番外編4.彼女と彼の「初めて」
――エルがおかしい。
夏の暑さが本格的になり、ディオスのあちこちで氷菓を売る出店が立ち並ぶようになった。いつもは隙のない濃紺の軍服を身に纏うカイザーも、最近は上着を脱いだ白いシャツ姿にサーベルのみを腰に携え、日々の仕事に励んでいる。
観光客が増えて以前にも増して活気づいたディオスでは、商魂たくましい領民達が羽振りのいい観光客に向けて、新たな特産品や土産物を次々と考案していった。それらの新商品の中から若い女性が好みそうな涼やかで甘い氷菓を見繕って帰宅するのが、最近のカイザーの習慣になっている。
エリシアナは食べ物でも何でも、自ら進んで嗜好品を手に取ろうとしない。そんな彼女の口元へ直接匙を運んでやると、恥ずかしがりながらもあの碧い瞳を煌めかせて美味しそうに頬張る。その姿がたまらなく可愛いのだ。
だが、最近はお気に入りの菓子や氷菓を差し出してもどうにも反応が鈍い。単純に飽きたのかと思ったが、彼女はいらない時は「もういらない」ときちんと口に出して断る女だ。無理をして食べているわけではないらしい。
それよりもどこか心ここに在らずというか、何か悩み事でもあるのか一人で考え込むことが多くなった。更に言えば、カイザーのことを探るような視線を送ってくるようになったのだ。
「エル、何かあったのか?」
「なにが?」
「最近、難しい顔してるから。何か悩み事か?」
「いいえ、大丈夫よ」
誤魔化して嘘をついている風でもないし、カイザーをあからさまに遠ざけているようでもない。ただ、ここ最近はずっと妙な違和感を覚えていた。
毎晩の夫婦二人きりの甘い時間の最中でさえも、どこか上の空のようだった。それどころか、ここ数日は「やることがあるから」と執務室に籠りきりで共寝すらしていない。
――もしかして俺、何かやらかしたか?
自分のここ最近の言動を振り返ってみる。
――皆目見当がつかない。
「なぁ、俺は何をやらかしたんだと思う?」
「そんぐらい自分で考えろよ」
いつものように使用人達をしごいた後、休憩がてらアイザックに助言を求めたが取り付く島もなく突き放された。この白薔薇砦の中で、カイザーはアイザックと一番馬が合うらしかった。歳は少し離れているが、いつの間にやら悪態をつきながらも気兼ねなく話せる友人のような間柄になっていた。
「この俺が珍しく他人に意見を求めたってのに、冷たい奴だな。もっかい吹っ飛ばすぞ」
「あんたのそういう傲慢で物騒なところが嫌になったんじゃねぇの?」
「……」
「……冗談だって」
まるでこの世の終わりのような絶望に沈んだ顔をしたカイザーに、アイザックは思わず面食らった。
「……」
アイザックは何か言いたげに口籠ったが、バツが悪そうに頭をガシガシとかいた。そして、もう休憩は終わりだとでも言うように、そそくさと木剣やらの片付けを始める。
「まぁ、そのうちわかるんじゃねぇの?」
「そのうちっていつだよ」
「さぁな。俺ら使用人も忙しいからもう行くわ」
片手をめんどくさそうにヒラヒラと振りながらアイザックは逃げるように本業へと戻って行った。
何やら含みのある態度だったが、結局カイザーの悩みは解決の糸口が見えないまま、ただただ不安だけが風船のように膨らんでいくのだった。
*
カイザーの胸の内で不安が膨らみ続けて数日後。
追い打ちをかけるように悪い話がカイザーの耳に飛び込んできた。
「あれ、カイザーの旦那、さっき領主様と二人であっちの方通らなかったか?」
「は?」
いつものようにディオスの街をパトロールしていると、顔見知りの領民に声をかけられた。
「いやさっき領主様と軍人さんが連れ立って歩いてたから、てっきり旦那とデートしてるんだと……あ、いや、遠目だったから見間違えたかもしれねぇな! 忘れてくれ」
仕事中にエリシアナと出歩いたことなど今まで一度もない。お互い公私混同は避けたいと考えているし、パトロール中は荒事にも発展する可能性があるから尚更エリシアナは連れて歩きたくない。それに、暗殺の脅威は消え去った今でも、彼女は基本的に砦から出ることはない。出るとしたら必ずカイザーが隣にいる時だけだ。
――なのに、自分以外の軍人の男と、連れ立っていた?
