番外編8.下心と真心のプレゼント
皇太子冊立祝賀晩餐会への出席を主目的とした、二人にとって初めての旅行の最後の夜。
カイザーとエリシアナは数日間の帝都観光を存分に満喫し、明日の出発に向けて荷物を整理していた。
「あっという間だったな」
「うん、もう少し観光したかったかも」
エリシアナは名残惜しそうに、皇帝が娘のために用意してくれた最高級ホテルの一室を見渡した。数日前に初めてこの部屋に足を踏み入れた時の、彼女が驚きで目を輝かせていたのが随分と前のことのように思える。
白薔薇砦の使用人たちは「新婚旅行も兼ねてもっと長く滞在しては」と勧めてくれたが、「領主が長く不在になるのはよくない」と責任感の強いエリシアナが断った。結果として、帝都に着いたその夜に祝賀晩餐会に出席し、その後の丸二日をカイザーは「帝都観光」と称してエリシアナをあちこちへと連れ回した。
ディオスには無い洗練されたカフェや名所を巡り、格式ある文化展や例の「白薔薇の女神と騎士」の観劇もした。砦で待つ使用人たちへの土産を買うために大型デパートで両手いっぱいの買い物もした。
それらの場所は、幼少の頃から人生のほとんどを帝都で暮らしてきたカイザーにとっては決して目新しいものではない。それでも、隣にエリシアナがいるだけで見慣れたはずの景色がひどく新鮮で輝いて見えた。
初めてデパートに足を踏み入れた時、あまりの店舗の数や見たこともない最新の品々に、大きな目を更に大きくして無防備な感嘆の吐息を漏らす彼女の横顔がたまらなく可愛かった。
晩餐会でのドレス姿のエリシアナもそうだ。あの圧倒的な美しさに息を呑んだのは、これでもう何度目だろう。アルテリスの姉妹ブランド――『レテリス』が一から仕立てたドレスは、彼女の上品で知的な雰囲気を完璧に引き立てていた。
そのせいで、浅ましい貴族どもが下品な視線をエリシアナに向けるのは心底腹立たしかったが。
初めての社交に必死で彼女自身は気づいていなかったようだが、会場ではまるでハイエナのように野心や欲にまみれた有象無象がエリシアナを狙っていた。揃いの衣装を身につけ、夫として隣に立つカイザーがそんな連中を近寄らせるはずがない。愛しい妻に群がろうとする害虫どもの気配をいち早く察知し、彼女に悟られないよう極めて自然なエスコートを装って、その歩みを躱し続けた。
時には死角から鋭い牽制の視線を飛ばし、ダンスの誘いどころか、ろくな挨拶すらさせずに卓越した危機回避能力ですべて完璧に防ぎ切ってやったのだ。
――『レテリス』といえば……。
カイザーは数時間前に帝都のレテリス本店で受け取ってきたばかりの小箱から、ある「商品」を取り出した。
『レテリス』はカイザーが帝都にいた時に命を助けてやったアルテリスのオーナーの息子が立ち上げた新進気鋭のブランドだ。帝室御用達である本流の『アルテリス』が格式と伝統を重んじるのに対し、姉妹ブランドの『レテリス』はエリシアナにインスパイアされた「新時代の気品を宿す女神の装い」をコンセプトとしているらしい。
レテリスは古代語で「地上に降り立った女神」を意味する造語らしく、彼女が万人の女神になってしまうことに思うところはあるが、まぁそれでもあの男はセンスがいい。
エリシアナがレテリスの広告塔としてモデルを引き受ける代わりに、彼女の衣服から装飾品、小物に至るまでの全てをブランド側から無償提供してもらうことになっている。
そして、彼女に身につけさせる以上は肌の露出度やシルエット、素材に至るまで、カイザー自身が仮デザインの段階で細かく注文をつけ、新商品の開発案にも容赦なく口出ししているのだ。
カイザーの指先でスルリと滑る、頼りないほど薄く滑らかな生地でできたこの「商品」も、彼がエリシアナのために考案したものだ。ただし、決して世に出ることはない非売品であり、身につけるのは彼女だけだ。
美しい妻を綺麗に飾って世界に見せつけたいという優越感と、誰にも見せずに自分一人で独占したいという相反する欲求。最近のカイザーはその愛情ゆえのジレンマに悩まされていた。これは、その悩みを解決するために作らせた、とっておきの「商品」だった。
「エル、プレゼントがあるんだ」
「え? プレゼント?」
不思議そうに首を傾げる彼女の手に、小箱から出した「商品」をそっと乗せた。
「な、なにこれ……」
「エルのためにレテリスの工房に特別に作ってもらったんだ。着てくれ」
「……っ!」
広げた瞬間、エリシアナは顔を真っ赤にして絶句した。
彼女の手の中にあるのは、上質なシルクで作られたシュミーズだった。それは、ドレスや普段着の下に着る女性用の下着だ。
「へ、変態っ!」
「俺がエルのことになると変態なのは、今に始まったことじゃないだろ。それにそんな俺も好きなくせに」
「〜〜っ、ほんと、なに考えてるの!? こんなの、もうレテリスの職人さんたちと顔を合わせられないわっ」
「何でだよ。図面は俺が直接引いたし、関係者には徹底的に守秘義務を課してある。完全な非売品だぞ」
「そういう問題じゃない!」
極度の羞恥にプルプルと震えるエリシアナは、自身の手にある白い「それ」をまるで視界に入れてはいけない汚らわいもののように遠ざけてぎゅっと目をつぶっている。
