12.背中に預ける涙
秋が更に深まり朝晩が冷え込み始めた頃。
執務室の机には、処理の追いつかない書類の山が高くそびえ立ち、傍らにはすっかり冷めきった紅茶のカップがいくつも放置されていた。
エリシアナは静かに疲弊していた。
先日の爆発事件以降、あれほど拘っていた日課の墓参りは自粛していた。もしまた道中で命を狙われ周りの人が巻き込まれたら。無差別に襲ってきたら。自分を庇って護衛のあの男に何かあったら――。
いくつもの可能性を排除できない以上、エリシアナはあれ以降、砦の外へ一歩も出ることができなくなってしまった。
気丈に振る舞い、使用人たちの前では決して表情に出さないよう取り繕ってはいたが、本当は怖くて仕方がなかった。
命を狙われ続けた逃亡の日々を毎晩夢に見て飛び起きる。その度に、全身冷や汗でぐっしょりと濡れ、心臓が嫌な音を立て、毛布を掴む指の震えが止まらなかった。
そんな時に彼女の脳裏に浮かぶのは、ここ数ヶ月エリシアナの前に常に立って守ってくれた「広くて逞しい背中」だった。
普段はふざけた態度で領主夫人のエリシアナを揶揄って、皮肉に皮肉で返してくるムカつく男。けれど、いざという時は切れ長の綺麗な紫紺の瞳がエリシアナを真っ直ぐ射抜いてきて、どうしたらいいかわからなくなる。あの男の背中を思い出すと、不思議と凍え切った心が少しだけ温まり、再び浅い眠りにつけるのだった。
爆発事件のショックによる不眠だけがエリシアナを疲弊させていたわけではない。
来月はディオスの街全体をあげての恒例行事「バラ祭り」が開催される。エリシアナは一度も祭りに参加したことはなかったが、領主代理として祭りの参加者からの出店許可証の発行許可、警備や衛生面の申請書類の決裁、予算の管理、街の寄合からの陳述への対応など、膨大な事務作業をブラッドと手分けしながらこなさなければならなかった。
昨年まではガリオンがいた。
彼は事務仕事には全くもって戦力にならなかったが、領民同士の揉め事や無茶な要求をしてくる出稼ぎ商人、頭が固く前例主義に捉われる役人など、対人トラブルのような表に出る仕事では大活躍した。ガリオンの言葉には不思議な力があるのか、皆素直に大人しくなるのだった。
また、根を詰めて働きすぎるエリシアナを半ば強引に休憩させてガス抜きさせるのも上手かった。そんなガリオンがエリシアナは大好きだった。恩人であり祖父でもある、偉大な領主だった。
そのガリオンが今年はもう、いないのだ。
冷えたカップを見つめるエリシアナの目の下には、ひどく濃い隈が落ちていた。
*
カイザーが東部支部に顔を出すのは二度目だった。一度目は自分は上層部に嫌われて左遷されたと思い込み、陰鬱で憤懣たる気分でこの扉を叩いた。二度目の今は、それが随分と遠い昔のように感じられた。
「久しぶりだな、ダルトン中尉。君の仕事ぶりは執事長から聞いているよ」
「お久しぶりです、ヴァルツァー少佐」
約二ヶ月ぶりの上官は、相変わらずのんびりとした昼行灯のような雰囲気を漂わせていた。
「領主夫人より、祭りの警護に関する書面をお預かりしております」
「あぁ、ご苦労だったな。執事長は元気か?」
「はい、今日は街の寄合に急遽呼び出されましたので、自分が代わりにお届けに上がりました」
「この時期はいつもこうだ。あの男ももう還暦を過ぎたいい歳だろうに……。今年は君がいて助かったよ」
ヴァルツァーは書面に目を通しながら何気ない自然な言葉を発している。
カイザーはこの上官がただの昼行灯なわけではない事に既に気づいていた。初対面の別れ際のあのただならぬ空気感、謎の多い白薔薇砦の未亡人と顔を合わせない密なやり取り、そして先ほどの「今年は君がいて助かったよ」の言葉――。
どこまで踏み込んで良いものか推し測っていた。
「気になるか」
不意の問いかけに、カイザーの両手がピクリと反応した。上官の前では両手は後ろに組んでいるので、手元の書類に目を通しているヴァルツァーには悟られていない、はずだ。
「何のことでしょう」
「気にならないならそれでも構わん。聞かれたとて答えるとも限らんしな。……ただ、ここ数ヶ月の君の働きは期待以上だったと報告が上がってきたのだ。突然の異動に対する見返りを、少しはやってもいいだろうと思ったまでだ」
どうやら自分はいつの間にか、この食えない上官の信用を得ていたようだ。