カイザーの纏う空気が一瞬でどす黒く変化した。相手を射殺さんばかりの凄まじい表情に、親切にも情報をくれた領民は慌てて逃げて行った。
「エル、何か隠してることあるだろ」
その晩、また執務室に籠ろうとする彼女を捕まえて問いただした。
「……どうしてそんなこと聞くの?」
エリシアナは嘘をつくのが下手だ。本人もそれを自覚しているからか、こちらと目を合わせることなく返事をはぐらかす。
カイザーはますます不機嫌になった。
「今日、どこにいた」
「どこって……ここにいて仕事していたわ」
「本当に?」
「ほ、本当」
――嘘だ。
嘘でなかったとしても、「一日中砦の中にいた」とは言わない言葉に疑念が確信へと変わっていく。
それでもカイザーはこれ以上追及することができなかった。可愛がるためにいじめることはできても、責め立てて彼女を追い詰めることなど、どうしてもできない。
それに、もし、万が一、自分の考える最悪な想定が当たっていたとしたら――。
カイザーは自分がどうなってしまうか恐ろしかった。
「……今日も一緒に寝られないのか」
「う、うん……」
「いつになったら終わるんだ?」
「あともう少しなの、だから……」
カイザーは自身のざわつく心を落ち着かせるように、大きく息を吐いた。そしてさっと身を翻して寝室に向かう。背後でエリシアナが何か言いかけた気配には気づいたが、どうしても振り返ることができなかった。
それから数日、二人の間には重く気まずい空気が漂い続けていた。毎朝の墓参りに向かう密室の馬車の中もしんと静まり返り、交わされるのは最低限の会話のみ。少し前まではくっつき合って深く口付けていた帰り道も、今は隣り合って座ることもしない。
このただならぬ空気に使用人達もオロオロし始めているが、なぜか今回はカイザーに理不尽な諫言も誰一人言ってこない。
カイザーは不安と苛立ちでどうにかなりそうだった。この状況を何とかしなければと思いながら、決定的な言葉を聞かされる最悪の事態が恐ろしくて踏み込めない。己がこれほどまでにウジウジとした情けない男だったなんて思ってもみなかった。
「あんた、明日は朝からサイスに行くんだろ?」
これまでの鬱憤を晴らすように、いつも以上に容赦なく使用人達をしごき抜いた後、アイザックが不意に話しかけてきた。
「あぁ、よくわからんがヴァルツァー少佐に向こうの指揮官を助けてやれと命じられた」
「ふぅん。……で、帰ってくるのはいつ頃になる?」
「さぁ、向こうの状況次第だが夜までには帰れるだろ。……なんでそんなこと聞いてくる」
サイス領は前悪徳領主による暴政からの再建の真っ最中だ。帝国直轄領として帝都から執行官が派遣され、東部支部からもいくらか軍を駐屯させているが、一度根深く蔓延った悪を取り除くのは容易ではない。タチの悪いゴロツキや、前領主と繋がっていた権力者たちが未だに抵抗を続けているため、その鎮圧に手を貸してやってくれと頼まれたのだ。
そのため、明日は朝からサイスへ出向く予定なのだが、柄にもなくアイザックが詳細な予定を確認してくる。まるで互いのスケジュールを共有したがる恋人のような不自然な振る舞いに、カイザーは思わず鳥肌が立った。
「別に。……まぁいい加減、明日までには機嫌直せよ」
「うっせぇな」
「サイスでしっかり気分転換してこいってこった。じゃあな」
一体何なんだ。要領を得ない慰めと不自然な確認に、カイザーは釈然としない苛立ちを抱えたまま、翌日久しぶりにサイス領へ出向いた。
*
サイス領での任務が思いのほか早く片付いたものの、カイザーはそのまま白薔薇砦に帰るのをなんとなく躊躇い、出店が立ち並ぶディオスの街道沿いをぼんやりと歩いていた。
少し前ならエリシアナの喜ぶ顔見たさにあれやこれやと店の商品を物色していたのに、今はとてもそんな気分になれない。
――いい加減、何とかしないと。
