番外編6.父の無言の愛
煌びやかなシャンデリアに照らされた豪奢な晩餐会の会場は、帝国各地から集まった貴族たちの熱気とざわめきに包まれていた。
皇帝ディミトリオは、一段高い壇上の玉座からその光景を静かに見下ろしていた。
昨日、一人息子の皇太子冊立式が恙無く終わった。皇太子と皇子妃の婚姻もまとまり、皇后の「療養」による混乱も収束して、ようやく次期皇帝を正式に立てることができたのだ。昨日は限られた重鎮や賓客のみの厳かな儀式だったが、今夜の祝賀晩餐会には帝国で領地を持つ全貴族を招いている。
もちろん、その中には今や帝国中で最も話題を掻っ攫っている「ディオス領主夫妻」の姿もあった。
「やはり、彼らは注目の的ですね。今夜の主役であるはずの私が完全に霞んでしまっている」
隣に座る皇太子が呆れたような、しかしどこか楽しげな声で苦笑を漏らした。
ディミトリオの視線の先――ホールの中央では、ディオス領主夫妻が音楽に合わせて優雅にステップを踏んでいる。
アイボリーを基調とし、鮮やかな碧をあしらった揃いの正装に身を包む二人は、まさに巷で流行している演目「白薔薇の女神と騎士」の主役そのものだった。彼らの周囲だけ空気が違うかのように、絵画や舞台の役者など足元にも及ばない本物のオーラを放っている。周囲の貴族たちはステップを踏むことすら忘れ、呆けたように彼らに見惚れていた。
ディミトリオは内心で皮肉げに鼻を鳴らした。
あの子の夫は、軍令無視によってエリート街道から転落した際、彼を妬む下品な貴族たちから嘲笑を浴びていたはずだ。それが今やディオス領主に婿入りし、「白薔薇の女神の騎士」として社交界の羨望の的となっている。
あの子自身もそうだ。少し前までは「帝国の英雄と元エリート軍人を誑かした悪女」などと陰口を叩かれていたのに、劇の大ヒットやアルテリスの姉妹ブランド「レテリス」との専属契約を経て、今やファッション界のアイコンとして君臨している。
現に、会場にいる流行に敏感な貴族女性たちは、あの子の耳元で揺れるイヤリングや白薔薇のヘアピン、そして二人がお揃いで身につけている紺碧のネックレスを、熱狂的な羨望の眼差しで値踏みしているではないか。
掌を返す社交界の現金さに呆れつつも、ディミトリオの胸中には十数年ぶりに見る娘の晴れ姿への喜びと、父親としての臆病な不安が渦巻いていた。
自分とエリシアナの関係を知る者は、片手で数えるほどしかいない。もし真実が露見すれば、ようやく安定した国が再び揺らぎかねない。それは自分だけでなく、あの子も望んでいないはずだ。
これまで個人的に送ったものといえば、名無しの手紙一通と領主就任時の簡素なメッセージカードのみ。返ってきたのも、領主就任祝いの品に対する形式的な礼状だけだった。
ヴァルツァーからの定期報告で、夫と共に幸せに暮らしていることは知っている。だが、美しく成長した娘の口から、直接その声を聞いてみたい。
けれど、これまで過酷な人生を強いられてしまった娘が、もし自分に向けて呪詛の言葉を口にしたら――。
卑怯にも、皇帝であるディミトリオは、一人の父親としてその瞬間をひどく恐れていた。
会場の音楽が少しアップテンポな曲調へと変わった。
おそらくこれまでダンスなど踊ったことがないだろうあの子を、その夫は余裕のある手つきで優しくリードしている。エリシアナを見つめるその顔つきはひどく甘く、蕩けきっていた。
上辺だけの冷ややかな微笑みや、職務中の睨みつけるような冷酷な顔つきしか知らない周囲の貴族達は、あの男がこれほど情熱的な表情を見せるのかと、さぞ驚いていることだろう。
必死にステップについていこうとするあの子も、心底楽しそうに笑っている。その笑顔は、かつてセレーナと踊った時の記憶を鮮やかに蘇らせた。セレーナも普段は美しい顔で澄ましていることが多かったが、心を許した相手には、あのように年相応の可愛らしい笑顔を向けてくれたものだ。
やがて曲が終わり、演奏が一旦の休憩に入った。
そのタイミングを見計らうように、二人に近づこうと下心を持った浅ましい貴族達が群がり始めるのが玉座からよく見えた。
「……父上? どうされました?」
「っ、いや……」
玉座の肘掛けを掴む両手にギリッと力がこもる。
皇帝として常に態度や表情を一定に保たなければならないのに、あの子たち――特にエリシアナを物色するように狙う有象無象の貴族達が憎らしい。隣に座る皇太子にも悟られるほど感情が態度に出てしまっていた。
虫のように群がろうとする貴族達を皇帝の権力で蹴散らしてやることもできず、ただ歯痒く耐えていると。
周囲の気配に人一倍敏感な彼が、流れるような動作であの子の腰を抱き寄せ、群衆の間をすり抜けるようにして人気のない回廊の方へ誘導した。おそらく初めての社交に疲れた妻を気遣い、休憩室にでも向かったのだろう。目当ての獲物を取り逃し、彼らとお近づきになれなかった貴族達が落胆の溜息を吐いていた。
さすがは数多の修羅場を潜り抜けてきた優秀な軍人だ。危機回避能力は折り紙付きらしい。
娘を完全に守り抜くその見事な手腕に安堵する一方で、愛しい娘をいとも簡単に独り占めして連れ去っていくあの男の背中に、ディミトリオは父親としてほんの少しだけ理不尽な嫉妬を抱えてしまった。