「では、恐れながらお聞きしたいことが。……なぜ、自分だったのですか」
最も聞きたかったことを質問した。
白薔薇砦の未亡人に関する謎はある程度わかってきたし、その上で誰でもあの砦に入れるわけではないことも体感した。
だが、中央でエリート街道を邁進していたカイザーを、理不尽にわざわざ呼び寄せる必要があったのだろうか。カイザーは特に東部に縁があるわけでもカーズ伯爵家と関わりがあったわけでもない。カーズ伯爵家にとって、カイザーは優秀ではあるが信用できるかどうかは未知数だったはず。なら、元々息のかかっている東部支部の兵から護衛を選抜してもよかったはずなのだ。
「まず言っておくが、以前にも言ったとおり私は夫人には会ったことはないし、あちらの事情の"深いところ"は知らん。知らない方がお互いにとっていいこともあるからな。私は穏やかな余生を過ごしたいのだよ」
ヴァルツァーはなおも書面に目を通したままだった。表情も声色も、先ほどまでと全く変化せず、まるで今日の天気の話でもしているかのような錯覚に陥る。
「私は上から命令されたことに軍人らしく従っているだけだ。君の人選はその上が、"優秀で人格に問題がなく、そして家族と疎遠である点"を考慮した結果だ」
「家族と疎遠?」
「あぁ、人質や足枷になり得るからな」
過去にエリシアナに近づいてきた刺客が人質を取られていたということか。もしくは近くにいた人間が人質を取られて寝返ったのか。その両方か。
まさか、実家から見捨てられ、完全に縁を切っていた己の孤独が、自分が選ばれた理由になっていたとは思いもしなかった。
そして、どうやら自分の人選は東部支部トップのヴァルツァーではなく中央本部もしくは更にその「上層の人間」によるものなのだと確信した。
「私がこれまで命令されたことは三つ。君が真に信用に足る人物か見極めること。夫人を狙う刺客達から情報を得ること。そして……領民への情報操作だ」
どうやら自分はヴァルツァーにも監視されていたようだ。まだ顔を合わせたのは二回目だが、これまでの行動は白薔薇砦の密偵から逐一報告されていたということか。そして試験には合格した、と。
刺客達から情報を得るというのは想定していた。カイザーが捕獲してきたゴロツキ達は逃げられないよう手足を縛った上で全員東部支部へ引き渡していたからだ。その後のゴロツキ達がどうなっていたかは知らなかったが、ヴァルツァーが上手く処理していたのだろう。
だが、最後の命令は――。
「情報操作とは?」
「これはカーズ元中将からの命令、もとい依頼だった。突然現れた年若い娘があの帝国の英雄の後妻になったのだからな。領民の反発は想像に難くない。現カーズ夫人を守るために私が意図的な噂を広めさせてもらった」
カイザーの脳裏に、ディオスの街に初めて来た夜の、あの賑やかな酒場での話が蘇った。
――奥様はな、お体がとっても弱いから表には出てこられねぇんだよ。そんなか弱いお方なのに俺らディオスの領民のために身体に鞭打って働いてくれてんだ。
――実家でいじめられて成金の悪徳商人に嫁がされそうになってたところをガリオンが助けたって話だぜ。
――その悪徳商人に襲われそうになったことがトラウマで知らない男が怖くなっちまって、砦の中でもあんまり部屋からも出てこられねぇとか。
――それでも助けてくれたガリオンと受け入れてくれたディオスの領民に恩返しがしたいって。健気だよなぁ。
「ディオスはまだ識字率も高くなく知識層よりも圧倒的に労働者階級の集まりで成り立っている街だ。ガリオンの英雄譚に夫人の苦労話をわかりやすく付け足すだけであっという間に“か弱く儚い健気な領主夫人“が領民に浸透した」
カイザーは目の前の上官がひどく不気味に映った。
日なたでロッキングチェアに座ってコーヒーでも飲んでいそうな穏やかな顔をして、裏では街の領民達を掌で転がすような情報統制を平然と行なっている。あくまでも上層部からの命令に従っているだけだと言って。
「祭りの警護内容は確認した。署名も済んでいるから、これを夫人へ渡してくれ」
「承知しました。では、これで失礼します」
ヴァルツァーはもう次の案件の書類仕事に取り掛かったようで、淡々と書類を繰る指を止めなかった。ペン先が紙を滑る小さな音だけが、静寂に包まれた執務室に規則的に響いている。
