8.箱庭のお嬢様
カイザーが砦に来てから早いもので一ヶ月が経った。夏の暑さがようやく弱まり、秋特有の爽やかな風が白薔薇を揺らすようになると、よりその甘い香りが立ち込めるようになった。
この一ヶ月でわかったことがいくつかある。
政務を放棄した悪女だと思っていた女は、毎日領地に関する書類の山に埋もれるほど忙しく働いていること。
大雨の日でも毎日欠かさず墓参りをするほど、亡き伯爵夫妻を深く大切に思っていること。
英雄を誑かしたと思っていた後妻の未亡人は、砦の使用人からまるで「直系の伯爵令嬢」のように深く慕われ、そして彼女自身もまた、使用人に対して敬称を付け、敬語で話しかけていること。
相変わらず喪服姿で一度も着飾らず、毎朝の墓参り以外に一切外出しないこと。
普段は澄ました顔で高慢な態度を取ってくるのに、たまに仮面が取れて子どもっぽく顔を赤らめること。
そして――どうしようもなく、目を奪われるほど美しいこと。
護衛対象に情を移すなど軍人としてあるまじき失態だ。これ以上あの厄介な女に関われば面倒になると、理性はけたたましく警鐘を鳴らしているというのに、どうしてこうも目で追ってしまうのか。
未だわからないことも多く、やはり謎の多い女だった。
カイザーは護衛として、はっきり言って暇を持て余していた。
毎朝の墓参りに同行する以外はエリシアナに付き添うことを求められることもなく、彼女は砦の三階南側の執務室にいることが多かったからだ。毎日顔は合わせるものの共に過ごす時間は思いのほか短く、カイザーは彼女の姿が少しでも見えないかと、砦の三階南側の窓をふと見上げる回数が日に日に増えていた。
カイザーが来てからの一ヶ月で、砦の周辺では更に四人の刺客を捕獲した。
砦の中に侵入しようと周囲を彷徨いていたり、墓参りに外出した馬車の後を付けていたりと、襲撃を受ける前にあっさりと見つけ出し、カイザーが単独で刺客を捕まえたのだ。
もちろん大人しく捕まるようなゴロツキ達ではないので死に物狂いで暴れたり逃げ出そうとしたりするのだが、カイザーは実力差を見せつけるように的確に急所をついて無傷で制圧していった。
最初の頃は、相手も懸賞金に目が眩んだ命知らずのため、必死の抵抗にたまに軽傷を負わされることもあった。だが、その大したことのない流血にエリシアナが傷ついたような、怯えたような顔をするので、できるだけ怪我をしないようにこれまで以上に神経を尖らせて立ち回るようになった。
ただ、隣の領地であるサイス領の領主がエリシアナに会わせろとしつこく砦にやって来るだけが唯一厄介だった。「東部の領主同士、親睦を深めるべき」というもっともらしい主張のもと、ガリオンの死後早々から幾度も押しかけていたらしい。体格が良く軍服を身に纏ったカイザーが冷酷に凄んで見せると、ようやく悪態をつきながら引き下がっていくのだった。
それでも一日の拘束時間は短く、やってくるゴロツキもカイザーにとっては大した脅威ではない。これまで生死を懸けて戦場を走り回っていた男には、圧倒的に物足りない職場だった。
――ダメだ、体が鈍ってしまう。
「護衛以外に何か仕事をくれ」
「は?」
カイザーはある日の墓参りの帰りの馬車の中で、思い切って直談判することにした。
「暇で暇でしょうがない。このままじゃ体が鈍るから体を動かす仕事がいい」
「命を狙われている私に向かって言うセリフとしては、いかがなものかしら」
「あんたにとって俺が暇なのはいいことだろ、それだけ安全ってことなんだから」
「……油断しないで。何があるかわからないんだから」
「だから、体が鈍ってたら咄嗟の時に動けなくなるかもだろ」
「……そんなに言うなら、考えておくわ」
*
直談判の結果、カイザーは砦内の訓練場に入る許可をもらった。
朝七時以降なら自由に利用していい代わりに、「砦の使用人兼兵士たちに稽古をつけてやってほしい」という条件付きで。
早速カイザーは砦の東側にある訓練場を訪れた。さすがは帝国の英雄ガリオン・カーズが有する訓練場とあって広さはもちろん、武器の種類や設備もしっかり整っていた。軍の訓練施設にも劣らない訓練場を備えている貴族邸が帝国内でどれほどあるだろうか。
カイザーが訓練場へ足を踏み入れた時には、既に何人かの男達が体を動かしていた。
「あの時はどうも」
体格の良い三十代前半ぐらいの茶髪の男に声をかけられた。カイザーは男の顔を数秒凝視し、いつ自分がこの男と面識があったのか思い出した。
「あぁ、俺がここに初めて来た時に一番最初にやり合った……」
「よくわかったな」
「記憶力がいいもんで」
「さすが、エリート軍人様は違うな」
「怪我はもういいのか?」
「おかげさまで、なんともない」
二人のやり取りを他の男達も手を止めてじっと見ていた。目の前の男も含めて皆、カイザーが信用に値する人間なのか探るような鋭い目つきだった。ここの人間はあの女に似てみんな警戒心が強い。
