10.エリシアナ・カーズ
――私の人生は逃亡の連続だった。
ポツリとこぼれ落ちたその言葉を皮切りに、エリシアナはゆっくりと自身の過酷な過去を語り始めた。
*
物心がついた頃には、帝国北東部の農村の寂れた小さな家で母と従者の男と女の四人の生活だった。なぜ父はいないのに家族ではない男と女がいるのか、幼いエリシアナは気にならなかった。ただ、母はその男と女より身分が上なのだということは、子どもながらにわかっていた。
生活に余裕はなかった。皆いつも何かしら働いていた。六歳になったエリシアナも母達の仕事の手伝いを始め、従者の女を供にして人通りの多い場所まで出かけて花を売ったりもした。
家の中では母がエリシアナに文字の読み書きや計算を教えた。勉強だけでなく、食事のマナーや挨拶の仕方、日常動作での美しい所作など、到底農村の一般的な平民には必要のないことまで厳しく仕込んだ。
「どうしてこんなことも覚えなきゃいけないの?」
「いつか必要になるかもしれないからよ」
「どうしてお母様と、私の髪の色や目の色が違うの?」
「……あなたは、特別だからよ」
六歳のエリシアナには母の言っている意味がよくわからなかった。母はエリシアナと顔立ちは似てとても美しい人だったが、色素の薄いミルクティ色の髪にオリーブ色の瞳だった。
ある日の夜のことだった。薄っぺらい寝具に包まって寝ていたエリシアナを母が叩き起こした。
「今すぐ出かける準備をしなさい」
「ん〜どうしてぇ? まだお外真っ暗だよ、眠たい……」
「だめ! 今すぐに!」
これまでにないほど焦り、何かにひどく怯えたような母の剣幕にエリシアナはびっくりして泣いてしまった。朝日が昇る前、最低限の荷物を片手に数年間住んだ家を後にした。
エリシアナが十一歳になった頃には、両手では数えられないほど夜逃げ同然に住処を転々としてきた。エリシアナは今自分が帝国のどこにいるのか、故郷とは何なのかわからなかった。
相変わらず母と従者の男女の四人の生活だったが、エリシアナは大人達の間に流れる空気にギスギスした不穏な空気が流れていることを何となく感じていた。自分が普通の子どもとはかけ離れた生活をしていることはもう理解しており、母と従者の男の関係が以前より悪くなってきたことも肌で感じていた。
「もう無理だ、いつまでこんな生活しなきゃならないんだ」
「そんなこと言わないでよ、お嬢様のせいじゃないでしょ」
「いくら昔に世話になったからって限度があるだろ。もう十分恩は返せただろ」
「“あの方“の命でもあるのよ、そんな簡単に投げ出すなんて。報酬もいただいたでしょ」
「あぁいただいたさ、だがもう十一年だぞ。十一年に見合う報酬か? 俺にだって家族がいるんだぞ」
従者の男女が声を潜めて何か言い争っているのを物陰からエリシアナは聞いてしまった。
あぁ、自分たちはこの二人にとても迷惑をかけているんだ、と。
それから一ヶ月もしない頃、母と二人でいた所に黒ずくめの集団に襲われ、追い詰められた先で母と共に崖下の川へ身を投げた。
流れ着いた河岸でエリシアナが気がついた時には母の体は傷だらけで既に息はなく、エリシアナの体は奇跡的に擦り傷程度だった。十一年一緒にいた従者達は、いくら助けを叫んでもどこにもいなかった。
*
冷たくなった母の傍らで泣き疲れたエリシアナは、通りすがりの村人に保護され、身元不明の孤児として教会の孤児院へ引き取られた。
生前の母から「決して素性を知られてはいけない」と繰り返し言い聞かされていた彼女は、自分の名前すら頑なに言おうとはしなかった。母がつけてくれた愛称すらも口にしなかった。
透き通るような白い肌、目を惹く金髪と深い碧い瞳。農村の孤児たちの中では異質なほど美しく、母から叩き込まれた気品ある所作は隠しきれるものではなかった。同年代の子ども達の中では浮いた存在でいじめの対象になることも多々あり、年上の男たちからは不躾でいやらしい視線をいつも感じ、常に身の危険と隣り合わせの生活だった。