「陛下。ディオス領主夫妻が直接ご挨拶したいと申しております」
すぐ後ろに控えていた侍従からの声に、ディミトリオは息が止まるかと思うほど驚愕した。
どうやらあの子の夫は、妻を休憩室へ連れて行くふりをして、有象無象がおいそれと近づけない絶対の安全地帯――すなわち、この玉座の御前へと誘導したらしい。
「……通してくれ」
なんとか絞り出した声は、自分でもわかるほど掠れてしまっていた。
「帝国の偉大なる太陽であるディミトリオ陛下と、皇太子殿下にご挨拶申し上げます」
夫に伴われて進み出たエリシアナは、所作の隙一つなく恭しく首を垂れた。
「……あぁ、頭を上げてくれ。東部からよく、来てくれた。……ディオス領主」
「いえ……、もったいなきお言葉でございます」
十数年ぶりに交わす親子の会話はひどくぎこちなかった。
無理もない。この場には何も知らない皇太子がいるし、一段高い玉座は会場中から注目を集める。少しでも不自然な態度を取ればすぐに疑念を抱かれるだろう。それに何より、こんなに突然対面するとは思っていなかったので、ディミトリオ自身の心の準備が全くできていなかった。
「……陛下?」
張り詰めた不自然な空気に戸惑ったのか、皇太子が怪訝そうに横から声をかけてくる。
いけない、何か、皇帝として自然な声をかけねば――。
ディミトリオが焦燥に駆られた、その時だった。
「ディミトリオ皇帝陛下に直接お礼を申し上げたく、失礼を承知でここまで参りました」
カイザーがあえて通る声で、この重い空気を打ち破った。
「この度は帝国ホテルの一室を我が家門に永代にお与えくださり、誠に感謝申し上げます。我々は帝都にタウンハウスを所有しておりませんでしたので、大変助かりました」
「いや、亡き師への遅すぎる恩賞だ。貴殿らが遠慮することはない。帝都にくる時は自由に使いなさい」
「はっ、ありがたき幸せに存じます」
淀みないカイザーの言葉に合わせ、ディミトリオも皇帝としての威厳を取り戻して鷹揚に頷いた。
エリシアナに何でもいいから何かを与えたかった。
領主就任祝いとして形式的な品は贈ったが、社交に縁のない一介の地方貴族の結婚に対して、皇帝が公に祝いの品を贈ることはできない。
そこで、密かに個人資産から帝国ホテルの一室の「永久使用権」を買い上げ、二人に与えることにしたのだ。地方の大貴族や諸外国の賓客を迎え入れる帝室御用達の最高級ホテルであれば、セキュリティも万全であの子も安心できるだろう。
もちろん、それすらも非公式とはいえ理由もなく与えれば、必ず不要な詮索を生む。だからこそ、「かつて先代皇帝である父の命を救い、現皇帝の師として長年帝国を支えてきた帝国の英雄ガリオン・カーズの遺功への恩報」という、誰もが納得せざるを得ない大義名分を盾にした。
何もしてやれなかった娘への結婚祝いとして、亡き恩人の威光を借りるくらいの職権濫用は、天国にいる師も笑って許してくれるだろう。
「さすがは帝国一の最高級ホテルでした。妻も飛び上がるほど喜んでおりました」
「っ、と、飛び上がってなんか……っ!」
「初めてのホテルに“すごい、すごい“ってはしゃいでたろ」
「ひ、人前で言わなくてもいいでしょう! それも皇族方の御前で……」
真っ赤になって抗議する妻を、夫は楽しげに揶揄っている。
それは単に場を和ませるだけでなく、皇族の前で痴話喧嘩を披露してみせることで、先ほどまでの不自然で緊迫した空気を「無作法で仲の良い田舎の領主夫妻」という印象で上書きするための、彼なりの高等なカモフラージュなのだろう。
それに、娘の飾らない素顔を、わざと見せてくれようとしているのかもしれない。
なんとも食えない、だが頼もしい男だ。ディミトリオは思わず、父親としての素の笑みをこぼしてしまった。
「喜んでもらえたならよかった」
「二人のダンスは巷で評判の“白薔薇の女神と騎士“のようだったと、陛下と話していたのだよ」
場が温まったからか、口を挟まなかった皇太子も穏やかに会話に加わった。
「お褒めいただき光栄の至りに存じます。ディオスで散々、妻に足を踏まれた甲斐がありました」
「もうっ!」
真っ赤になって夫の腕をバシッと叩く姿は、どうしようもないほどに幸せそうだ。
あまり長居をしてはそれはそれで変な詮索を生む。気の利く男は頃合いを見計らい、妻を伴って深々と一礼してこの場を辞した。
「なんだか、噂と違って可愛らしいご夫婦でしたね」
「そうだな……」
皇太子の呑気な感想に相槌を打ちながら、ディミトリオは去っていく二人の背中を見つめていた。
かつて愛した女性そっくりに美しく育った娘。あの子が今、誰よりも愛する人に守られ、あんなにも幸せそうに笑っている姿をこの目で見ることができて、本当によかった。
踵を返し、人混みへと戻ろうとしたその時。
あの子が一度だけ振り返り、ディミトリオを真っ直ぐに見つめた。
そして、周囲には決して聞こえぬよう、声には出さず小さく唇だけを動かして微笑んだのだ。
――今までありがとう。お会いできて、よかったです。
玉座に座るディミトリオの目頭が、どうしようもなく熱く滲んだ。
シャンデリアの眩い光と、華やかな音楽に満ちた祝賀の夜。皇帝は誰にも気づかれぬよう、万感の思いを込めて、愛娘の背中へ小さく頷きを返した。




