番外編9.父の不器用な愛
近々、帝都の全寮制アカデミーへ編入することが決まっている十二歳のアレクシス・カーズには、最近ずっと心に引っかかっている悩みがあった。
アレクシスの母はもうすぐ四十歳を迎えるというのに全くそうは見えないほど若々しく、そしてとても美しい。その美貌はディオスを飛び越えて帝都でも有名だという。「白薔薇の女神」は未だ健在で、現に母が専属モデルを務める「レテリス」は、本家である「アルテリス」の売上を凌ぐ勢いらしい。
母はただ美しいだけではない。白薔薇砦の主人としてディオスを立派に守り抜き、この領地を今や帝国有数の観光地にまで発展させた手腕の持ち主だ。アレクシスにとって自慢の母であり、次期領主の立場からも心から尊敬している。
二歳下の妹、アナスタシアもたまらなく可愛い。瞳の色こそ父から継いだ紫紺だが、それ以外の顔立ちは母にそっくりだ。レテリスのオーナーはアナスタシアが生まれた途端、貴族向けの子供服ブランドまで新たに立ち上げ、妹をモデルに据えた。可愛い我が子のためなら金に糸目をつけない貴族達がこぞって飛びついているという。
そんな妹から「お兄様」と甘えた声で下から見上げられると、アレクシスは何でもお願いを聞いてやりたくなってしまうのだ。
偉大な母と、目に入れても痛くない可愛い妹。
だが、父は……アレクシスのことを、あまり愛していないようだ。
父はめっぽう強い。観光客や移民の増加に伴って荒事のトラブルも増えたが、なぜか東部支部に勤めているわけでもない父が、当たり前のように軍の指揮を取っている。たまに凶器を持った暴漢や父に恨みをもつ輩が湧いたりもするが、いつも父が単身であっさりと制圧していた。
当然、領民からの信頼も厚く人気者だ。アレクシスが街を歩いているだけで、誰かしらが「カイザーの旦那に世話になった、礼を言っておいてくれ」と声をかけてくる。学校の友人達にも「アレクのお父さんに助けてもらった! すごくカッコよかった」と興奮気味に言われるのは日常茶飯事だ。
外ではそんな無敵の英雄のような父だが、家の中では母が大好きでベッタリとくっついている。仕事で忙しい母に構ってもらいたくてちょっかいをかけに行ったり、母の好きなお菓子や果物をしょっちゅう買ってきては甲斐甲斐しく食べさせているのだ。
年頃の息子の目の前でもお構いなしに母を溺愛するその姿は、見ていてなんとも居た堪れない。外での威厳ある父の姿を知っているだけに、そのギャップで余計に恥ずかしくなる。
おまけに妹のことも溺愛している。十歳になるというのに、毎日抱き上げては頬にキスして甘やかして遊んでいるのだ。
「エル」「シア」
愛おしそうに二人の愛称を呼ぶ父の声は甘い。
アレクシスのことは愛称では呼んでくれないくせに。
アレクシスは毎日欠かさず父から直接稽古をつけてもらっている。将来軍人になるかどうかはまだ決めていないが、「男なら、何があっても大切なものを守れるように強くあれ」という父の方針のもと、馬術・剣術・そして体術を叩き込まれている。
体を動かすこと自体は好きだ。できることが増えていくのも楽しい。けれど、稽古中の父は容赦がない。
怪我をして膝をつこうが、「何してる。さっさと立て」と冷たく見下ろしてしごいてくる。見かねたアイザックが「おいおい、もうちょっと息子に優しくしてやれよ」と声をかけてくれても、父は「これぐらい大したことないだろ」と全く聞く耳を持たなかった。
武術だけでなく、学業でもそうだ。幼い頃から家庭教師をつけてもらい、十歳でディオスの学校に通い始めてからも、アレクシスはトップの成績を他人に譲ったことは一度もない。
いつも満点のテスト用紙を持ち帰ると、母はすごく喜んで褒めてくれるし、学校に通っていない妹も「お兄様すごい、天才!」と尊敬の眼差しを向けてくれる。しかし、父は結果を見ても「次も頑張れよ」と淡々と一言を告げるだけだ。アレクシスは物心ついた頃から、父から手放しで褒められた記憶がないのだ。
妹が「私も学校に行きたい!」とどんなに可愛くお願いしても、父は絶対に外に出そうとしない。理由は「シアが可愛すぎて、外に出ると危ないから」だ。なら、毎日外に出て学校に通うアレクシスは何なのだ。自分は外を歩いても危なくないのか。怪我をしても、どうでもいい存在なのか。
一度だけ、どうしてもと妹に頼み込まれて二人きりで砦の外に遊びに出かけたことがあった。「子どもだけでシアを外に連れていくな」ときつく言われていたが、あんなに可愛くお願いされたら絶対に断れるわけがない。
兄としてしっかりと妹を守っていたつもりだったが、出かけた先で下品な観光客が妹にいたずらしようと絡んできた。アレクシスは無我夢中で大人の男二人を相手に暴れ回り、地面に引き倒した。
