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番外編1.執事長の追憶


 ――もう、死のうか。


 戦地の夜深く、薄暗い幕舎で一人、山積みの報告書に向かいながら、ブラッド・ハーマン少尉は本気でそう考えていた。


 ブラッドは軍の高官を代々輩出するハーマン伯爵家の直系長男だった。だが、体の線が細く、外で遊ぶよりも室内での読書を好む彼は武門の家において完全に出来損ないの異端児だった。

 一つ下の次男や三つ下の三男にすら体格や筋力で劣る始末で、早々に家督の継承権は次男に移り、両親だけでなく使用人にも疎まれた。


 それでもハーマン家の男は「軍人」以外の選択肢は用意されていなかった。

 貧弱なブラッドは地獄の特訓についていけず何度も気を失っては倒れ、実技の成績は常に最下位。

 周囲から嘲笑され、友人もできず、唯一の取り柄であるはずの座学でさえ、極限まで削られた体力ではまともに振るわなかった。 

 

 ハーマン家直系というだけで何とか留年や退学を免れて入軍したものの、実家から見放されながら、ハーマン家出身というだけで落ちこぼれを見逃されている状況に周囲の目は厳しいものだった。


 もう死のうかと本気で考えるようになった人生のどん底で、ブラッドはペンを握りながら絶望に沈んでいた。

 その時だった。


 バサッ!


 幕舎の入り口の幕が勢いよく上げられたかと思うと、そこには見上げるほど背の高い、筋骨隆々の男が立っていた。


「ん? 幕舎を間違えたか、すまん」

「っ! カーズ大尉っ!」


 夜間の視界が悪い中、いくつもある幕舎を間違えたらしく、ブラッドが一生声をかけることのできないような、雲の上の有名人がそこには立っていた。ブラッドは眠気や疲れが吹っ飛ぶほど驚き、すぐさま直立で敬礼した。


「こんな夜遅くにすまんかったな、座ってくれ。……ん? お前、これ一人で仕上げたのか」

「えっ、あ、はぃっ」



 落ちこぼれで無能な自分と、しばらく前に皇太子を単騎で奪還した救世主のガリオン・カーズ。

 接点はあるはずもないのに、幕舎を間違えたガリオンは簡易机の上に綺麗に積み上げられた報告書の山を指差して話しかけてきた。


「お前、すごいな!」


 お世辞とは思えない、純粋な感嘆の声だった。


「な、何がでしょう……」

「この大量の報告書を全部一人で書き上げたのか!」

「それぐらいしか、できることがないだけです……」

「“しか“ではないぞ、もっと胸を張れ!」

「私は軍人として無能なので、せめてこれぐらいはできないと上官に殺されるんです」


 ガリオンが鼻息荒く賞賛してくれるのに反して、ブラッドはどんどん声が暗く、小さくなっていった。


「なら、俺はもう何回もぶっ殺されてるな! いまだに報告書の一枚も書けんから。ハハハッ!」

「あなたは……皇太子殿下を救った国の英雄ではないですか。私なんかとは、全く違います……」


 こんな落ちこぼれの自分にも分け隔てなく豪快に接してくれるガリオンは、とても大きく頼りがいのある男に見えた。そして同時に自分とは真反対の、遠い存在であることを見せつけられた気がした。


 ブラッドの暗い表情に気付いたのか、ガリオンはしばらく彼の様子を観察すると落ち着いた声で問いかけた。


「お前、名前は?」

「ブラッド……ハーマン、少尉です」


 こんな雲の上のような人に、自分が「あのハーマン伯爵家の有名な落ちこぼれ」であることを知られるのが恥ずかしかった。そして、「ハーマン」の名を聞けば皆「あぁ、お前があの……」という哀れな眼差しを向けるのだ。


「ハーマン? どっかで聞いたことがあったような……まぁいい! ハーマン、お前書類仕事は得意か?」

「は、はぁ。まぁそれしかできないと言いますか」

「なら、俺の副官になれ! それで俺を助けてくれ!」

「はい?!」


 見上げるほどの巨体から力強くブラッドの両肩に手を置いて、なんと頭を下げてきた。 


「俺は体を動かすことなら何でもできるが、文字の読み書きはさっぱりなんだ。いつも上官に絞められるんだが、ペンを握ったら気付いた時には朝日が昇ってる! もちろん報告書は一枚も仕上がっとらん」

