11.背中に触れる熱
カイザーは与えられた自室のベッドに日中の姿のまま沈んでいた。脚をベッドの外に投げ出し、片腕で目を覆って深いため息をついた。
先ほど執務室で聞いたエリシアナの生い立ちは予想していたよりも衝撃的で、彼女のこれまでの二十数年を思うと胸が痛むなどという言葉では足りなかった。
エリシアナは結局実の父親の名前は言わなかった。だが、口には出さずともカイザーには思い当たる人物が一人しかいなかった。そして誰がエリシアナの命を狙っているのかも。
――守れるのか。
執務室では偉そうなことを言ったくせに、一人になった今、カイザーは珍しく弱気になっていた。
いつも澄ました顔で強がっている女が沈んだ顔で小さな手を振るわせながら秘密を打ち明けた。それは勇気のいることだっただろう。そして、護衛のカイザーの身を案じてわざと遠ざけようとする健気さに、胸が締め付けられて咄嗟に啖呵を切ってしまった。
守りたいと思ってしまった。この思いは、すでに任務の域を完全に超えている。
かつて婚約者に裏切られて以来、女という生き物を信じられず適当な遊びで済ませてきた自分が、なぜあの女に対しては守りたいと、大切にしたいと思ってしまうのか。もう、答えはわかっていた。
だがその女の敵は厄介なんてものじゃなかった。
相手は巨大で自分なんて蟻のような存在だ。帝国の英雄が今も健在なら、今朝のような卑劣な爆殺を企てられることもなかっただろう。自分にガリオンのような力があれば。あの華奢な体で命を狙われながら街一つを抱えて、強がりながら踏ん張っているあの女の泣きそうな顔なんて、見ずに済んだのに。
出口のない迷路のような、蟻地獄にはまってしまったような暗い思考に溺れ息苦しくなった時、カイザーは扉の外に人の気配を感じ取った。
この部屋には掃除係のメイド以外は誰も立ち寄らない。たいして部屋も散らかっていないが、今は他人と顔を合わせたくない。適当な理由をつけてお引き取り願おうかと考えていた矢先、躊躇うような小さなノックが響いた。
「あの……いる?」
カイザーは弾かれるようにベッドから飛び上がった。
普段のツンと澄ました凛とした声ではなかった。今まで聞いたことのない不安そうで小さな声だったが、カイザーは瞬時に声の主が誰か認識し、扉を勢いよく開けた。
「もしかして、もう休んでた?」
「いや。……どうした」
「その……」
初めてカイザーの部屋を訪れたエリシアナは、先ほどの執務室での告白から着替えたのだろう。相変わらず暗い色ではあるが、動きやすいゆったりとした室内着に薄手のガウンを羽織り、いつも後ろで纏めている髪を緩やかに下ろしていた。
何か言いたいことがあってここまで来たようだが、言いづらいことなのかガウンの袖を掴んだままなかなか話そうとしない。
日が沈み、秋の気配が濃くなってきた肌寒い時間に、いつまでも扉の前で立たせているのはあまり良くないだろうと判断したカイザーは、自身の体を傾けエリシアナを部屋の中に招き入れた。
招き入れてから、しまった、と思った。
この部屋は一人用の客室で、誰かをもてなせるような応接セットなどはないことに今更ながら気づいたのだ。現状この白薔薇砦で最も高貴な身分の領主代理を立たせ続けるのは如何なものか。
だからと言って座れそうな場所はベッドしかないわけで、そのベッドは普段カイザーが寝起きし、何ならさっきまで寝転がっていた場所で、そんな場所にエリシアナを座らせるのは何だかまずい気がする。主に、自分の理性が。
エリシアナは部屋の真ん中でなおも口を開けずにいた。カイザーは自身の軽率な行動に内心冷や汗をかいており、お互い無言の時間が続いた。
今朝までは毎日あの狭い馬車に二人きりで乗っていたのに、薄暗い部屋にいつもとは違う無防備な姿で二人佇む今の方が無性に気まずく、お互いの心は全く穏やかでいられなかった。
「……何かあったのか」
結局、助け舟を出したのはカイザーだった。
「……そういうわけじゃないけど」
「なら、何か連絡事項でもあるのか? 執事長やメイド長にでも任せればいいのに」
「……」
「その、俺から招き入れといて何だが、この時間に男の部屋に二人でいるのは良くないだろ。急ぎの用じゃないなら明日聞くから、もう――」
「薬!」
頬を赤らめ肩を強張らせたエリシアナの右手には、小さな軟膏が握られていた。
「薬?」
「背中……怪我してるでしょう」
「……気づいてたのか」
あの爆発の際、カイザーの上着はエリシアナと少女を包む防護膜として使い、シャツとインナー姿のカイザーの背中には爆発で勢いよく飛んできた砂利や爆風による熱風がもろに襲いかかった。
エリシアナの命の危機に痛みを感じる余裕はなく、その後の対応もあって痛みを感じ始めたのは執務室に乗り込んでしばらく経ってからだった。それでもかつて戦場であらゆる怪我を経験してきたカイザーにとっては大したことのない程度の傷だったし、何なら先ほどまで仰向けでベッドに転がっていたのだ。
それぐらいカイザーにとってはよくある怪我で、ブラッドやメアリーはカイザーが怪我を負っていることなど気がついていなかったはずだ。
