年の付き合いである詩織の目は誤魔化せません。まさ子の頬がほんのりと桜色に染まり、纏う空気が先日までの「可愛い女の子」から、明らかに「一人の女」のそれへと変貌を遂げていることを、詩織は明確に読み取っていました。

 「それで? 何もなし、ってことはないんでしょ。あの頑固な叔父さまの理性が完封勝利だなんて言ったら、私、本気で怒るわよ?」

 詩織の追及に、まさ子はそっと自分の唇を指先でなぞりました。 あの夜の熱が、指先から蘇ってくるようです。

 

 「……唇を、奪ってきました」

 まさ子のその静かな一言に、詩織は飲みかけの紅茶を盛大に吹き出しそうになりました。

 「……えっ? 『奪われた』んじゃなくて、『奪った』の?」

 「はい。叔父さまが、またいつものように『自分はクズだから』なんて言って逃げようとするから……」

 まさ子は手元のカップを両手で包み込み、あの夜の光景を愛おしむように目を細めました。

 「もう、言葉なんていらないと思って。気付いたら、自分から」

 「…」

 「……その後……私、泣いちゃったんです」

 まさ子の声が、微かに震えました。

 「悲しいわけじゃないのに、涙が止まらなくて。そうしたら叔父さま、優しい目で……私を、強く抱きしめてくれました。……あんな叔父さまの目、初めてでした」

 まさ子の告白を聞き終え、詩織は完全に毒気を抜かれたように、深く息を吐き出しました。

 「……あんた、本当に凄いわ」

 詩織は、半ば呆れ、半ば心底からの称賛を込めて言いました。

 「見た目は小学生……まあ、百歩譲って中学生なのに、中身は完全な『捕食者』よね」

 「ほ、捕食者だなんて……怖いこと」

 「いいえ、捕食者よ。だって、これで叔父さまはもう、絶対に逃げられないわ」

 詩織は鋭い目で、まさ子を指差しました。

 「自分の姪っ子に泣きつかれて、唇まで奪われて。しかもそれを拒絶せず、抱きしめ返してしまった時点で、彼が死守してきた『叔父と姪』っていう理性の物語は完全に崩壊したのよ。あの誠実すぎる人が、自分がまさ子を受け入れたという事実を、なかったことになんてできるはずないじゃない」

 詩織の分析を聞いて、まさ子の胸の奥で、静かな、けれど決して消えることのない炎が燃え上がりました。

 「逃がすつもりなんて、最初からありません」

 まさ子の声は、甘いお菓子の香りが漂う店内で、そこだけ冷徹なまでに「本気」の響きを持っていました。

 「……ねえ、しいちゃん。私、もっと綺麗になります」

 まさ子は、ティーカップを見つめたまま、祈るように、そして誓うように言葉を継ぎました。

 「叔父さまが、二十歳になった私を見た時に、『もうこれ以上、一秒も待てない』って思うくらいに、絶対に綺麗になってみせます」

 その可憐な童顔からは想像もつかないほどの執念と情熱。

 詩織は一瞬、言葉につまった後、気を取り直して、 

 「はいはい、ごちそうさま」

 と、わざとらしく肩をすくめました。

 「川野製菓の新作ケーキより甘い報告、感謝するわ。そうそう、予想外の衝撃で、肝心のことを聞いてなかったわね。それで、どうだったのよ、ファーストキスのお味の方は」

 「ええと、触れた瞬間、少しカサついた大人の唇の感触がしました。その時邦明さんが飲んでいたブランデーの甘く苦い匂い。そして、驚くほど熱い彼の吐息を間近に感じて、、、」

 「ええい、生々しい。想像しちゃうじゃない。あんた官能小説家にもなれそうね」

 「しいちゃんが言えって言ったのに」

 まさ子は、唇を尖らせました。

 「でも、受験勉強の方はちゃんとなさいよ? 東帝大に落ちたら、叔父さまの隣に座る資格、半分くらい失っちゃうんだからね」

 「もちろんです」

 まさ子は顔を上げ、春の陽光よりも眩しい、一点の曇りもない笑顔を咲かせました。

 「ああ、まあちゃん。高一になって受験生向けの東大模試が受けられるようになってA判定5連勝?全部全国でのランカーだって?」

 「凜お姉さまはそれ全部1位、文系科目は全部満点ですから、私はそこまでは」

 「だって、学年が違うじゃない。もうレベルが違いすぎて、私にはどっちがすごいのか分からないわよ」 

 「お勉強のことは、大丈夫です。私は、叔父さまと同じ景色を見るために、情報科学の深淵まで潜るつもりですから」

 

 鞄の底に眠る「お守り」は、きっとあと三年、出番を迎えることはないでしょう。

しかし、十七歳の春にまさ子がたった一人で敢行したこの苛烈な威力偵察は、愛する人の理性を完全に打ち砕き、二人の関係を後戻りできない場所へと確かに押し進めたのです。


(十七歳の境界線 完)

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