ハッサンの荷
むかしむかしのこと。砂漠の宝石と称えられし、平安の都バグダート。そこに二人の商人が居ました。
一人はイドラという大変な金持ちの商人でした。何千頭ものラクダを所有して、あらゆる国へとキャラバンを送って、商売を仕切っていました。しかし、その心の奥底は欲望に汚れていて、体は醜く太り、顔つきは傲慢でした。この男はイスラムの教えを称えていましたが、それは他のイスラム教徒を騙すためだけのものでした。
コーランの言葉を文字で理解していながら、心で理解しようとしていない。アッラーの言葉を耳で聞きながら、従おうとしない。イドラは自らの欲のみに従う男でした。
もう一人の商人の名は、ハッサンと言いました。
彼は貧しいけれども、人柄は優しく、その心は純正で、アッラーの慈悲深さへの感謝を片時も忘れたことのない、敬虔な信徒の見本のような男でした。コーランで言うところの『純正な人』だったのです。おかげでいつも人に囲まれて、誰もに好かれました。
面白くないのはイドラです。バグダートの富という富を持ちながら、人が自分ではなくハッサンの周りに集まるのに我慢ができなかったのです。イドラはハッサンを陥れようと、策を練りました。
そしてある日、イドラはハッサンに、遠方の都市ダマスクスへのキャラバンを率いてくれるように頼みました。自分はバグダートでの仕事があって、行くことが出来ないから代わりにキャラバンを率いて行って欲しい、と執拗にハッサンに頼み込んだのです。
ハッサンは、慎ましいながらも、バグダートで商売をして食べていけていましたので、街を離れたくありませんでした。しかし、その心の善良さゆえ、嫌だとは言えず、ついにはイドラに押し切られてしまいました。
ダマスクスは遠い街です。バグダートとダマスクスの間には広大な砂漠が広がります。その旅路は、熟練したキャラバンの人間でも命を落としかねない過酷なものでした。
しかしながら、その長距離の交易で見込まれる利益もありました。
折しも、ダマスクスでは異教徒との戦に勝ったばかりで、戦勝の祭り真っ盛りでした。
遠い道のりですが、バグダートの品物を持ってダマスクスへ行くことができれば、高価な品でも売れて元は取れるのです。
出発の日、ハッサンはイドラから預けられた商品を目にしました。そして、ぎょっとしました。
ダマスクス人への戦勝の祝いの意味もある商品が、なんと、訳の分からないガラクタばかりだったのです。そんなものを遙々ダマスクスまで売りに行っても、とても買い手が付くとは思えません、それ以前に、ダマスクス人は侮辱されたと思って、腹を立てるでしょう。ハッサンの顔は潰されてしまいます。
かといって、ハッサンには自分で商品を揃えることのできるほどのお金がありませんでした。
さらに出発の準備を整えたキャラバンの内実を見て、ハッサンはもう一度、青くなりました。
キャラバンのラクダたちは、老いて脚の曲がったものや、病気のものが目立ちました。さらに頑健なアラブのラクダではなく、小柄で痩せたアビシニア(エチオピア)のラクダばかりなのです。
ご存じの通り、アラブの砂漠で他所の国のラクダは役に立ちません。ラクダは、その生まれた場所の砂を歩くようにできているからです。
イドラは役立たずの荷とラクダをハッサンに押しつけて商売を失敗させて、その責任を負わせるつもりだったのです。それに対してハッサンが出来ることは何もありませんでした。仕方なく、ハッサンは予定されていたとおりバグダートを出発しました。
旅は困難を極めます。ラクダは遅々として進みません。
さらに、季節外れの砂嵐にあったり、盗賊団に襲われたりしました。それでも、ハッサンはどうにかキャラバンを導いて西へ進みます。
しかし、イドラから預けられたラクダ乗り達は、旅が順調に行かないことを悟ると、夜のうちに姿を消してしまいました。残ったのはハッサンに忠実なわずかなラクダ乗りだけでした。しかも、水や食料まで持ち逃げされてしまったので、ハッサンのキャラバンは生死の境をさまよいながら進まなければなりませんでした。
どう見ても、ダマスクスへたどり着くことができるとは思えません。それでもハッサンは諦めず、ボロボロになりながらオアシスへとキャラバンを導きました。
ほとんど水もない涸れかけたオアシスでしたが、飢えと乾きに苦しむハッサン一行には、それが天国のように見えました。
オアシスには先客がいました。一人の怪しい男がハッサンを見ています。商人には見えない風体でした。かといって、盗賊とも思えません。
ここで会ったのも、アッラーの思し召しだろうと、ハッサンは腹を決め、怪しげな男に挨拶しました。