――なのに、この女は気づいたのか。
冷えた鉛のような心が、不意にじんわりと温かくなった。
「あなたのことだから、お医者様の診察も受けずにほったらかしにすると思って」
「それでわざわざ薬を持って来てくれたのか」
エリシアナは答えなかった。答えなかったが、赤くなった顔で恥ずかしそうに眉を顰めた横顔が明確な答えだった。
「薬なんて、それこそ執事長やメイド長に任せればよかったのに」
エリシアナの右手から軟膏を受け取った。その際、エリシアナの手とカイザーの手が軽く触れ合った瞬間、彼女はビクッと大袈裟なほど反応した。
その初々しい反応に、先ほどまで重く沈んでいたカイザーの悪戯心がひょっこりと顔を出した。
「薬をわざわざ持って来てくれたってことは、あんたが塗ってくれるのか?」
「っな、な、何を言ってるの! 自分で塗ればいいでしょう!」
「背中なんだから自分では塗れないだろ」
「だったらお医者様に塗っていただいたらいいでしょ!」
「え〜、めんどくさい。今あんたが塗ってくれたら、今日はもう大人しく休むのに」
「〜〜〜っ」
出てくる言葉は素直じゃないのに、返ってくる反応はいちいち素直なのが面白くて、最高に可愛い。あまりからかいすぎると口を聞いてくれなくなりそうだし、状況が状況なので、今日はここら辺で解放してやろう。そう、思ったのに。
「か、貸して」
先ほど自ら手渡した薬を受け取ろうと、エリシアナはまた右手を差し出した。その手も、声も震えていた。
――マジで?
カイザーは放心した。
*
これは本当にまずいかもしれない。
エリシアナを簡単に部屋に招き入れた軽率さを反省していたくせに、それよりももっと危ない状況になってしまった。
薄暗い部屋の中、ベッド脇のサイドテーブルのランプが男と女を淡く赤く照らしていた。
カイザーは上半身裸になり、エリシアナに火傷で赤くなった背中を向けてベッドに座っていた。
手を握ったこともない女に、己の剥き出しの背中を直に触れられるのは色々順番をすっ飛ばしているような気がする。お互い無言でいるから余計に背中に全神経が集中してしまい、火傷による熱なのかエリシアナの震える指先の熱なのか、もはやわからなかった。
カイザーは自身がそっちの方面でも経験豊富だと自負しているが、今のこの状況が恥ずかしくて、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張していた。
自身の生まれ持った端正な顔や鍛え上げられた肉体は、女達に大いに喜ばれたものだ。だから裸体を晒すことに全く抵抗はなかったはずなのに今はとてつもなく恥ずかしい。十代半ばの頃だってこんなに緊張したことはなかったのに。
背中に触れる彼女の震える指先を意識するだけで、気を抜いたら振り返って強く抱きしめてしまいそうだった。
――落ち着け、俺。女に背中を触られたことなんて今までにも普通にあったろ。そうだ、これはただの手当だ。
カイザーは後ろのエリシアナに気づかれないよう、腹に力を入れながら深く深呼吸した。そして何か気を紛らわせるような別のこと――例えば先ほどの執務室での重く暗い話を思い返すことにした。
が、エリシアナがそうはさせなかった。
「傷が……」
「っ、え?」
「火傷以外の傷が、たくさんあるのね」
「あ、あぁ、まぁな。軍人で戦場に出ればこんぐらい普通だろ」
今まで黙ってたくせに何で今更口を開くんだ。薬を塗り終わったんなら、頼むから早く手をどけてくれ。
「……それでも、やっぱり凄い人なのね。家柄だけでその歳でその階級に上り詰めるのは無理なのは、私でも知っているわ」
カイザーの背中がビクッと強張った。
待て、何で今、切なげな声でそんなこと言うんだ。本当にマズい。
「今日は……ありがとう、守ってくれて。それが言いたくて、来たの」
囁くような声と共に、微かな、しかし柔らかな重みと温もりがカイザーの剥き出しになった背中にそっと押し当てられた。おそらく、彼女の額だ。
「じゃあ、もう失礼するわ。……おやすみなさい」
背中からふわりと熱が離れる。
エリシアナは一度もこちらに顔を向けず、逃げるようにさっさと部屋を出て行った。
残されたカイザーは数秒、いや数十秒ほど固まった後、ベッドに突っ伏した。
――危なかった。あと数秒遅かったら、理性が飛んで押し倒すところだった。
あの女は魔性だ。これまで男に不慣れな初心な反応をしていたくせに、こんな、急に近づいてきたと思ったらあんな無防備なことしてきやがって。
しかも最後のは何だ。「守ってくれ」って。それが俺の仕事なんだから守って当然だろ。
「守れるだろうか」なんて弱気になっていた情けないカイザーはもうどこにもいなかった。
英雄でなくとも、敵がどれほど強大であろうと、ただ一人愛しい女を守るため剣となり盾となる。ただ、それだけだ。
こんがらがっていた頭の中がスッキリしたカイザーは、次は沸騰するような体の熱をスッキリさせるため、重い足取りで冷水を浴びに浴室へと起き上がったのだった。




