番外編7.天秤にかけた女の末路
――はぁ、こんなはずじゃなかったのに。
帝都の場末にある、壁紙のくすんだ中級宿の一室。ジュリアム・ダルトンは、奮発して用意したドレスに一度も袖を通すことなくベッドに投げつけ、ギリッと忌々しげに爪を噛んだ。
今日は皇太子殿下冊立祝賀晩餐会の日だ。彼女と夫のアダムは領地を持つダルトン伯爵家の名代として、意気揚々と貴族の憧れの地である帝都へやってきた。
やってきたのは、いいものの。
華やかに着飾った中央の貴族たちを目の当たりにした途端、長年領地に引きこもり社交から逃げ続けてきた夫のアダムは、完全に気後れして尻込みした。その結果、晩餐会直前になって「体調が悪いから行かない」などと情けない理由で逃げ出したのだ。
パートナー随伴必須である帝室主催の晩餐会において、夫の欠席は当然ジュリアムの欠席を意味する。せっかく、手のかかる七歳の息子を義父母に押し付けて、身軽になって帝都まで出てこられたというのに。全てが台無しだった。
――なんで私、こんなどうしようもない男と結婚してしまったのだろう。
隣の部屋から聞こえてくる夫の無神経ないびきに苛立ちながら、ジュリアムは深く息を吐き出した。
アダムとの仲が冷え切って、もう数年になる。
狙い通りに次期当主であるアダムを誘惑し、彼の子を身籠った時は、自分の人生は順風満帆だと思っていた。
病弱ゆえに卑屈だったアダムは、初めて自分を「男」として好いてくれたジュリアムに優しかったし、義父母も溺愛するアダムの子を身籠った彼女を大切に扱ってくれた。
これで自分も近い将来、豊かな領地を持つ伯爵夫人の仲間入りだと信じて疑わなかった。
だが、現実は甘くなかった。
ジュリアムを妊娠させたことで変な「男としての自信」がついたのか、アダムは妊娠中で身重のジュリアムを放り出し、あろうことか女遊びを覚えたのだ。手を出すのは決まって酒場の女や娼婦といった平民ばかりで、何度諫めても馬耳東風。彼を溺愛する義父母も「アダムの息抜きだから」と見て見ぬふりをした。
それでも、子どもが生まれれば父親としての自覚が芽生えるだろうと耐えた。
やがて生まれたのはアダムに似た男の子だった。待望の男児誕生に義父母は大喜びし、ダルトン家を挙げて盛大な生誕会が開かれた。さすがのアダムも、父になった喜びに涙を流していた。
これで次期伯爵夫人の座は確実なものになったと、ジュリアムは安堵したはずだった。
しかし、その子どもは恐ろしく育てにくい子だった。
よく熱を出すし、夜泣きも酷く、言葉や歩き出しの発達も遅い。人見知りや好き嫌いも激しく、なかなか懐かない息子に対し、堪え性のないアダムはあっという間に興味を失い、再び酒と女遊びの世界へ逃げ込んだ。
一方で、義父母はそんな孫を溺愛し、とことん甘やかした。結果として、息子は口うるさい母親であるジュリアムよりも、甘やかしてくれる義父母にべったりと懐くようになってしまった。
気がつけば、ダルトン家でのジュリアムの立場は危ういものになっていた。
現伯爵夫妻は権力を手放すつもりがなく当分引退しないし、夫は次期当主としての責任や社交を放棄して遊び歩いている。我儘に成長した息子は癇癪持ちで頭の出来もよろしくなく、義父母は何かにつけて「孫がいろいろできないのは母親の教育が悪いせいだ」とジュリアムを責め立てる。
彼女自身が自由にできるお金も、屋敷を動かす権限もなく、いつまで経っても「ただアダムと結婚して子どもを産んだだけの、よその家の女」でしかなかった。
それが、ダルトン家でのジュリアムの今の立場だった。
惨めすぎて、実家に泣きつくこともかつての友人を頼ることもできない。趣味だった華やかな社交界やファッション界の情報を追うことすら、虚しくなってやめてしまった。
本当なら、今頃帝都の社交界にも堂々と顔を出し、優雅な貴婦人の仲間入りを果たしているはずだったのに。
――もしあの時、あのままカイザーと結婚していれば。
決して触れてはいけないと心の奥底に封じ込めていた後悔が、安宿の淀んだ空気の中で、またしてもどす黒く鎌首をもたげようとしていた。
元婚約者であるカイザーは家督こそ継げない次男だったが、顔の造作も頭の出来もアダムの数倍――いや、比べるのもおこがましいほど上だった。
見合いの席で初めて彼を見た時、ジュリアムは内心歓喜に舞い上がった。あんなに見目麗しい男と結婚できるなんて。同年代の友人たちにも鼻高々に自慢して回ったものだ。
だが、実際に付き合い始めてみると彼はひどく「つまらない男」だった。
あれほど優秀なくせに、出来の悪い兄を出し抜いて家督を奪ってやろうという野心すら持たない。おまけに、婚約者であるジュリアムに対していつまで経っても指一本触れようとしなかった。