しかし、エリシアナにとって一番の恐怖は、いつ現れるかわからない「黒ずくめの追手」だった。
不審な人物が孤児院を訪ねてくる度に彼女は隙を見て逃げ出し、別の街の孤児院へと身を寄せる。泥水をすするような放浪と逃亡の生活をエリシアナは二年ほど続けた。
十三歳になったある日。身を寄せていた孤児院に、これまでの追手とは違う整然とした身なりの騎士たちが現れた。逃げる間もなく「保護」という名目で捕らえられたエリシアナは、豪奢な馬車に乗せられ帝都の奥深くにある壮麗な屋敷へと連行された。
恐怖で震えるエリシアナが通された部屋にいたのは、幼い彼女でもわかるほどの高価な服を着て、圧倒的な威厳を纏った壮年の男だった。
男はエリシアナの金髪と碧眼を見た瞬間、顔を歪め、その場に膝をついて顔を覆いながら痛切な謝罪の言葉を口にした。
「すまない。父親でありながら、お前たちに何もしてやれなかった。危険に晒してしまった……」
ここで初めて、エリシアナは自分を執拗に追っていたのが、男の正妻――この国で最も強大な権力を持つ一族の者であることを悟った。男は至高の権力者でありながら、政治的なしがらみから、実の娘であるエリシアナを公に認めることも、手元に置いて守ることもできなかったという。
男はエリシアナの命を守るため、個人的な伝手を頼り、海を隔てた遠い島国への亡命を手配した。国家間の問題にならぬよう、あくまで極秘裏に。信頼できる老夫婦を世話役に付けられ、エリシアナは祖国を捨てることになった。
遠い島国での生活は、これまでの逃亡生活が嘘のように穏やかだった。
身分を隠して暮らす小さな家で、老夫婦はエリシアナを実の孫のように可愛がってくれた。基礎的な教養も勉強も老夫婦が教えてくれた。
時折、海を越えて「匿名の支援者」から書物や身の回りのものが届いた。明日の命を心配しなくていい日常の中で、エリシアナは少しずつ人間らしい感情と笑顔を取り戻していった。
しかし、その平穏は永遠には続かなかった。
彼女が十九歳になろうとしていた頃、完全に身を隠せていたはずの島国の家に、突如として数人の賊が押し入った。強盗を装ってはいたが、彼らの刃は明らかにエリシアナの命だけを狙っていた。
その時は運良く、老夫婦の機転と近隣の目があったことで辛くも逃げ延び、島内の別の隠れ家へと身を移すことができた。だが、正妻の執念がとうに海を越え、自分を見つけ出していたという事実は、エリシアナを再び深い恐怖の底へと突き落とした。
一方、海を隔てた帝国で最初の襲撃の報告を受けた「父親」は絶望した。
もはや国外であっても、正妻の魔の手から娘の安全は保障できない。表立って軍を動かせない彼は、最も信頼するかつての武術の師であり、亡き父の親友でもある男――ガリオン・カーズに極秘裏に泣きつき、エリシアナの救出と保護を託した。
だが、ガリオンが島国へ到着するよりほんの少しだけ早く、正妻の放った本隊の暗殺部隊がエリシアナたちの新たな隠れ家を強襲した。
逃げ道を塞がれ、これまで優しくしてくれた老夫婦がエリシアナを庇い、彼女の目の前で凶刃に倒れてしまう。優しかった二人が物言わぬ姿に変わってしまった瞬間、十一歳の時の母の死の記憶が鮮烈にフラッシュバックし、エリシアナの精神は完全に限界を超えた。
悲鳴すら上げられないほどのショックに襲われ、彼女の喉は凍り付き、ついに声を失ってしまった。
暗殺者の凶刃が、声もなく震えるエリシアナへ振り下ろされようとした、絶体絶命の瞬間だった。
閃光のように現れ、暗殺者たちを瞬く間に薙ぎ払った巨漢の男がいた。
「遅くなってすまなかったな、お嬢ちゃん。もう大丈夫だ」
血まみれの部屋の中でガタガタと震え続けるエリシアナを、男は自身が羽織っていた大きなマントですっぽりと包み込んだ。
「俺はガリオン・カーズ。……昔、俺が武術を教えた不肖の弟子から泣きつかれたんだ。あいつの親父さんには若い頃に死ぬほど世話になった、親友だった縁だ。親友の孫娘は俺の孫娘でもある。見捨てるわけにはいかん」