「領主夫人サマにはここの使用許可はもらってるんだが、俺も使わせてもらっても構わないか?」
訓練場には十人程度の男達が手を止めてカイザーを黙って見ていた。なんと答えるべきか、誰が答えるべきか、推し測っているようでもあった。
「あぁ、いいぜ。ハーマン執事長からも言われてるからな、中尉殿に稽古つけてもらえって」
結局口を開いたのは、最初にカイザーに声をかけてきた茶髪の男だった。どうやらこの中ではリーダー格らしい。
「よかった。あれ以来あんまり体を動かせてなくてウズウズしてたんだ。この人数ならまとめて相手できるが、どうする? あの日のおさらい、させてやろうか?」
「ハハッ、お嬢様の言ってたとおりだな」
「気になるな、なんて言ってたんだ?」
「“ムカつく男“、“いつかあのふざけた顔を歪ませてやる“ってな」
「女にそんなことを言われるのは初めてだ。あんた達が俺の顔を歪ませてくれるのか試させてやる。こいよ」
一ヶ月前、砦に足を初めて踏み入れた日の再現が始まった。
*
「久しぶりに思いっきり動いてスッキリした〜。やっぱりちょっと動きが悪くなったな」
身体を伸ばしたり肩を回したりしながら、軽い運動を終えてスッキリした顔のカイザーが訓練場の真ん中に立っていた。
その周りには息を切らし、膝に手をついたり地面に転がったりしている男達の無惨な姿があった。
「あんた……バケモンだな」
額から滝のような汗を流し、茶髪の男がカイザーを恨めしそうに見上げていた。
「それほどでも。あんたも前回より動きが鋭くなってたな。名前は?」
「アイザックだ。本業は庭師」
「庭師?」
「ここではみんな副業してんだよ。そこの男は門番だし、あっちで転がってんのは厨房係だ。専業の兵士はいねぇ」
「へぇ〜、副業であの動きはすごいな。見る目が変わったよ」
「ま、みんな旦那様にしごかれたからな」
この白薔薇砦には驚かされてばかりだ。使用人に化けた少数精鋭の兵士だと思っていた男達が、使用人が本業で副業が兵士だったとは。
「ここの使用人はな、募集制じゃねぇんだ」
聞いてもいないのに、アイザックの方から口を開いた。どうやら拳でやり合った事で、帝都から急にやってきた軍人への警戒心を解いて少しは気を許してくれたようだ。
「旦那様が直接スカウトするか、既に働いてる使用人の紹介じゃねぇとただの雑用係にだってなれねぇ。ここで働かせてくれって直接頼み込んでくる奴が後を絶たないが、全部断ってる」
「それでこの広さに対して人が少ないのか」
「あぁ。身元がしっかりしてること、本人の人柄や能力、家族の情報まで全部調べた上で完全に信用できる奴しかここでは働けねぇ。採用されても暫くは査定期間だ。賃金は相場の三倍だが危険も伴う」
「まるで皇城の近衛兵だな」
「だからこそ、あんたがいきなりやって来て俺らは身構えたんだよ。いくら中央のエリート軍人サマだろうと、素性がわからねぇ上に帝都から来るってんだからな」
「それは俺も同意だ。青天霹靂の人事だったからな、俺の方が何でここに呼ばれたのか知りたいくらいだ」
アイザックは徐ろに立ち上がり、カイザーの正面に立った。その顔は先ほどまでの敵意ではなく、同じ「護衛」としての強い信頼が込められた表情だった。
「俺だってそこそこの経験と人を見る目は持ってるつもりだ。だからこそ、あんたなら……お嬢様を任せられると思う」
"お嬢様"の単語が発せられた事で、カイザーはそれまでの飄々とした態度をスッと引っ込めた。
「言っておくが、俺たち使用人はお嬢様の本当のところは聞かされてねぇから知らん。だが、あの旦那様が険しい顔で俺たちに頭下げてきたんだ、"この子を守ってくれ"ってな」
あの帝国の英雄が使用人に頭を下げてまでエリシアナを守ってくれ?一体どんな凄惨な事情があったというのか。
「今でこそお嬢様は立派に領主代理として立っておられるが、ここに来た時は……立ってるのもやっとで、声も失くしてたんだ」
「え?」
「心の傷が癒えて、声が治るのに一年かかった。初めてお嬢様の声を聞いた時は砦の皆で泣いて喜んだもんだ」
声を失っていた。
カイザーの胸の奥が、ギリッと鈍く痛んだ。
初対面で銃をぶっ放すような気の強い、危ない女だと思っていた。カイザーに対しては高慢で、ちょっと揶揄えば皮肉でやり返してくるあの勝ち気な女が、声すら出せなくなるほどの心の傷を抱えていたなんて。
「だから、頼む。お嬢様を守ってくれ。あんたならできるはずだ、ダルトン中尉」
「あぁ、言われなくともそのつもりだ」
アイザックが出してきた右手を、カイザーは強く握り返した。
「今はまだお嬢様もあんたに対してキツい態度を取ってるが、大目に見てやってくれ。警戒心が強い故のってやつだ」
「あぁ、わかってる。ツンケンして毛を逆立ててる山猫みたいで、可愛いよな」
バシッ!
その瞬間、アイザックは差し出してきた右手を思いっきり薙ぎ払ってきた。
「あんたが一番危ないかも知れねぇ」




