番外編3.彼と彼女の「初めて」
ディオス全体を挙げて祝福された結婚式から約一ヶ月。
エリシアナは新領主として変わらず政務に励んでいた。サイス領との賠償問題もようやく片付き、領主就任パレードや結婚式といった大イベントも無事に終わった今、彼女は落ち着いた日々を取り戻している。週に一日は休日を設け、カイザーと共に砦の外へ出かけるのが今のエリシアナにとって何よりの楽しみだった。
一方のカイザーはとんでもなく忙しくなった。
毎朝の墓参りへの同行後は、大抵街に出て寄合や役場に顔を出し、商人達と事業について話し合う。それまでブラッドが担っていた外仕事を彼が引き継いだのだ。砦の連絡係としてあちこち足を運びながら軍人として街のパトロールも行い、領民達の陳情に耳を傾け、時には東部支部にも顔を出す。その合間に砦の使用人達の訓練にも付き合い、夜には愛しい新妻を存分に可愛がる。
困ったことに、エリシアナの領主就任パレード以降、観光客が増え出したことでトラブルも急増した。
噂の「白薔薇の女神」を一目見ようと砦周辺に人だかりができてしまい、中には不法侵入を企てる者や、権力や財力を盾に「噂の新領主に会わせろ」と強引に乗り込もうとする者まで現れる始末だ。
門番だけで対応が難しい場面にはカイザーが出張るしかない。懸賞金目当てのゴロツキに狙われていた時以上に、護衛としての仕事も増えてしまった。もちろん、相手は命を狙う襲撃目的ではないので手荒な真似は避け、あくまで穏当に対処して追い払うのだが、その堂々たる立ち回りが「白薔薇の女神の騎士」の体現だと、皮肉にも若い女性を中心に更なる注目を集めてしまうのだった。
――私の夫なのに……。
視線を送る女性たちを見るたびに、エリシアナの胸の奥で小さく黒いモヤモヤが渦巻くようになっていた。
*
とある夜。湯浴みを終えたエリシアナはベッドの上で平民向けの学校新設に関する計画書に目を通していた。先日、サイス領から多額の賠償金を受け取ったため、以前から温めていた構想をいよいよ形にしようとしていた。
「学校を建てるのか?」
遅れて寝室にやってきたカイザーがベッドの中へ潜り込んでくる。いつものようにエリシアナを背後から抱え込むように位置どり、彼女の肩口から手元の書類を覗き込んできた。
湯上がりでいつもより体温の高くなった腕がエリシアナの腹に回される。背中越しに伝わる彼の熱や、ふわりと香る石鹸の匂い、そして耳元を震わせる男らしい低い声に、エリシアナはいつまで経っても慣れない。
緊張で速まる鼓動と赤くなる頬を隠すように、彼女はやや早口で答えた。
「サイスから受け取った賠償金を充てようと思って。元々、学校はもっと増やしたいと考えていたから」
「ディオスの領民は恵まれてるな。こんなに領民思いの領主様が街をちゃんと治めてくれるんだから」
カイザーがエリシアナの首元に頬擦りし、そのまま首筋から耳元へと這うように唇を落とす。未だに初心な妻の反応を楽しむのが半分。そしてもう半分はこの後に控える濃厚な夫婦の時間への甘いお誘いだ。
カイザーとこうして二人きりで過ごす甘い時間は、今ではもう両手で数えられないほどに重ねてきた。彼から向けられる底なしの愛情と熱に、エリシアナはいつもペースを乱されてしまう。妻を翻弄する張本人は大変嬉しそうで、エリシアナ自身も実は満更でもない。
ただ、最近自分以上に忙しく動き回っている彼の姿を見ていると、今夜ぐらいはゆっくり体を休めてほしいとも思うのだ。
エリシアナは彼の甘いお誘いに気づかないふりをした。
「……ディオスはまだ文字の読み書きや計算ができない人が多いから。基礎的な教養が身につけば少しでも生活が良くなると思うの。それに、両親が働いている間は子どもたちをお世話してくれる人も場所も今は少ないから」
「確かにな」
学校を建てたいもう一つの理由――。
それは子ども時代に自分自身が通ってみたかったからだ。
かつて逃亡生活の中で身を潜めていた街の中には、平民向けの学校が存在する街もあった。だが、いつ追っ手が来るかわからない生活の中では通えるはずもなく、友達同士でその日の課題に取り組む同年代の姿を、ただ横目で眺めるしかできなかった。
母が生きていた頃はひっそりと勉学を見てもらっていたが、やはり彼らが羨ましかった。暗殺の危機が去り、人生で一番穏やかで幸せな時間を過ごしている今でも、同年代の友人ができたことがないエリシアナにとって、学校は羨望の対象だった。
「あなたは幼い頃からアカデミーに通っていたのでしょう? 楽しかった?」
自分とは違って、帝都の全寮制アカデミーで幼少期を過ごしてきたカイザーに尋ねてみる。彼も寂しい幼少期を過ごしてきたからか、自分から過去をあまり語りたがらない。エリシアナのことはあれこれ知りたがるのに、自分のこととなると口が重くなるのだ。
「……俺は実家に居場所がなかったから、アカデミーは楽しかったな。気兼ねなくあれこれできたし、帝都だから休みの度に遊び回ってた」
カイザーの声のトーンが少し下がった。彼の言葉には隠しきれない寂しさが滲んでいた。
だがそこでふと、彼の仲の良い後輩の言葉を思い出す。