そこに血相を変えて駆けつけた父は、倒れた男達とアレクシスを見て「よくやった」と短く言った。
初めて父に手放しで褒められた。アレクシスはそれがとても誇らしくて天にも昇るほど嬉しかった。しかし、家に帰ってからは言いつけを守らず妹を危険な目に合わせたことを厳しく叱責された。あの時の足元が崩れ落ちるような落胆は今でも忘れられない。
更に理不尽な思いをした記憶もある。
砦の中で妹と木登りをして遊んでいた時、彼女がバランスを崩して落ちそうになった。アレクシスは咄嗟に妹を抱き込み、二人一緒に地面に叩きつけられた。
大泣きする妹のもとへ真っ先に飛んできた父は、彼女に怪我がないことを確認すると、そのままの勢いでアレクシスを殴り飛ばしたのだ。
妹を庇って怪我をしたのは自分の方なのに。父の目にはアレクシスの痛みなど全く映っていなかった。
あの後、珍しく激怒した母から父はひどく叱られていたけれど。
そして今回、帝都の全寮制アカデミーへの編入を決めたのは父だった。
「次期領主として、そして男として、もっと広い世界を見てきた方がいい」という理由だった。
アレクシスは勉強も運動も好きだし、帝都のアカデミーに入るのは素直に楽しみだ。帝都にはディオスにはない最新の物や知識がたくさんあると母も言っていたし、正直に言えばディオスの学校の授業は、アレクシスにはとうに物足りなくなっていた。
だから、行きたい気持ちはある。でも――。
――お父様は俺のことがあまり好きではないから、体のいい理由をつけて、遠い帝都へ追いやるんじゃないのか。
どうしても、そう思わずにはいられないのだ。
*
帝都への出発が明日に迫り、学校ではお別れ会を開いてもらったアレクシスは、どうしても真っ直ぐ家へ帰る気分になれず、街の中央広場にあるベンチに座ってぼんやりと夕暮れの空を眺めていた。
「あれ? アレク坊ちゃん?」
「あ、アルバ大尉。こんにちは」
巡回中なのか、濃紺の軍服をきっちり着込んだフィズィーロ・アルバ大尉が不思議そうにアレクシスに声をかけてきた。
彼は東部支部の副司令官という軍の中でも非常に高位の軍人だ。実力主義の帝国陸軍とはいえ、平民出身の彼が大尉の階級にまで上り詰めるのがどれほど並大抵でないことか、軍人の父をもつアレクシスにはよくわかっていた。
そんなすごい人物であるはずなのに、彼は昔から父に頭が上がらず、いつもあれこれと理不尽に振り回されている。
以前、「どうして階級が下のお父様の方が偉そうなんですか?」と無邪気に尋ねた際、アルバ大尉は「坊ちゃん、世の中には一度出来上がったら絶対に覆せない上下関係ってやつがあるんだよ……」と、遠い目で語っていた。過去には父に顔が腫れ上げるほど殴り飛ばされたことがあると聞いた時は、子ども心に心底不憫に思ったものだ。
アレクシスはアルバ大尉が好きだ。軍の要職にある人なのに、昔から自分に優しく接してくれるし、たまに稽古をつけてくれる。そして何より、父が決してしてくれないことをしてくれるのだ。
――アレク坊ちゃんほど頭も良くて何でもできる子どもは、帝都にだってそうそういないよ。
そう言っていつも真っ直ぐ褒めてくれる。お世辞かもしれないが、それでも父から手放しで認められたことのないアレクシスにとっては嬉しかった。
「こんな所に一人でどうしたの? 確か、帝都へ出発するのって明日じゃなかったっけ?」
「……はい」
「なら、門出の餞別にお小遣いでもあげよう」
「お母様に理由なく他の方からお金を貰ってはいけないと言われているので、お気持ちだけいただきます。それに、お小遣いはお母様から貰っているので」
「うわぁ、さすがカーズ夫人の息子だ、非の打ち所がないくらいしっかりしてる……」
アルバ大尉はどこか居心地悪そうに頬をかいた。彼は昔から母が少し苦手なようだ。というよりも、母が絡むと見境がなくなる父の逆鱗に触れるのを恐れているようだ。
しかし、浮かない表情で俯きがちなアレクシスの様子が気に掛かったのか、彼が隣に腰掛けてきた。
「……なんか、元気ないね。まだ出発前なのに、もうホームシック?」
「そういう訳じゃない、ですけど……」
アレクシスは唇を噛み、胸の奥底でずっと澱のように溜まっていた毒を絞り出すように呟いた。
「……お父様は、俺のことがいらないから、遠いアカデミーへ追いやるんじゃないかって、そう思って……」
十二歳の子どもの深刻な告白に、アルバ大尉は目をぱちくりと何度か瞬きすると、思わずといったように吹き出した。
「どうしたんですか?」
「いや、何でも器用に完璧にこなす優秀な先輩でも、上手くできないことがあるんだなと思って」
「? どういう意味ですか?」
「ハハッ、自分の息子への接し方だけは、驚くほど下手くそだってことだよ」