男の肌は真っ黒で、笑うと歯が光りました。こんな砂漠の真ん中にいながら、水煙草をゆうゆうと吸って、くつろいでいます。
ハッサンはわずかしかない食料を男と分け合い、一夜の宿を共にすることにしました。
食後の夕暮れ時。ハッサンは男に苦しい身の上を語りました。男は眉間に皺を寄せて、ハッサンの言葉にいちいち頷き、やがて助言しました。
「ダマスクスにて一からやりなおしなさい」
「……そうですね」
住み慣れたバグダートと、そこの親しい人々を思いながら、ハッサンは悲しげに同意します。キャラバンの遠征に失敗し、ダマスクス人の不況を買ったとあれば、バグダートにハッサンの居場所はありません。
「陽が沈む」
男は夕日を見つめて言います。ハッサンが立ち上がり、日没の礼拝を行おうとするのを、男が制しました。
「盗賊や悪霊が近づかぬよう、十分な火を灯しておこう」
男は言いました。ハッサンは怪訝な顔をします。
ハッサンのキャラバンは薪にも事欠いていました。対する男の荷は少なく、とても油や木をいっぱい持ち歩いているようには見えなかったのです。どうやって火を大きくするつもりなのでしょう。
男は、自分の帯につけたガラス瓶を開け、その中に詰まった黒い粉を種火に注ぎました。
たちまち、炎は天に届くほどの大きさへと燃え上がり、辺りを照らしたのです。
「妖術だ!」
ハッサンはうろたえて、震え上がりました。
砂漠には、邪悪なジン(悪霊)が住んでいて、人に悪さをすることは誰もが知っています。それだけではなく、妖術師がうろついていて、まじないをかけてくることもあったのです。ハッサンは妖術師の巣に踏み込んでしまったと思って、取り乱したのです。
「落ち着きたまえ。これは火薬というものだ。これを注ぐだけで、自在に炎の大きさを変えることができるのだ」
男は言って、黒い粉を示しました。ハッサンはおそるおそる黒い粉に触れ、それから男を見上げました。
「あなたは火を操れるのですか!」
「その通り。だが、これはまじないではない。木炭や硫黄を然るべき量、混ぜ合わせるだけで誰にでも作ることが出来る。これは科学によって作られたのだ」
「……科学?」
男は、アレクサンドリアで錬金術を学んでいると言いました。
男は、錬金術師なのです。
ハッサンも錬金術師について聞いたことがありました。バグダートにもそういう者がいて、学院にこもって、日夜、観測や研究を行っているといいます。
彼らは科学というものを探求しているのです。
「科学の目的は、この世界の仕組みを理解することだ。そして、わしは長いこと研究を続けて、ついに世界の真の姿を知ったのだよ。この世は完全に安定しているのだ」
「安定……しているのですか?」
「その通り」
錬金術師は熱っぽい口調で続けます。
「何かの作用が起これば、それを打ち消すように反作用が起こり、平衡を保つのだ。火が燃えることとて、その結果に過ぎない。どんな小さなことでも、バランスは自然に保たれる。どんなことでもだ!」
錬金術師は地面に跪き、天を仰ぎます。
「コーランにもあるだろう、『まことに神は、ちり一つの重さも不当に扱いたもうことはない』。それは完全に証明されるのだ。まっこと、この世は万有の主にして導きのみしるしを示したもう、アッラーの作られし世なのだよ」
ハッサンは男の言わんとしていることを十分に理解できませんでした。商人であるハッサンが知るのは、天秤の重さを量ることと、砂漠を越えることだけだったからです。
その夜、彼らは何事もなく乗り切ることができました。
明くる朝、目を覚まして間を置かず、ハッサンは悲鳴を上げました。
「み……水がない!」
夜のうちにオアシスが枯れ果ててしまったのです。キャラバンに補給する水は一滴も残っていませんでした。
「もうお終いです! 水がなくてはどうしようもありません! 私たちはここで乾き死ぬほかないのです!」
ハッサンは悲嘆の涙を流しました。
錬金術師は何も言わずに空を見上げていました。やがて、ハッサンに尋ねます。
「キャラバンの主よ、今は冬であったな?」
「……はい。冬です」
ハッサンは泣きながら答えます。
「冬の風はどちらから吹いているのか、知っているかね?」
「西から強い風が吹きます」
砂漠を渡る者は、砂を見て、風を見て、星を見て、進むべき道を見いだします。ハッサンは砂漠に吹く風を知っていました。
この季節、ハムシン(東風)と呼ばれる地中海からの強い風が、砂漠一帯に吹き荒れているのです。
「強い風……大気をかき混ぜるのに最適だな」
錬金術師はにやりと笑い、言いました。
「ここに、雪を降らせよう」
「……雪?」
「砂の上に水はなくても、空の上には水があるのだ。さあ、キャラバンの主よ、生き延びたくば、わしの言葉に従ってくれ」
