9.忍びよる影
その日は秋雨が三日続いた後の暗い曇天の空模様だった。
カイザーとエリシアナは日課の墓参りでリューゲンの丘へ向かうため、ディオスの街を抜けたすぐ先の街道を馬車で走っていた。いつものようにカイザーが軽口を叩き、エリシアナが淡々と返し、それにまたカイザーが揶揄っていたところ、馬車が大きく揺れた。
「どうした!」
カイザーは、咄嗟に正面に座るエリシアナを押し倒すようにして覆い被さりながら、外の馬夫へ叫んだ。
「申し訳ありません! 雨で地面がぬかるんでいる所に車輪がはまってしまって……」
「……」
襲撃が頭をよぎった二人が同時に息を吐いた。と、同時に今までにないほどの密着した距離に、先に反応したのはエリシアナだった。
「も、もう大丈夫だから……っ」
「怪我は?」
距離を取るように顔を背けたエリシアナの耳に囁くように、カイザーはわざと低い声で気遣うように尋ねる。
彼女はぎゅっと唇を噛み、視線は頑なにこちらを向けようとしなかった。
「……ないわ」
そっぽを向いたエリシアナの小ぶりな耳がみるみる赤く染まっていく。それをカイザーは揶揄いたくて仕方がなかった。彼女からほんのり薫る薔薇の香りを胸に吸い込み、その赤い耳に触れていつも強気に睨んでくる碧い瞳を潤ませてみたかった。
しかし、残念ながら今はそれよりも自分たちの足をどうにかせねばならない。離れ難い思いを断ち切り、エリシアナから離れたカイザーは馬車を動かすため外に出た。
すると、エリシアナも続いて外に出てきた。
「何で出て来る」
「馬車を人力で動かすのでしょう。私が乗っていない方が軽くて動かしやすいじゃない」
「別にあんた一人ぐらいどうってことない。汚れるし危ないから中にいろ」
「ちょうど外の空気を吸いたい気分だったの」
本当にこの女は変わっている。大抵の貴族は男女問わず雨で足下が悪い地面に降りるのも嫌がって、ふんぞり返って中から「早くしろ」とせっついてくるのに。
こういう時のエリシアナは素直に言うことを聞かないことはもうわかっていたので、カイザーはため息をつきながら軍服の上着とサーベルをその身から解いた。
「邪魔だから預かっててくれ」
有無を言わさずエリシアナに押し付けると、カイザーはシャツの袖を捲り上げながら馬夫と共に馬車を動かし始めた。
*
馬車から少し離れた所でエリシアナは立ち尽くしていた。
先ほど馬車が揺れた際の不可抗力で近くなった距離に、早鐘のような鼓動がまだ鳴り止まない。咄嗟に庇われた時に触れた腕の熱と、鼻先を掠めた男らしい香りが頭から離れない。
今は、視線の先で薄着になった男の逞しい背中や、捲り上げたことで露わになった肘先に血管が浮き出ている様から目が離せなかった。艶のある黒髪が汗で少し張り付き、いつも自分を揶揄うふざけたような目が今は真剣に一点に集中している。
その姿から、どうしても目が離せなかった。
腕の中にある軍服がやけに熱く重い。
「あの、お花いりませんか?」
いつの間にかエリシアナのすぐそばに、六〜七歳くらいの女の子が花籠を持って立っていた。エリシアナを見て、まるで初めて宝石を見たかのようにキラキラとした瞳でこちらを見上げている。
その純真で健気な少女の姿が、過去の悲惨だった自分と重なって見えた。
いつもなら子どもであっても他人から物を受け取ることはしないエリシアナだったが、今のエリシアナはいつもの冷静な彼女ではなかった。
「ありがとう、おいくら?」
「えっと、お金はいりません! もう貰ったから!」
「え?」
「何してるんだ?」
花売りの少女から花籠を受け取ったちょうどその時、馬車を引き上げ終わったカイザーがやってきた。
「あ、お花をこの子からもらって……」
「花?」
その瞬間、カイザーの顔から一瞬で血の気が引いた。
カチ、コチ。
花籠の底から機械じみた音を感覚の鋭いカイザーの耳が拾った。
時間にして三秒もなかっただろう。
カイザーはエリシアナの手から花籠を奪い取って投げると同時に、彼女の手から己の軍服を広げてエリシアナと少女を頭から覆い被せた。更に自身の身体で二人を地面に強く押し倒し、完全に伏せた。
その直後、長閑な東部の曇天の空に、空気を鈍く殴ったような爆発音が鳴り響いた。
*
「……やはり来ましたね」
俄かに騒然とした砦内の三階南にある執務室にはブラッドとメアリー、そしてエリシアナが深刻な顔で向き合っていた。
「私としたことが油断してしまいました。この五年、旦那様に守られていたからって、あんな不用意に他人を近づけてしまうなんて」