真剣に悩んでいたアレクシスは、思いがけない返答に目を丸くして首を傾げるしかなかった。
「アレク坊ちゃんが夫人のお腹にいた頃なんて、とんでもない過保護振りだったんだから。おかげで何度も先輩に砦に呼び出されて無茶振りされたし」
「……それは、単にお母様のことが大好きだからでしょ」
「まぁ、もちろんそれもあるんだけど。先輩は夫人の大きくなったお腹を暇さえあればずっと撫でてたよ。元気な子が生まれるようにって滋養のある食材を帝国中から取り寄せたりして」
それを聞いてもアレクシスはどうしても素直になれなかった。
それは自分を、というより母の体を心配しての行動なんじゃないか。父に対してはどうしてもひねくれた捉え方をしてしまう自分がいる。
「いざアレク坊ちゃんが生まれた時なんて、あの先輩が泣いてたんだよ。訓練がどんなにきつくても、死にかけても、絶対に弱音も泣き言も言わなかったあの人がさ。いやぁ、あれには俺も心底びっくりしたなぁ」
「え……」
生まれた時の記憶なんてあるはずもないアレクシスは、思いがけない言葉に目を見張った。あの、怪我をしても顔色一つ変えない鋼鉄のような父が、泣いた?
「夫人の体が回復するまでは先輩が坊ちゃんをずっと抱っこしてて、使用人にも触らせなかったんだよ。俺が指先でちょっと触ろうとした時なんて、鬼のような顔して威嚇してきたんだから」
「嘘だ。だって、今は全然……。シアのことはすごく可愛がってるのに」
「あ〜、思春期に入った息子との距離感がわからないだけだと思うよ。先輩は……ほら、坊ちゃんの祖父母に当たる方達と昔からあまり仲良くなかったから。自分が子どもの頃の“手本になる親の記憶“がないんだよ」
アルバ大尉はまだ子どものアレクシスに配慮して言葉を選んでくれたようだが、父とダルトン伯爵家の関係は父本人から聞かされていた。子どもの頃に家を出されてからあまり寄り付かず、大人になってからは完全に絶縁状態だと。
アレクシスは血の繋がった自分の祖父母に一度も会ったことがない。「あいつらは俺の家族じゃない。俺の家族は白薔薇砦にいる皆だ」といつか父がそう言っていた。そして、「血は繋がっていなくても、お前のお母様を孫として大切に守ってくれたあの帝国の英雄ガリオン・カーズこそが、お前の本当の“曽祖父“だ」と誇らしげに語る姿が印象に残っている。
「それにさ、アレク坊ちゃんはいろんなところが先輩にそっくりだからね」
「それは顔と髪色が、でしょ」
「それもあるけど、シアお嬢さんのこと溺愛してるところとか」
「? 妹なんだから、食べたくなるぐらい可愛いのは当然では?」
アレクシスが心底不思議そうに首を傾げると、アルバ大尉は「うわぁ」と顔を引き攣らせた。
「ほら、そういうとこ。その重すぎるところなんて完全に父親の血」
アルバ大尉は呆れたように笑いながら、アレクシスの頭をぐりぐりと乱暴に撫で回した。「坊ちゃんの未来の奥さんは大変だな〜。というか結婚できるのか?」なんて揶揄ってくる。余計なお世話だ。
「先輩は子どもの頃の自分と瓜二つの坊ちゃんと、どう接していいか迷ってるんだよ。坊ちゃんを愛してないとか、いらないとか、ましてや嫌いだなんて……絶対に思ってないよ」
優しく諭すようなその声に、アレクシスはそっと目を伏せた。
――そうなのだろうか。
暴漢を瞬時に制圧するほど強くて、無敵で、何でもできるあの偉大な父が。アレクシスに対してだけは、どう接していいか分からずに悩み、怖がっている。
――そんなこと、にわかには信じられない。
でも、父の若い頃から付き合いがあり、何度も理不尽に殴られてきたアルバ大尉が言うのなら、ほんの少しだけ、信じてみてもいいのかもしれない。
その後、「アカデミーでも頑張って」と励ましの言葉をかけて、アルバ大尉は職務に戻って行った。
*
「……」
「……」
帝都行きの列車に乗るため、アレクシスは父の操る馬に同乗させられていた。砦を出てからしばらく経つというのに、お互い何の言葉も発することもなく、非常にぎこちない空気が親子の間に漂っている。
白薔薇砦を出る時は、仕事が忙しい母だけでなく使用人の皆もわざわざ見送りに来てくれた。ブラッドとメアリーはまるで孫が独り立ちするかのようにハンカチで目元を押さえていた。母も寂しそうに目元を赤くしながら、「体に気をつけてね」と強く抱きしめてくれた。妹が大泣きして「お兄様、行かないで」と縋りついてきた時は、アレクシスもかなり心が揺らいだ。
一方で父は何か言葉をかけてくれるのだろうか、と恐る恐る顔を窺うと、無表情のまま「駅舎まで送る」とだけ言い出した。
――一人でも駅舎まで行けるから別にいい。
――結構荷物もあるだろ。俺の馬に乗せてやるから、いいから乗れ。……それに……。
――え、何て?