男――帝国の英雄ガリオンは、安全なはずの異国ですら命を狙われたエリシアナを匿うため、遥々帝国から急行してきたのだ。
「俺の愛する妻はもう随分前に病気で逝ってしまって、むさ苦しい砦だが……白薔薇がいっぱい咲いて綺麗なところだ。そこなら、俺の目の黒いうちは、絶対に手出しはさせん」
ガリオンは、声を失い虚ろな目をした彼女を連れ、帝国東部の辺境――白薔薇砦へと向かう。
こうして、彼女は声を失ったまま「エリシアナ・カーズ」として、二度目の過酷で新しい人生を歩み始めるのだった。
*
「旦那様はそれから私を養子ではなく、後妻として保護してくれた。血のつながらない養子より、領主夫人という立場の方が権限も守られるから」
エリシアナはこれまでの壮絶な生い立ちを悲痛な面持ちでカイザーに語って聞かせた。
「裏社会に賞金をかけられたのはここに来てしばらくしてから。ただ、これは本気の暗殺というより、私と旦那様への嫌がらせと言う意味合いが強いわ。私が砦の奥に引き篭もって手が出せないから、ゴロツキたちをけしかけて、少しでも精神的に追い詰めようとしているの」
エリシアナは沈黙を保つカイザーが拒絶の言葉を発するのを恐れるかのように、あえて彼の反応を見ないようにして畳み掛けるように語り続けた。
「向こうにとって最大の障壁だった旦那様が亡くなって、ようやく動けると思った矢先に中央からあなたが来たから、向こうも焦ったのでしょうね。あなたの実力を試す意味も込めて、今朝のようなことを仕掛けてきたのよ」
いつもより明らかに早口になったエリシアナは、なおも言葉を続ける。
「どう? これでわかったでしょ。何も知らないあなたには荷が重いわ。いきなりこんな田舎まで来させられて、ろくな情報も与えなかったのは本当に申し訳なかったし、こちらに非がある。だから、ヴァルツァー少佐と中央本部にはこちらから話を通しておくからあなたはもう――」
「さっきも言っただろ」
これまで静かに話を聞いていたカイザーが、低く通る声でエリシアナの言葉をピシャリと遮った。
「中央に戻せなんて一言も言ってない。あんたの事情と敵がどんな奴らかさえわかれば、やりようはいくらでもある」
「一歩間違えればあなたが死んでいたかもしれないのよ!」
「死にかけたことなんて今まで何度も経験してる」
「今度は本当に死んでしまうかもしれないじゃない!」
「あんたがそうなるよりは100倍マシだ」
「っ、な、なんでそんなこと言うのよ……っ」
激昂するわけでもなくただ淡々と、しかし絶対の意思を込めて放たれた言葉に、エリシアナは息を呑んだ。
「ガリオンがずっと守ってきたんだ。簡単に自分の身を危険に晒すような真似はするな」
まっすぐにエリシアナを射抜く紫紺の瞳に、誤魔化しようのない真摯な熱が込められていた。
エリシアナは喉奥が熱い塊で塞がれたようになり、言葉を出せなくなった。
「俺は今まで任務を途中で放り出したことも、失敗したこともない。あんたを守ると決めたら守る。……言っておくが、俺もあんたに負けないぐらい頑固だからな。これ以上あんたに何を言われても曲げないから」
もうこれ以上の反論は聞き入れないというように、カイザーは踵を返して執務室から出て行った。
扉の向こうへ消えていくその背中はひどく大きく頼もしく見えて、エリシアナはかつて絶望の淵でガリオンが助けに来てくれた時のことを思い出した。
その逞しいシャツ姿の背中に、爆風による汚れと赤黒いシミがうっすら広がっているのが、彼を真っ直ぐ見つめていたエリシアナの目に入った。
――怪我してるじゃない、ばか。
痛みを微塵も顔に出さず、ただ自分を守るとだけ告げて去っていった不遜な男。彼の背中の血を見た瞬間、エリシアナの胸が息ができないほど激しく締め付けられた。
静まり返った執務室で、エリシアナはどうしようもなく込み上げてくる涙を止められなかった。控えていたブラッドとメアリーは何も言わず、ただ優しく微笑みながら、彼女が泣き止むまで静かに寄り添い続けてくれた。