錬金術師はハッサンを立たせて、彼のラクダを示します。
「君のラクダを、その場でぐるぐる回るように命じるのだ」
「ええ?」
「ラクダを回すのだ」
錬金術師の言葉はハッサンには理解不能でした。しかし、どうせこのままでは乾き死ぬのが決まっています。それなら、錬金術師のおかしな言葉に従おうと決めました。
ハッサンはラクダどもをその場で回転させました。砂煙が舞い上がる中、ラクダたちは従順に脚を上下させて、回ります。
「こうやって、一カ所で運動することで、熱は局所的な集約を見せるのだ。移動のせいで、気流が熱を冷却してしまうことを防ぐこともできる」
錬金術が呟き、一人で笑います。ハッサンは不安げな表情で回るラクダを見つめることしかできません。
やがて、暑くなってきました。
ラクダのような大きな動物がせっせと回っているのです。そこから生じた熱が辺りの気温を上げていきます。
ついには、空気が歪むような暑さになりました。
「錬金術師様、暑いです!」
「その通り。そして、わしの理論が正しければ、大気は対流を起こしている。地上の熱が、空の寒気を呼ぶのだ。世界は自らバランスをとって、この熱を冷ましてくれる!」
頭上からの風が強まります。空気が流れを作っているのです。
風は冷たくなり、強さを増していきます。ハッサンは身震いして、ミシュラハ(外套)を身に巻き付けます。
ますます風が吹き寄せる中、
「世界の仕組みを解き明かすことは、アッラーへの冒涜へと繋がりませんか!?」
ハッサンは怯えながら尋ねます。錬金術師は笑いました。
「何を言う! 全能なるアッラーの作りたもうた世界を、その一部とて学ぼうというのは、アッラーへの愛を示すことだ。これに勝る宗教的義務があろうか!」
錬金術師は空を指さしました。
「見ろ! 雪だぞ」
ハッサンは、はっとしました。白い綿のようなものが天から舞い降りてくるのです。思わず掌で受け止めました。それは鋭い痛みを残して、消え失せてしまいます。
この痛み……火傷かと思いましたが、違いました。
「……冷たい?」
「その通り」
「空から降る冷たいもの……これが雪なのですか?」
「ああ。雪だ。天からの水が降るときに凍ったものだ。空には目に見えぬ水が沢山浮かんでいる。それが降ってくるときに、風に触れて凍るのだよ」
雪は止めどなく降ってきました。
美しい。ハッサンは感動しました。
バグダートに生きる男女で、このような光景を見たことがある者はいないでしょう。
雪は降り続け、足下に白く降り積もりました。
「キャラバンの主よ、雪を持って行くがよい。道行く間に溶けて、水となろう」
ハッサン一行は素早く雪を水袋につめました。ハッサンは錬金術師の手を取ります。
「錬金術師様、命を救われました」
「いやいや、お主らがいなければ、わしもここで野垂れ死にしていた」
ハッサンは地平線まで覆う白い雪を見やって、錬金術師に尋ねました。
「私も、同じ事をすれば、また雪を降らせることができるのでしょうか?」
「その通り。それが科学というものだよ」
錬金術師は笑顔で言いました。それから、厳しい顔つきになり、
「ただ、用心せよ。砂の上に雪を降らすときには、決して低地にいないことだ」
ハッサンは錬金術師の言おうとしていることを理解して、頷きました。
「平安あれ」
両者は挨拶をして、別れました。
その後の旅も、決して楽ではありませんでした。それでも、ハッサンは不屈の意志で乗り切り、ついにダマスクスまで、あと一日の所までやってきました。
すると、ハッサンはキャラバンの人間に、ここまで運んできたガラクタを捨てるように命じたのです。
それから、オアシスでやったように、ラクダをぐるぐる回らせました。
たちまち、前回と同じように雪が舞い始めます。ハッサンは積もった雪を集めて、ラクダの背に山盛りにします。そして、ダマスクスの街に入りました。
ダマスクスから驚きの声が上がりました。いかなダマスクス人といえども、雪を見たことのある者はいなかったのです。
ハッサンが天から授かった商品は、大変めずらしがられて、高い値段で買い取られました。
さらにハッサンは雪を降らす方法をダマスクス人に教えたため、雪は町中に行き渡るようになったのです。貴人から物乞いまで、道行く人全てがハッサンを褒め称えました。
今でも、雪はダマスクスのあらゆる分野で活用されています。ダマスクス人の飲むソルベルテ(シャーベット)には雪が浮かんでいるのが有名です。
ハッサンのキャラバンは山のような財宝を積んで、故郷へ戻りました。
今度はバグダートの誰もが、ハッサンを、両都市の友好に貢献した人と称えました。