良く言えば紳士的だが、ジュリアムからすれば女の魅力もわからない「臆病者」でしかなかった。女として扱われない苛立ちは、彼女の虚栄心をひどく傷つけた。
その上、個人資産も殆ど持たないくせにジュリアムに何の相談もなく、突然「軍事学校に入る」などと言い出したのだ。
冗談じゃない。ジュリアムは豊かな領地を持つ貴族夫人として、夜会でドレスを翻して優雅に暮らしたかったのだ。いつ死ぬかもわからない、泥臭く貧しい軍人の妻としての生活など、これっぽっちも望んでいなかった。
だから彼女は将来性のない次男と、確実に領地を継げる長男を冷酷に天秤にかけ――あっさりとカイザーを捨てたのだ。
あの時の自分の判断は、決して間違っていなかったはずだ。
悪いのは次期当主としての責任を果たさないアダムであり、ジュリアムをいびる義父母なのだ。女主人として屋敷を管理し、華やかな社交活動に勤しむ生活は、貴族女性なら誰もが望む普通のこと。そんなごく当たり前のことを望んでいただけなのに。
――はぁ、どうしてこんなことに。
ジュリアムは安宿の硬いベッドに顔を埋め、どこにぶつければいいのかわからない怨嗟の溜息を薄暗い部屋に吐き出した。パサついた赤毛が顔に纏わりつくのがひどく鬱陶しかった。
*
晩餐会の翌朝になると、体調不良で寝込んでいたはずのアダムはジュリアムを置いて朝から遊びに出かけていた。
自分に一言も声をかけずにもぬけの殻になった隣室を睨みつけ、ジュリアムは落胆と苛立ちに任せて扉を荒々しく音を立てて閉めた。
国家的慶事に沸く帝都はいつも以上に華やいでいる。せっかく厄介な息子と苛立たしい夫が傍にいないのだ。一人で帝都観光でもして気晴らしをしようとジュリアムも街へ繰り出した。
「!」
――カイザーだわ。
帝都のランドマークである広場の時計台の下に、一人の男が立っていた。
ジュリアムは一目で彼だと気づいた。最後に会ったのは八年ほど前になるが、当時よりも更に逞しく洗練された大人の男になっていた。
シンプルなシャツにスラックスという出で立ちだが、長身で均整の取れた彼が着ると、一級品を身に纏っているようにしか見えない。少し開けられた首元から覗く鎖骨と、そこで光るシンプルな紺碧のネックレスがひどく色気を放っている。艶のある黒髪を後ろに撫で付けたその顔貌は、相変わらず見惚れるほどに美しかった。
広場を行き交う多くの女性達が歩みを緩め、彼に声をかけようかと熱っぽい視線を送っているのがわかる。
カイザーは確か、数ヶ月前にどこかの田舎の未亡人に婿入りしたと義父母が興味なさげに話していた。形式的に届いた手紙を一読してそのままゴミ箱に放り捨てていたっけ。
その時のジュリアムも大して興味が湧かなかった。「あの優秀だった男も、田舎の未亡人に婿入りだなんて落ちぶれたものね」と鼻で笑った気がする。そうやって彼を見下すことでしか、自身の今の惨めな現状を慰められなかった。
だが、久しぶりに直接目にしたカイザーは誰よりも輝いて見えた。
――私だって、少しぐらい遊んでもいいんじゃない?
皆が振り向く美丈夫と自分にはかつての「縁」がある。それに、カイザーのことを考えた矢先に本人が目の前に現れたのだ。これは運命的な再会というものではないか。
アダムだって好き放題遊び回っているのだし、自分だって少しぐらい羽を伸ばしてもバチは当たらない。それに、田舎の未亡人への婿入りなんてこんなにも魅力的な彼には勿体無い。現にこうして一人でいるということは、その未亡人と上手くいっていない証拠ではないか。
考えれば考えるほど、この運命的な再会にジュリアムの胸が高鳴った。
「カイザー! 久しぶりね」
ジュリアムはパサついた赤毛を手櫛で整え、満面の笑みを浮かべて彼に向けて明るく声をかけた。
親しげに名前を呼んで歩み寄るジュリアムを、彼に見惚れていた周囲の女達が指を咥えて羨ましそうに見ている。その視線が心地いい。
「……?」
しかし、数年ぶりに会うかつての婚約者に気が付かないのか、カイザーは怪訝そうに眉を顰めるだけだった。
「ほらっ、私よ、ジュリアムよ!」
「……?」
名乗ってもなお、わからないのか、彼は見知らぬ他人に向けるような冷ややかな目を向けている。
確かに彼に最後に会った時よりも出産を経て少し太ってしまったし、育児やアダムの浮気や義父母のいびりなどのストレスで肌や髪の手入れも完璧とは言えない。けれど、それでもわからないなんて男というものは本当に鈍感らしい。
「まさか帝都で会うなんて奇遇ね。これも何かの縁だし、よかったらこれからお茶でも……」
「カイ? お知り合い?」
不意に、背後から鈴を転がすような美しい声が降ってきた。せっかくの運命の再会に水を差され、苛立たしげにジュリアムは振り向いた。
