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番外編2.メイド長の追憶


 濁流が渦巻く川のほとりで、メアリーは傘も差さずに大雨に打たれていた。

 全てがどうでもよかった。このまま冷たい水底に沈んでしまえば、絶望に満ちた息苦しいだけの人生から解放される。


メアリーは帝都で名の知れた有力貴族の娘だった。

 両親は貴族らしい貴族で、見栄や世間体を何よりも重視し、十五も歳の離れた貴族の男へ後妻として娘を嫁がせることにした。

 貴族同士の結婚は政略結婚がほとんどだ。そこに当人の意思や幸せな未来は必要ない。メアリーは十代後半で自分の人生を諦めていた。


 全てが灰色に見えた世界で、メアリーは平民で天涯孤独だという軍人の男と出会い、すぐさま恋に落ちた。メアリーは思慮深く、後先考えないような夢見がちな少女ではなかった。だが、その男に出会って灰色だった世界が再び色づいたのだ。

 男が東部へ配属されると同時にメアリーは姓と家族を捨て、駆け落ちした。


 貴族の娘が東部の辺境に身一つで生活するには苦労の連続だったが、愛する夫と仲睦まじく細々と暮らしていた。

 やがて妊娠し、あと数ヶ月で産まれるという時に、夫が長年続く大国との戦争に出兵することが決まった。いつ帰って来られるかわからない戦場だったが、一兵卒の夫が断れるはずもなく、身重のメアリーはたった一人で娘を産んだ。


 初めての出産、初めての育児に奮闘する中、戦地の夫からの手紙が途絶えだして二ヶ月後。夫は帰らぬ人となり、戻ってきたのは軍服に縫い付けられた泥と血に塗れた小さな身分証だけだった。娘が二歳になった頃のことだった。


 夫を亡くし、頼れる身内もおらず心が折れそうになったが、たった一人の娘のために必死に働き育てた。

 しかし娘が五歳になる頃、東部を中心に流行病が猛威を振るった。幼い娘は病に冒され、その一ヶ月後に呆気なく息を引き取った。


 今度こそメアリーは生きる気力を失った。



 ――もう、疲れた。私も、あなたたちのところへ行くわ。


 そうして、大雨の川にまさに身を投げようとしたその時だった。


「ご婦人!身を投げようとするなんて何があった」


 力強い太い腕に、ぐいっと後ろへ引っ張り戻された。


「……夫が三年前にアンゴラとの戦争で死にました。先月には一人娘が病で死にました。……もう、生きていけません……」


 大雨で意味などないだろうに、見知らぬ大柄な男は自身のマントをメアリーの肩にかけた。


「すまんかった」

「なぜ、あなたが謝るのですか」

「俺がもう少し早く戦を終わらせていれば、あんたの夫は死なんかったかもしれん」

「……? 軍人様、あなたは……」

「俺はガリオン・カーズ。一応ディオスの領主だ」


 ガリオン・カーズーー。新聞も届かないような田舎にいたメアリーでもその名は聞いたことがあった。夫が戦死した一年後に、長年続いた大国との戦争を終結に導いた帝国の英雄だと。


「あなたのせいではありません。……でも、私のたった一つの生きる希望だった娘もいなくなったら、もう……」

「ご婦人、どうせ死ぬなら、その前に頼みたいことがある」

「なんですか」

「うちの砦を綺麗に片付けてくれんか」

「……は?」


 大雨で彼の言葉を聞き間違えたのか、それとも自分の精神がおかしくなったのか。入水自殺をしようとしたメアリーに、ガリオンは想定外の頼み事をしてきたのだ。


「うちの砦は広くてな。あっちこっちに白薔薇が咲いておるんだが人手が足りんくて管理が行き届かん。砦の中も散らかっとる」

「なぜ、私がそんなことを……」

「あんた、貴族の出だろう? 言葉遣いや発音が綺麗だ。身なりは平民だが所作は貴族のものだ。俺は名ばかり貴族の出だが成り上がりの領主で、使用人達は執事長以外はみんなディオスの平民だ。領主の城の管理方法なんて知らんのだ」

「それでも、どうして私が……。奥様が管理されるべき――」


 「奥様」の単語を口にした瞬間、ガリオンの表情が暗くなった。その顔を見て、メアリーは田舎にまで聞こえてきた噂を思い出した。

 ディオス領主夫人も昨年病死した、と。メアリーの娘と同じ、あの流行病だった。


 雨に打たれたガリオンは、まるで泣いているように見えた。


「愛する妻を守ろうと砦をどれだけ立派に強固に作り上げても、……目に見えん病だけは防ぎきれんかった」


 悲痛な顔と震える声で絞り出したその言葉に、メアリーは夫と娘を失った自分を重ねてしまった。

 

