4.白薔薇の女神
東部一美しいとされる観光地の白薔薇砦に着いても、カイザーの心はちっとも動かなかった。寧ろ、やけに美しく壮観な砦とむせ返るような白薔薇の甘い香りが、理不尽に左遷された今の自分とあまりにも対極に感じられ不快感すら覚えた。
どうやら自分は出世どころか中央へ復帰する道すら完全に絶たれたらしい。こんな訳のわからない幽閉のような護衛任務が軍功に繋がることはまずあり得ない。せめて東部支部で雑多な任務をこなしつつ上司の信用を得ようと、列車の中で言い聞かせた強がりは、先ほどのヴァルツァーとの挨拶であっけなく崩壊した。
自分はこれからの一生を、英雄を誑かし政務を放棄した悪女のような未亡人の護衛として終えるのか。
見上げた白薔薇砦がさながらカイザーの終の住処ならぬ「終の檻」のように見えてきた。
――もういっそ軍人など辞めて傭兵にでもなろうか。
実家に帰るつもりは毛頭無いのだから、腕一本で生きていく根無草の旅の傭兵もありかもしれない。退役するにしてもまずは素性の知れない怪しい未亡人がどんな女か見定めてから辞めるのも一興だろう。
カイザーはもうほとんど投げやりになっていた。だから、砦のただの門番がやけに熟練した動きだったことも、門番の目が通行証を検めるまで鋭かったことも、護衛として呼ばれたのに武器になりそうな物は全て入り口で取り上げられたことも深く気に留めなかった。
彼の足取りはまるで鉛でも付けられたかのように重かった。
正門を抜けるとそこは広大な前庭になっていた。夏の暑さがまだ残る秋晴れの空の下、あたり一面に白薔薇が咲き誇っていた。
砦の外よりも更に強くなった香りに顔を顰めかけたその時、カイザーは一人の若い女に目が釘付けになった。
歳はカイザーよりも少し下だろうか。
黙々と白薔薇を手入れしている横顔からはハッキリとはわからなかったが、白薔薇に調和するほどの透き通った白い肌やすっきりとした鼻、少し口角が上がった薄桃の唇、秋の陽光に当たって煌めくような金髪。
そのどれもがまるで白薔薇を愛でる女神のようで、カイザーは上質な一枚の絵画を鑑賞しているかのような錯覚に陥った。
驚くべきは、それほど目を惹く美貌を持ちながら、彼女には一切の飾り気がなかったことだ。
身に纏うのは肌を厳格に隠す黒一色の簡素なブラウスとロングスカートのみで装飾品すら身につけていない。過去に自分に媚びを売ってきた女たちの、ギラギラとした派手な装飾品やきつい香水の匂いを纏っていた姿とはまるで違っていた。
まるで喪服のようなその姿は周囲の白薔薇の華やかさと奇妙なコントラストを描き、カイザーは目を反らすことができなかった。
元婚約者の裏切り以降、表面上は上手くあしらいながらも心の中では女に対して嫌悪を感じていたのに。どうして自分は今、目の前の白薔薇の女神にこんなに心を奪われているのだろう。もし、この女が自分に向かって微笑んでくれたなら――。
どれほどその絵画を眺めていただろうか。あれほど不快に感じられた白薔薇もその香りも、まるでこの女を彩るための最高の景色のように思えて、全く気にならなくなっていた。
この静かな鑑賞時間を打ち切ったのは、女の方だった。
「……誰」
そう誰何する声は刺々しくはあるが綺麗な声だった。
真正面から彼女と視線がぶつかる。横から眺めていたよりも更に美しかった。カイザーを警戒して睨みつける瞳は、吸い込まれるような綺麗な碧だった。
「誰、と聞いているの。一体どうやってここに入って来られたのかしら」
無視するつもりはなかったが、結果的に見惚れて沈黙してしまっていた。ハッとして慌てて答えようとしたカイザーを、女の冷たい声が遮った。
「今回はずいぶんと趣向を変えたのかしら。こんな美丈夫の軍人風情を送り込んできて、色仕掛けでもするつもり? ……でもあなた、ただの顔要因じゃないわね。その立ち姿からすぐわかるわ、よく訓練された手練れだってね」
「いや、何の話」
「舐められたものだわ、この砦も。私も。そして……旦那様も」
言うや否や女は懐から躊躇いなく小銃を取り出したかと思えば、止める間もなく秋晴れの空に一発放った。
火薬の匂いが白薔薇の香りと混ざる。直後、カイザーの眉間へと正確に銃口を向けてきたその構えは、間違いなく実戦をくぐり抜けてきた軍人のそれだった。
――この女、銃の扱いに慣れてる。
「ちょっと待て。俺は呼ばれて来たんだ!」
「今度はどんな三文芝居のストーリーを聞かせてくれるのか楽しみだわ。続きは地下牢で聞いてあげる」
「ハァ?!」
全く話が通じない、なんだこの女は、と声を荒げようとしたその瞬間。
砦のあちこちから武器を構えた使用人風情の男たちが十数人、カイザーに向かって一斉に襲いかかって来た。
――まったく、人生の厄日が一気に来たみたいだな!
カイザーは短く舌打ちをすると、眼前に振り下ろされた武器を最小限の動きで躱した。
相手の勢いを利用した足払い、鳩尾や首筋への的確な一撃。丸腰であろうと関係ない。これでも中央本部始まって以来のエリートと謳われ、弾丸が飛び交う最前線の修羅場をいくつも単身で潜り抜けてきたのだ。
十数人はいたであろう殺気立った襲撃者たちを、カイザーは息一つ乱さず、わずか十分足らずで素手のまま完全に制圧してしまった。ここまできて更なる嫌がらせを仕掛けてくる可能性は低いだろうが、上層部からの差し金であった場合に備え、全員の急所だけは外しておくという余裕すら見せた。
足元に転がる男たちを見下ろし、小さく息を吐く。
「……あなた、一体何者なの」
どうやら小銃を構えたままの女には、更に強く警戒されてしまったようだ。
「それはこっちの台詞だ。お前こそ何者だ。俺はそちらさんに呼ばれて来た、帝国軍の――」
"中央本部"という単語が不意に出かかったのをすんでの所で飲み込んだ。
「東部支部警護課に着任した、カイザー・ダルトン中尉だ。正規の通行証もある」
カイザーが懐から通行証を取り出すと、女の後方から慌てて飛び出して来た老齢の執事らしい男が裏返った声で叫んだ。
「エリシアナお嬢様! 銃を下ろしてください、その方は敵ではありません!」