その視界に飛び込んできたのは、息を呑むほど神々しい、今まで見たこともないような圧倒的な美貌を持つ女の姿だった。
一目で特注品とわかる上質な白と青の鮮やかなワンピースに、腰元の細いストラップベルトが彼女の華奢なシルエットをひどく魅力的に引き立てている。ワンピースから伸びる手足は透き通るように白くきめ細やかで、足元は衣装のデザインに合わせた美しいパンプスが包んでいた。
煌めく金髪を綺麗に編み込んだ左こめかみには白薔薇のヘアピンが添えられ、シンプルなイヤリングと共に陽光を浴びて上品に光を反射している。
そして、綺麗に開いたデコルテに覗くのは、先ほどカイザーの胸元にあったものと全く同じ、紺碧のネックレスだった。
ジュリアムは圧倒的な敗北感に息を呑んだ。
頭の先から爪先まで、何一つ勝てる要素がない。自分がどれほど背伸びしても届かない、本物の気品と神々しいまでの美しさがそこにあった。
ジュリアムは無意識に、己のくすんだ肌とパサついた赤毛を隠すように一歩後ずさった。
「エル、もう用事は済んだのか?」
ジュリアムを見据えていた先程までの冷ややかで険しい男の表情が、彼女の声を聞いた瞬間、嘘のように甘く蕩けるような顔へと一変した。彼の紫紺の瞳には、もう目の前の神々しい彼女の姿しか映っていないようだった。
「うん。……それより、そちらの方は?」
「ん? さぁ、知らない女だ。人違いでもしたんだろ」
カイザーはジュリアムを一瞥することなく心底どうでも良さそうに吐き捨てた。
「それより、あっちにエルの好きそうなパンケーキのカフェがあるぞ。早く行こう」
「うん!」
カイザーは彼女が持っていたハンドバッグを極めて自然な動作で奪い取りながら、愛おしくてたまらないというように、彼女の額にそっと口付けを落とした。そして、バッグを持つ手とは逆の大きな手で彼女の細い指をしっかりと絡め取り、二人は身を寄せ合いながらその場を去って行った。
その姿は、一枚の名画のように完成された美しさだった。ジュリアムが入り込む隙など、微塵も存在しない。
――誰よ、あの男。
ジュリアムの知るカイザーは、野心も色気もない「つまらない男」だったはずだ。あんな、一人の女を愛おしくて仕方がないと熱烈に求めるような、あんなにも甘い顔をするだなんて自分は全く知らない。
何より彼女を打ちのめしたのは、彼の中にジュリアムの存在が欠片すらも残っていなかったという、残酷すぎる事実だった。
「やっぱり“白薔薇の女神“は本物が一番綺麗ね!」
「えぇ、舞台女優も目じゃないわ」
「隣でエスコートしていた“女神の騎士“様も息を呑むほどかっこよかったわぁ」
「……ねぇ、さっきから言ってる“白薔薇の女神“って、何のこと?」
まるで嵐のような衝撃を残して去って行った二人を、周囲の女達が夢見るような瞳で誉めそやしているので、ジュリアムはたまらず横から尋ねてしまった。
「あなた、知らないの?! 一体どんな田舎で暮らしているのよ」
その悪気のない驚嘆は、実際に領地に引き篭もり、社交から遠ざかっていた惨めなジュリアムの痛いところを深く抉った。
「“白薔薇の女神と騎士“は今や帝国中で上演されている大流行の演目よ! 東部の白薔薇砦が舞台なんだから」
「さっきのあのお二人が、今の白薔薇砦の主で、劇のモデルになった本物なのよ!」
日々の鬱憤に忙殺され、社交界や流行のチェックを諦めて久しいジュリアムには全てが初耳だった。モデルとなった彼らを直接目撃して興奮冷めやらぬ彼女達は、青ざめるジュリアムの反応など気にも留めず、熱っぽく語り続ける。
「あの『レテリス』が“白薔薇の女神“と専属契約したってことは、さっきのコーディネートもそうなのかしら?」
「私、あの方が持っていたハンドバッグ、絶対に買うわ!」
「昨日の祝賀晩餐会でお召しになっていたドレスもすっごく素敵で、まさに“白薔薇の女神“って感じだったって話題持ちきりよ。あのドレス、もう予約が殺到して数ヶ月待ちらしいわ」
「隣の“女神の騎士“様も素敵……。あんなにかっこよくて、妻のために甘く尽くしてくれるなんて、帝国中の女性の理想の男性よねぇ」
ジュリアムは興奮する彼女達の話を最後まで聞くことができず、逃げるようにその場を立ち去った。
自分がかつて天秤にかけて捨てた男は、今や帝国中の理想の男として持て囃されている。片や自ら選んだ男は、逃げ癖がひどく妻を放置して遊び歩くどうしようもない男だった。
――どうして、こうなってしまったの。
場末のくすんだ中級宿へと逃げ帰ったジュリアムは、一人きりの薄暗い部屋で、決して着ることのなかったドレスを握りしめ、どうにもならない後悔と惨めさに顔を覆って泣き崩れた。