――何でもない。
断ったのに何故か頑なに送ると言って聞かない父の言うとおりに、同じ馬に乗せてもらうことになった。
――家を出る時に一人だと、寂しいだろ。
ボソリと、あの父がそんな台詞を呟いたような気がするけど、きっと気のせいだ。
父の馬に乗せてもらうのは随分久しぶりだった。小さい頃は父の腕にすっぽりと収まって一緒に遠乗りに出るのが大好きだった。しかし、父から乗馬を教わり、大きくなって一人でも乗れるようになると、いつしかこうして一緒に出かけることも無くなってしまった。
久々に背中から感じる父の胸板は相変わらず分厚かったが、十二歳になって同年代よりも体格が良くなったアレクシスが前に乗ると、昔よりも随分と窮屈に感じた。
「お前、大きくなったな」
「……そりゃ成長期だし」
「向こうでも好き嫌いせず、ちゃんと食ってもっとデカくなれよ」
「はいはい」
駅舎が見えてきた頃、背後の頭上から父がポツリと話しかけてきた。もっと素直に受け答えしたいのに、父との関係が拗れてしまってからはどうしても可愛げのない、ひねくれた態度を取ってしまう。
しばらく会えないのだし、何か、もっとちゃんと話したいのに。
ぎこちない親子のまま、もう目的地に着いてしまった。
「勉強も運動も、簡単に投げ出すなよ」
「わかってるよ」
馬から降りて荷物を受け取り、いざ別れる前になって向き合っても、こんな時まで小言を言ってくる父にがっかりした。アルバ大尉の言っていたことは、やっぱり嘘か、もしくは大袈裟だったんじゃないか。
「あと、下心もって近寄ってくるような女には注意しろよ」
「大丈夫、俺はお父様じゃないから。安心して」
「……待て、誰から聞いた」
「アルバ大尉」
「あいつ……っ」
自分と似てるからって、アレクシスも帝都で派手に女遊びをすると思ってるのだろうか。腹が立つ。
ふん、と父から顔を背け、さっさと列車に乗ってしまおうと踵を返した。
「じゃあ、もう行くから」
「アレク」
「っ、」
久しぶりに呼ばれた懐かしい愛称に、思わず心臓が跳ねて足を止めた。振り返ると、父は少し寂しそうに笑ってぎこちなくアレクシスの体を抱きしめた。
「何かあったら……いや、別になくても、いつでも帰って来い。……お前には、ちゃんと帰って来れる家があるんだから」
その言葉の重みに、アレクシスは息を呑んだ。
アルバ大尉が言っていた父の過去。家族の愛を知らず、実家を追い出され、絶縁した父。その父が幼い頃に感じていただろう寂しさ、望んでいた「帰る家」。それらが、父のその言葉に詰まっていた。
アレクシスの目頭が、どうしようもなく熱くなった。
「……うん、わかった」
小さく答えた声は、情けないほど震えてしまった。
帝都へ向かう列車の中。
窓枠に頭をもたせかけながら、アレクシスはそっと目元を拭った。
これから始まる新しい生活への期待と故郷を出る寂しさ。そして、久しぶりに感じた父の深く不器用な愛に、少しだけ涙が出た。
しばらくしたら母と妹、それに砦の皆にも手紙を書こう。
それから、仕方ないから――お父様にも生まれて初めての手紙を書いてあげてもいいのかもしれない。 <番外編 了>
これにて番外編も完結です。
ここまでお読みいただきありがとうございました!