恐怖にすくみそうになる心を奮い立たせるように深呼吸し、地面に落ちていた視線を正面へ向けた。
その瞬間。
視線の先で、数ヶ月前から東部に居着いたかつての後輩のフィズィーロと、砦で政務に励んでいるはずのエリシアナが、親しげに出店の商品を物色している姿が飛び込んできた。
カイザーは頭で考えるよりも先に体が動いていた。
「お前、今度こそ死にたいらしいな」
「っ! え、先輩?! サイスに行ったんじゃ……」
仲良くエリシアナと談笑していたフィズィーロの首根っこを背後から掴み、自分の妻から力づくで引き離す。そして、いつぞやの時のように容赦なく胸ぐらを締め上げた。
「言ったよな、エルに手出したら殺すって」
「ちょ、ちょっと待って! 誤解!」
「カイっ! 待って、違うの! アルバ軍曹にはお買い物に付き合ってもらっただけなの! だから手を離して!」
人通りの多い街道で突然始まった修羅場。しかも渦中の人物があの有名な領主夫妻ということもあり、あっという間に多くの野次馬が集まってきた。
「最近俺に隠れてこいつと出歩いてたんだろ! 何で俺じゃないんだよ!」
「そ、それは……」
「マジで離して、首絞まってるから! っていうか夫婦喧嘩に俺を巻き込まないで……ッ」
「お願い、離してあげて。ちゃんと説明するからっ」
カイザーの腰に縋りつき、上目遣いに潤んだ瞳で頼み込むエリシアナの顔を見た途端、カイザーの腕から徐々に力が抜けていく。これほど怒り狂っていても、彼女に懇願されたら無碍にできない自分が情けなかった。
「ゲホッ、ゴホッ……もう、ほんと夫人と関わると碌なことがない……」
「お前、エルを侮辱すんのか」
「夫人じゃなくて、夫人のことになるとバカになる先輩に言ってます」
「……やっぱり死にたいらしいな」
絞められて息苦しい喉元を押さえながら、フィズィーロは尊敬していたはずの先輩を心底呆れた目で見上げた。息を整えると、「あとは夫婦で話し合ってください」と吐き捨て、そそくさと野次馬の人だかりの中へ逃げるように消えて行った。
衆目を集めてしまったことがいたたまれないのか、エリシアナは俯むきながら小さな声で「とりあえず家に帰りましょう」とカイザーの腕を掴んだ。未だ腹の底で怒りは燻っていたが、久しぶりに彼女から触れてきたことと、「帰れば全部わかるから」という言葉に、カイザーは渋々従った。
気まずい沈黙を引きずったまま白薔薇砦へ帰り着くと、いつになく華やかに飾り付けられた玄関ホールにカイザーは目を丸くした。
まだ準備の最中なのか、使用人達がバタバタと忙しなく動き回っている。それはまるで、エリシアナの誕生日を祝った時のような特別感だった。
「何でこんな早く帰ってくんだよ」
大皿に盛られた豪勢な料理を両手に持ったアイザックが、ひどく恨めしそうな顔で文句を言ってきた。
「今日は、何のパーティーなんだ?」
「あんた……本気で言ってんのか」
「は? エルの誕生日は冬だろ」
「お嬢様……こいつ、まだわかってないんですか」
「そうみたい」
「? だから、何なんだよ」
普段はあらゆることに勘が鋭く、察しの良いはずの男がここまできてまだ状況を理解していない。心底呆れたような、哀れみすら混じったような顔でアイザックは言った。
「今日は、あんたの誕生日だろ」
*
「サプライズっていうものを、してみたかったの……」
準備で慌ただしい玄関ホールから一旦追い出された二人は、誕生日パーティーが始まるまで寝室に繋がる夫婦の部屋で待機することにした。
呆然とするカイザーをソファに座らせ、すぐ隣に腰掛けたエリシアナがこれまでの経緯をぽつぽつと語り始めた。