「そういえば、アカデミー時代は随分と女性関係が派手だったと聞いたわね。それに軍事学校時代は特定の恋人は作らず、同じ女性とは二度と関係を持たなかったとか?」
「待て。誰から聞いた」
「アルバ軍曹」
「あいつ……っ」
苦虫を噛み潰したような苦々しい声がすぐ耳元で響いた。腹に絡みつく腕にもギュッと力が入る。
「やっぱり本当だったのね」
「今はエルだけだから!」
「……何も言ってないけど」
「疑ってるだろ」
「いいえ? “貴族の女性が嫌いで同じ人と二度は関係を持たないあなた“が、私と結婚したということは、そういうことなのでしょう?」
後ろから顔を覗き込もうとするカイザーから逃げるように言う。澄ました顔を作ってはいるが、エリシアナは内心穏やかでなかったのは事実だ。
決して彼の愛を疑っているわけではない。エリシアナを見つめる熱い眼差しや、優しく時に激しく触れてくる指先は、特別な愛情を伴ったものであることは嫌と言うほど身をもって知っている。
けれど、狭い世界でしか生きてこなかったエリシアナにとって、経験豊富な彼が時折りひどく遠い存在のように感じてしまう。エリシアナのあらゆる「初めて」は全て彼なのに、彼はそうではない。
それに、帝都時代から人気だったという彼の魅力は落ち着くどころか、最近は砦の外の仕事が多くなって更に世の女性達を虜にしている。
軍人でありながら帝都の社交界でも有名だったという彼は、以前「帝都の商人や職人との伝手なら任せろ。向こうもまだ俺に借りがある奴が何人かいるからな」と言っていた。あらゆる方面に顔が広く、自分にとってこれほど魅力的な男は、やはり他の多くの女性にとっても魅力的に映るのだと思い知らされる日々だ。
女性としての自信を持ちきれないエリシアナは、ここ最近ずっと密かなモヤモヤを抱え続けていた。
「エル」
書類に視線を戻したエリシアナに拒絶されたと思ったのか、カイザーが真剣な面持ちで、背面から彼女の正面へと回り込んできた。そしてエリシアナの手元にあった計画書をサイドテーブルへと追いやり、その小さな手を大きな両手で力強く包み込む。
「ここに来てからは本当にエルだけだ。命を賭けてもいい」
「急に物騒なこと言わないで! わかってるわよ、黒薔薇からもそんな報告は上がってきてないし」
「じゃあ、何でそんな顔するんだ」
「私はいつもこんな顔よ」
「違うな。いつもはもっと食べたくなるくらい可愛いのに、今は怒ってる……いや、拗ねてる」
――この男、今さらっとすごく恥ずかしいことを言ったような気がする。
真顔でじっとこちらを観察しながら出てきた不似合いな甘い台詞に、俄かに顔が熱くなる。それにしても、一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、言葉に出さないエリシアナの心の内がいとも簡単に見透かされるようになってしまった。エリート軍人様は観察眼も優れているのだろうか。
「浮気を疑ってないなら、何が引っ掛かってるんだ」
なおも手を拘束したまま、エリシアナを逃すまいと端正な顔が迫ってくる。こうなった時のカイザーは絶対に逃してくれない。観念したエリシアナは目線を合わせられないまま、小さな声でポツリとつぶやいた。
「あなたは経験豊富で、何でも知っているでしょう。なのに、私は何にも知らないから……」
「だから俺が今、一から色々教えていってるだろ」
「……私は全部初めてなのに、あなたは違うじゃない」
「エルの初めては全部俺のなんだから当然……って、あぁ」
そこでようやくエリシアナの言わんとしていた本音を理解したのか、カイザーはすぐさま心底嬉しそうなニヤケ顔を浮かべていじめ始める。
「……俺の"初めて"がほしいのか?」
「……そんなこと言ってない」
「なら違うのか?」
「……」
案外嘘をつくのが下手なエリシアナはもう黙るしかない。しかし、カイザーにとってはこの沈黙こそが肯定に他ならない。ますます嬉しそうに、そっぽを向くエリシアナの顔に唇が触れそうな至近距離まで迫ってくる。この後の展開が完全に読めてしまったエリシアナは、この夜二度目の気づかないふりを試みた。
「……もう寝ましょう」
「俺が逃すと思ってんのか」
「あなた、最近は私よりも忙しいじゃない。疲れてるんだから今日はゆっくり寝ましょう」
「こんなの疲れたうちに入るかよ、軍人の体力舐めんな。……それに、労ってくれるんなら寧ろ付き合ってくれ」
「どうしてそうなるの!」
「俺にとっての一番の癒しは、エルを可愛がることだから」
言うが早いか、エリシアナの抗議の返事を聞かずにカイザーは勢いよくその唇にかぶり付く勢いで塞いだ。
*
その後、窓の外が白み始めるまでカイザーの甘く執拗な束縛は続いた。エリシアナがどれだけ「もう寝かせて」とお願いしても止まることなくはなく、恥ずかしがる余裕すら奪い去っていく。
これまで経験したことのない深い情愛の波に幾度も息を奪われ、エリシアナは身も心も彼への愛おしさに満たされていった。
翌朝、腰が抜けて起き上がれないエリシアナを甲斐甲斐しく世話した後、カイザーはいつもどおり――いや、かつてないほど上機嫌な顔で仕事に向かったのだった。