カイザーは無性にこの場から早く立ち去りたくなり、踵を返した。その背中に不気味な上官の声が突き刺さり、振り返った。
「ダルトン中尉。……夫人を頼むぞ」
その言葉は命令でもなく、先ほどまでの温度のない言葉でもなかった。そこには確かに、領民とカーズ家を長年陰から見守ってきた男の真摯な熱が宿っていた。上官は書面から目を離し、真っ直ぐカイザーを見つめていた。
「……はい」
カイザーは、低く重い声で一言だけ答えた。
東部支部を出た後、真っ先に浮かんだのは最近暗く沈んでいるエリシアナの疲れた横顔だった。
*
「ご褒美をくれ」
白薔薇砦に戻ってきたカイザーは、三階南側の執務室へヴァルツァーから受け取った書面を届けに来ていた。
許可も得ず執務室に乗り込んだあの日以来、カイザーが執務室に来ても誰も咎めなかった。もちろん、用もなく入り浸ったりエリシアナの寝室にまで入ったりすることはなかったが。
「図々しい護衛ね。ちょっとお遣いしたぐらいで」
「俺をパシリにする女はあんただけだ」
「光栄ね」
「うちの領主夫人サマはケチなのか?」
「……はぁ。で、何がほしいの」
エリシアナはズキズキと痛む重い額を抱えた。ここ最近は陰鬱な気分で不眠が続き、体も怠い。目の下の隈や吐き出された声に疲れを隠せず、仕事はどんどん溜まっていくのに処理能力が追いつかない。積み上がる書類の山は次第に高くなり、寝食が疎かになってもう数週間。
今はこの男の揶揄いに応じてやり合うほどの精神的な余裕がなかった。
「あんたの時間をくれ」
「え?」
「お茶しよう。街で美味そうなクッキーを買ってきたんだ」
カイザーの片手には白薔薇をあしらった白い箱が掲げられていた。エリシアナを見つめる瞳は、いつものからかってくるようなものではなく、労わるような優しい色だった。
*
南側の日当たりの良いバルコニーにエリシアナとカイザーは向き合って座っていた。テーブルにはメアリーが用意した温かい紅茶と、カイザーが街で買って来たという白薔薇をモチーフにしたアイシングクッキーが出された。
秋晴れの中、少し冷たさを含んだ風に吹かれてその白薔薇のクッキーの甘い香りと共にツンとした塩っぱさがエリシアナの暗く沈んだ心に深く刺さった。
「このクッキー……」
「街で評判だっていう店の看板商品だと。この街は砦も菓子も何でも白薔薇にしたがるな」
「……」
「……甘い物は嫌いか?」
沈黙する彼女を見て、カイザーの表情に明らかな焦りが浮かんだ。
彼なりに街で気を回して、最近気が滅入って疲弊しているエリシアナを元気づけようと買ってきてくれたのだろう。
なのに、クッキーを見たエリシアナは目の周りを赤くして、口元をギュッと引き締め、今にも泣きそうになってしまっていた。
予想外の反応を返してしまったせいで、カイザーは大いに狼狽している。
「嫌なら、無理して食わなくていいから!」
「……ううん、違うの。これ、旦那様が……よく買ってきてくれたの」
何でこの男はいつも、心揺さぶるようなことをしてくるの。
領主代理として強くないといけないのに、私が旦那様の代わりに街を守らなきゃならないのに。どうして、この男の前ではこんなにもか弱くなってしまうの。
「……そっか」
カイザーは目を少し見開いた後、優しい表情でエリシアナを見つめた。その顔を見た途端、もうダメだった。
エリシアナは静かに涙を溢れさせながら思い出のクッキーを口にした。甘いはずのクッキーが塩っぱくて、ほとんど食べられなかった。
次第に嗚咽が止まらなくなり自分でも制御できなくなると、カイザーは何も言わず立ち上がり、エリシアナをふわりと抱き上げた。
震える身体を包み込むように優しく抱きしめ、まるで泣きじゃくった幼子をあやすように背中を撫でさすった。
秋の冷ややかな風がバルコニーを吹き抜ける中、カイザーの体温だけが温かかった。自分をすっぽりと包み込む腕の強さと、背中をゆっくりと撫で下ろす大きな手の掌の熱に、エリシアナはただ身を委ねて、泣きじゃくることしかできなかった。
泣き疲れていつの間にか眠ってしまったエリシアナは、あの日以来、久しぶりに朝までぐっすり眠れた。
朧げながら覚えているのは、ベッドの端にあの男が背を向けて座りながら、一晩中ずっとエリシアナの手を握っていたこと。
その広く逞しい背中を見てひどく、安心したことだった。