砦の皆で誕生日を祝おうと計画を立てたものの、プレゼントに何が良いのかずっと悩んでいたこと。しばらく観察しても夫の欲しい物がわからず、自分よりも付き合いの長いフィズィーロに助けを求めたこと。彼と一緒に何度か出かけていたのはプレゼントを探すためだったが、結局しっくりくるものが見つからず、今日に至ってしまったこと。そして、パーティーの準備のためにヴァルツァーにも協力してもらっていたこと。
「あなたはいつも私を喜ばせてくれるから、今回は私があなたを喜ばせたかったの。……でも、結果的にあなたを傷つけてしまったら本末転倒だわ。本当にごめんなさい」
エリシアナが俯きながら悔いた。
「いや、俺こそ早とちりして、エルに酷い態度を取った」
カイザーはまだ頭がぼんやりとしていた。
この数週間は生きた心地がしなかった。エリシアナに愛想を尽かされたのではないか、他に男ができたのではないか。外の世界を知り始めた彼女に「もうあなたはいらない」と見捨てられるのではないか――。
思考がひたすら後ろ向きになりどんどん視野が狭くなっていった。自分の誕生日だなんて、頭の片隅にもなかった。実の家族にすらろくに祝ってもらった記憶がないのだから、尚更だった。
「パーティーで渡そうと思っていたのだけど・・・・・・」
エリシアナが小さくも綺麗に包装された箱をおずおずと差し出した。開けてみると、上質なシルクの白いハンカチが入っていた。縁に沿うように白薔薇の刺繍が施され、カイザーのイニシャルも縫い取られている。それらのステッチは、市販の完璧なものとは違い、少しだけ歪だった。
「もしかして、これ……」
「刺繍なんてしたことがなかったから、得意なメイドの皆に教えてもらってたの。すごく時間もかかっちゃったし、下手くそなのだけど」
カイザーはたまらずエリシアナの細い体を強く抱きしめた。
「最近ずっと一緒に寝られなかったのは、これのため?」
「うん。内緒にしたかったから」
「……手製のプレゼントなんて、生まれて初めて貰った。すごく嬉しい。……絶対、大事にする」
――毎晩執務室に籠って、夜な夜なハンカチに刺繍をしてくれていたのか。俺のために、慣れない針仕事に挑戦して。
そう想像しただけでカイザーは目頭が熱くなった。元々涙脆いわけでも、感受性が豊かなわけでもない。心のどこかでいつも冷めていた己が、自分のために懸命に準備をしてくれた彼女の愛情に触れ、どうしようもなく感激した。
「本当はプレゼントは二つ用意したかったの。あなたがくれたヘアピンと、イヤリングのお返しとして」
「そんなの気にしなくていいのに」
「私がそうしたかったの。……結局用意できなかったけれど。だから、何か欲しい物やして欲しいことがあったら教えて?」
カイザーは元来物に執着しないタチだ。実用的で邪魔にならなければ何でもいいし、収集癖もない。だが、「して欲しいこと」は明確にあった。
「一緒に買い物に行きたい」
「そんなのでいいの?」
「他の男と出かけてほしくない。これからは全部俺が付き合うから」
「わかった。……他には?」
「今すぐ触れたい」
抱きしめた腕の中で、エリシアナの肩がぴくりと跳ねた。
「……でも、このあとパーティーがあるから」
「その前に一回だけ」
「いつも一回じゃ終わらないじゃない」
「エル……俺の誕生日、祝ってくれるんだろ?」
「……っ」
ずるい切り返しとすり寄るような甘いおねだりに、エリシアナはあっさりと陥落した。
後日、二人で一緒に買い物に出かけた先で、お揃いのネックレスを注文した。
一つの鉱石から削り出された紺碧の小さな石を使い、互いの仕事の邪魔にならないようデザインは極めてシンプルにした。遠目には黒や濃紺に見えるそれは、光に透かすと鮮やかな碧に色を変える。それはまるで、濃紺の軍服を身に纏う黒髪のカイザーと、碧眼のエリシアナを連想させるものだった。
これまで装飾品など身につけたことのなかったカイザーが特に気に入り、彼女からもらったたくさんの「初めて」と、愛しい妻との「初めてのお揃い」にご満悦なのだった。