 ――どうせ死ぬなら今死ぬのも、もう少し後で死ぬのも同じか。


 メアリーは冷たい川から離れ、そのまま白薔薇砦へ移ることになった。



 白薔薇砦の毎日は一言で言うなら「目が回るほど忙しい」だった。


 ガリオンが愛しい妻のために無計画に始めた砦の増改築のせいで、敷地は到底今の使用人の数では手が回らないほど無秩序に広がりきっていた。メアリーよりも早くから砦で働き始めた執事長は、ガリオンの無茶振りに振り回され本来の執事業にすら手が回っていない有様だ。


 高度な教育を受けていない平民の使用人達は、貴族の邸宅の管理など知るはずもなく、手探りで中途半端に手を出しては砦内をどこか雑然とさせている。せっかくの見事に咲き誇る白薔薇がもったいない、とメアリーは思わずにはいられなかった。


 本来なら女主人である領主夫人が取り仕切るべきことなのだが、そのソニアはもういない。名のある貴族女性なら誰もが受ける教育を徹底的に叩き込まれているのは、この砦内にはメアリーただ一人だった。

 貴族としての人生をとうの昔に捨てたはずが、今はかつて貴族令嬢として培った教養を遺憾なく発揮している。そんな自分の状況がなんとも言えず、不思議だった。


 しかし、平民の使用人達を教育し、雑然とした砦内を少しずつ片付けていくうちに、夫と娘を失い茫然自失となっていた彼女の心は確実に救われていったらしい。気づけば三年もの月日が流れ、メアリーは白薔薇砦のメイド長として忙しく立ち回っていた。

 もう、亡き家族の後を追おうとする暗い衝動は完全に失せていた。


 そのうちにガリオンから「黒薔薇」の統率という裏の任務まで引き継がされることになり、忙しさは更に加速した。

 元々はガリオン自身が創設し、目についた人間を手当たり次第に【芽】として黒薔薇に引き入れ、砦とディオスの治安維持のためのカーズ家直属の密偵組織。

 しかし、ガリオンの性格上、裏であれこれと画策するのは性に合わなかったらしく、誰か信用のできる人間にさっさとその座を明け渡したかったらしい。

 適当に作って適当な人間を加入させておきながら、ガリオンの死後である現在もしっかりと機能しているのだから、本当に彼の人を見る目は天性のものがある。

 



 メアリーは密かにエリシアナを亡き娘に重ねている。

 幼い頃から命を狙われ続け、十九歳で声を失った状態で初めて目にしたエリシアナは絶望の淵に立っていたかつての自分と重なった。もし、自分の娘が同じ境遇だったらーーとは考えずにはいられず、誰よりも親身にエリシアナの世話をした。


 少しずつ心身を回復していったエリシアナは、その過酷な生い立ちのせいか、強情でなかなか人を頼ろうとしない。でも時折見せる素顔は、年齢よりもずっと幼く可愛らしい。

 亡き娘が成長していたら、どんなふうに育っていたのだろう。エリシアナのようにしっかり者に見えて本当は寂しがりやな女の子だったんだろうか。


 カイザーが左遷されてきたあの日、エリシアナは珍しく感情を露わにしていた。口では気に入らないと言いながらも、常に彼の動向を気にしている姿は、誰がどう見ても恋する少女そのものだった。本人は頑なに認めようとしなかったが。


 一方のカイザーの方は更にわかりやすかった。もしエリシアナに対して不埒な行いをすれば誰がなんと言おうと即刻叩き出すつもりでメアリーは目を光らせていた。しかし、エリシアナにちょっかいをかけながら傍を離れようとしない彼は、愛おしくて仕方がないという顔をしていた。見え透いた下心は存分に感じられたが、エリシアナを傷つけることは決してないだろうと確信できたので、あえて静観することにした。


 そして、数々の試練を乗り越え、二人が夫婦としての門出を迎えた日。

 メアリーは、ようやく肩の荷が下りたような気分だった。普段は素直に感情を出せないエリシアナが、彼の前では嬉しそうに笑っている。そのウェディングドレス姿を目にし、メアリーは涙が溢れた。

 それは、大雨の川辺で流した絶望の涙とは違う。まるで、ずっと気がかりだった我が子が、ようやく幸せを掴んで巣立っていったかのような、そんな温かい涙だった。


 結婚しても相変わらず子どものように仲良く戯れ合っている姿を微笑ましく眺めながら、メアリーは今日の仕事に取り掛かる。

 これから砦の一般公開に向けて新人メイドを何人か採用したので、みっちりと教育せねばならない。それに、二人のあの仲睦まじい様子なら、近いうちに嬉しいニュースがまた聞けそうだ。そうなった時に慌てないよう準備もしておかなければ。


 かつて大雨の中で死に場所を求めていたメアリーの心は、今や、希望に満ちた未来にしか向いていなかった。



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