「ご自分を責めないでください。あの状況下では無理もありません」
「そうです、まずはお嬢様がご無事で何よりです。中尉殿がいらっしゃらなかったら今頃……」
ブラッドとメアリーはそうなっていた可能性に全身が急速に冷えていった。カイザーがいなければあの場で少女諸共爆散していただろう。
「あの女の子は?」
「相当なショックだったのか、暫くは放心状態でしたが怪我もなく、母親の姿を見て泣き出しました。黒薔薇の報告によると、ディオスの外れにある貧しい一家の娘で、父親は小麦農家に働きに出かけており、母親は身重で家にいたと。少女は街の広場で一人遊んでいたところにフードを被った黒ずくめの男に声をかけられたそうです。『この花をもうすぐやって来る貴族に渡してくれるならお小遣いをあげよう、そうすればパパやママが喜ぶ』と言って。……暫くはこの一家の動向を【芽】に監視させます」
メアリーが報告書を読み上げながら、更に続けた。
「馬夫のジェンソンにも事情聴取を行ったところ、馬車がぬかるみにはまる直前、小動物のようなものが馬車の前に飛び出してきたそうで、それを避けようとして泥に車輪が取られたと証言しています」
「これは……かなりの周到さですね。あの道はリューゲンの丘に唯一繋がる馬車道ですし、馬車も当家のものとわからぬよう偽装していたのですが」
ブラッドが口元に手を当て、深く考え込んだ。
賞金狙いのゴロツキはエリシアナの顔を知らない。だからこそ砦周辺を彷徨き、砦から出て来る全ての馬車の後を付けるという手口だった。
しかし、今回は明らかに「エリシアナが乗った馬車があの道を通る」ことを知った上で仕掛けてきた。こちらの動向が完全にバレている。
エリシアナは固く組んだ腕に爪がめり込むのも気にならないほど、激しい自責の念に駆られていた。
自分がいるといつも周りに危険が及ぶ。ずっと砦の中に引き篭もったところで、次はどんな手を仕掛けてくるのかわからない。もういっそ、ここから出て行った方が――。
呼吸が浅く目の前が真っ暗になりかけた時、バンッ!と、ノックも無く勢いよく執務室の重い扉が乱暴に開け放たれた。
「……ここには立ち入るなって言われてなかった?」
「さぁな、どうだったっけか」
今までになく鋭く冷たい目をしたカイザーが、ズカズカとエリシアナの目の前までやってきた。
「いい加減話せ」
「……現場検証は済んだの?」
「話を逸らすな」
カイザーは爆発直後、興奮する馬を馬車から切り離すと、エリシアナと少女を抱え騎乗で一目散に砦へと駆けた。二人を砦の中に届け、医者を呼ばせると自分はそのまま一人、現場へ戻ったのだった。
「あんた、初めて会った時言ってたよな。"こんな美丈夫の軍人風情を送り込んできて"って。……あんたの命を狙って、送り込んできた奴がいたんだろ」
「そんなこと、言ったかしら」
今度はエリシアナがとぼける番だった。
「今回の手口は明らかに今までと違う。戦場でもよくある子どもを使った巻き添え型の囮作戦だ。ただの賞金稼ぎの手口じゃない、あの時聞いた話が変わって来るだろ」
執務室は一触即発の空気だった。ブラッドもメアリーも身動き一つ出来なかった。ただ、どちらの気迫が優勢かは誰の目にも明らかだった。
「……そうね、あなたには話していないことがいくつかある」
やはりエリシアナが観念して白旗を上げた。
「全ての事情を明かさず任務を引き受けさせたのは申し訳なかったわ。あなたにとって理不尽な辞令だったでしょうし、私からヴァルツァー少佐には話を通しておくわ」
「おい、どういうつもりだ」
「私、これでもそこそこ力があるから責任もってあなたを中央に戻してあげ――」
「そんなこと言ってねぇだろ!!」
空気を震わせるようなカイザーの腹からの怒鳴り声に、エリシアナはビクッと肩を跳ねさせた。
「俺の話じゃなくて、あんたの話が聞きたいんだ」
怒りから出る言葉ではなかった。エリシアナを真っ直ぐ捉え、懇願するような声音だった。
幾多の死線を潜り抜けてきただろうに、彼女を永遠に失ってしまうかもしれなかった暗い可能性に、彼自身がひどく怯えているように聞こえた。
「そうじゃないとっ……俺が、あんたを守れない」
最後の言葉は、絞り出すような掠れた声だった。
女性不信で、他人に深く関わることを避けてきた彼が。
いつも飄々として、エリシアナを揶揄ってばかりの彼が。
得体の知れない泥沼に自ら踏み込んででもエリシアナを守りたいと訴える、切実な本音だった。
その声は、エリシアナの胸の奥底を震わせるほど、深く、痛いほどによく響いた。