「俺、女物の下着なんて生まれて初めて買ったんだ。それに、何度も手直しして俺がデザインしたんだぞ。……なぁエル、お願い、着てくれよ」
「あなた……。そうやって下に出れば、私が何でも言うこと聞くと思ってるでしょう」
「それはお互い様だろ? 俺だってエルの可愛いお願いは絶対断れない」
「私はそんなはしたないお願いはしないわ!」
「嘘つけ。昨日の夜だって“お願い、もっと一緒にいて“ってあんなに可愛く擦り寄ってきたくせに」
「……っ!」
図星を突かれ、真っ赤になったままエリシアナは口を閉じた。
昨晩もエリシアナは彼の甘い言葉に絆され、素直に甘えてきた。最近の彼女は二人きりになると、普段と打って変わって積極的になるのだ。その愛らしい変化に、夫は随分ご満悦だ。
エリシアナが遠ざけようとした純白のそれを、カイザーは優しく拾い上げ、もう一度彼女の小さな手にしっかりと握らせた。
逃げ場を塞ぐような甘く有無を言わせぬ微笑みに、エリシアナは抗うことを諦め、ついに観念したように小さく息を吐いた。
「やっぱり、エルには白だな」
ベッドの上で、エリシアナは顔を真っ赤にしてカイザーと向き合っていた。自分が一からデザインした純白のシュミーズを身につけて。
カイザーの「初めて」や「お願い」という言葉に弱いエリシアナは、あまりの羞恥に両手で顔を覆ってしまっている。指の隙間から覗く肌までが熱を帯びてほんのりと桜色に染まっていた。
「すっごく可愛いな。せっかくだから、今日はこのまま寝ようか」
「……シワになっちゃうから」
「洗えばいいだろ。それに、まだ他にもたくさん買ったから」
「変態っ!」
羞恥に悶える彼女が詰る言葉に、カイザーは意地悪い顔で笑ってしまう。両手で顔を覆うエリシアナの細い手首を掴んで引き剥がし、そのまま彼女の腰を引き寄せる。急に密着したことで彼女はビクッと肩を跳ねさせた。
「カイ、……お、お願い……っ」
「っ、はは、もうおねだりしてくるのか?」
可愛い妻の「お願い」は断れない。
夫の名前を抗議するように声で呼ぶ愛おしい妻の背中に腕を回し深く抱き込むと、カイザーは彼女の戸惑う声を飲み込むように深く唇を塞いだ。抱きしめる腕にギュッと力が込められると彼女の抵抗はあっさりと甘い吐息へと変わっていく。
*
「エルとはいろんな所に行きたいけど、他の男の目が邪魔だな」
「ぇえ?」
帝都の最後の夜を惜しむかのような濃密な時間の後、いつものようにエリシアナを胸の中に抱き込んでゆったりとまどろんでいた。
あの純白のシュミーズは、大切にしまっておくことにして、今はエリシアナはカイザーのシャツを着ている。
「世界中にエルを見せつけたくなるし、誰の目にも触れないように隠しておきたくもなる」
「何それ」
ふふっ、とおかしそうに笑うエリシアナは、先ほどまでの余韻でまだ少し頬が赤い。
「あなただって相変わらず人気だったじゃない。昨日だって広場で女性に声をかけられていたでしょう」
「あれはエルが俺を一人にするからだろ。わざわざ俺を放って何してたんだ」
人の多い帝都のど真ん中で一秒たりともエリシアナから離れたくなかったのに、「どうしても一人で買いたいものがある」と頑なに拒絶されたのだ。仕方なく時計台の下で憮然と待っていたら、見ず知らずの女に親しげに声をかけられて実に不愉快だった。
「それは……」
「俺に隠し事したら、どうなるかわかってるよな?」
「……」
数ヶ月前に夫の誕生日をサプライズで祝おうと秘密裏に動いた結果、周囲を巻き込んでの修羅場になりかけたことを思い出したのか、エリシアナは観念したように溜息を吐いて白状した。
「糸とか、布を買ってたの」
「糸?」
「帝都の方が種類も豊富で、質もいいから」
「また刺繍でもするのか?」
夫への誕生日プレゼントのために刺繍に初挑戦したエリシアナは、あれ以降も暇を見つけては少しずつ練習を続けているらしかった。白薔薇の手入れ以外にも趣味になるものができて、カイザーは少し安堵していたのだ。
「あなた、あのハンカチ使ってないでしょう」
「使ったら汚れるだろ」
「ハンカチを何だと思ってるの」
「俺のお守り」
愛する妻が自分のために初めて挑戦してくれた刺繍のハンカチだ。シルクの白い生地が汚れないよう、いつも懐に忍ばせてお守りがわりにしている。手を拭ったり汚れ物を包んだりなんて、できるわけがない。
「……だから、普段使いできるように、もう一枚用意しようと思って」
「……っ!」
自分のためにこっそり材料を買ってくれていたそのいじらしさに、カイザーはたまらなくなってエリシアナの細い身体を力一杯抱きしめる。
「ちょっと、苦しい……」
「エル、もう一回」
「だ、ダメよ! 明日の朝の列車に間に合わなくなっちゃうからっ」
「列車は座ってるだけなんだから大丈夫。朝起き上がれなくても、俺が抱えて行くから」
「よくない! んんっ」
抗議しようとする愛しい桜色の唇を有無を言わさぬキスで深く塞いだ。
明日の朝、カイザーが彼女を抱き抱えて列車に乗り込むことになるのは、もはや確定事項だった。