「ま、まぁそれでもカーズ大尉の功績は多大なので、それでも許されるのでは?」


 深刻な顔でガリオンが続ける。それはまるで、これから死地に赴く軍人のような悲壮な顔だった。


「それがそうもいかなくなった。皇太子殿下に『いい加減に一枚ぐらいまともな報告書を仕上げられなければ、ソニアとの結婚を白紙にする』と脅されてな……。俺は何としてでもソニアと結婚したい! 一目惚れだったんだ、あんなに美しい令嬢は他に知らん」

「は、はぁ……」


 そんなに結婚したいなら、頑張って報告書ぐらい書けばいいのに。そう口から出そうになったのを我慢した。


「俺が文字の読み書きができるようになるのと、お前が副官として代わりに報告書を仕上げるの、どっちが早いかわかるだろう? 俺は一秒でも早く、ソニアと結婚したいんだ!」


 時間を天秤にかけたらしい。


「……いいのですか。私のような無能な落ちこぼれを副官にして」

「違うな、お前は無能なんじゃない。力の出しどころを間違えているだけだ」

「何でそんなことが言えるのですか。私たち初対面ですよ。根拠はあるのですか」

「ない! ただ俺がそう思っただけだ、ハハハッ」


 とんでもない男だと思った。会って数分の自分を、全て見抜いたかのように信用するなんて。だが、今まで家族にすら侮蔑の目で見放されたブラッドにそんなことを言ってくれる人は一人もいなかった。

 根拠のない自信たっぷりにニカッと笑うその顔を見ていると、死にたくなっていた心がどん底から浮上していくのを感じた。


 ブラッドはその後すぐにガリオンの副官として配置換えされ、彼の幕舎に引っ越した。軍人なら誰もが望む有名人の副官の座に、家柄だけの無能な落ちこぼれがあてがわれたことは相当な僻みを招いた。

 しかし、ブラッドはガリオンが溜めに溜め込んだ白紙の報告書の山をひたすら片付けるために人前に出られなかったので、全く気にならなかった。


 戦地の状況が落ち着いた後、ガリオンは何とかソニアとの結婚を認められた。

 皇太子救出の褒賞に下賜されたディオス領には、愛する妻と、かつての落ちこぼれの副官を伴った。その際、ブラッドは退役し、実家のハーマン家から完全に勘当されたが、ガリオンのそばにいると不思議と恐怖は全く感じなかった。



 その後は予想どおりガリオンに振り回される胃の痛い日々が続いた。

 

 東部の辺境だったディオスは、赴任当初は何もかも不足していた。「高位貴族出身のソニアが少しでも気に入るように」とガリオンは突然屋敷に白薔薇を移植し始めた。しかし、その後彼に出征命令が下り、白薔薇の繁殖と品種改良、そして日々の世話はあっさりとブラッドに丸投げされた。


 道が舗装されておらず、「馬車の中でソニアが辛そうだから」と、領民たちと無計画に街道を修繕し始めたかと思えば、またもやガリオンは戦場へ向かい、残された現場の指揮はブラッドが引き継ぐ羽目になった。


 さらに、「ソニアと街を散策しても店が少なくて楽しめないから」と、領民たちに手当たり次第に声をかけ、勝手に出店を準備させたのはいいが、元々商売していた領民が「縄張りを荒らされた」と激怒して伯爵邸に押しかけてきたこともあった。

 怒り狂う領民のケンカの仲裁はガリオンに任せ、ブラッドは商売のルールを急いで整備し、売上の数%を徴収する代わりに賃料を免除する仕組みを作り上げた。


 極め付けはソニアとの結婚記念日だった。

「街をバラでいっぱいに飾りたい」と言い出したかと思えば、勝手に日程を決めて領民に嬉しそうに周知し、大量のバラを仕入れてから、またもやブラッドに丸投げしてきたのである。



 エリシアナが領主として立派に成長し、本来の執事業に専念できるようになった今。

 目の回るような数十年だったと、ブラッドはしみじみと思い返す。


 ガリオン・カーズは破天荒な男だった。でも、一見計画性のない言動が結果的にはなぜか全て未来への布石になっていた。確たる根拠などないはずなのに、人を見る目は確かだった。


 だからこそ、エリシアナを後妻として迎えると聞かされた時は驚いたなんてものではなかった。

 あんなにソニアを愛し一途に思い続けたのにどうして、と使用人誰もが思ったが、あのガリオンが深刻な顔をして「頼む」と頭を下げた姿を見て、皆素直に従った。あのガリオン・カーズがそこまで言うなら、と。


 生前、ガリオンがエリシアナについてよく語っていたことを思い出す。

 ――この子は賢い、俺なんかよりも立派な領主になる。でも、この子の夫になる男は厳しく見極めなきゃならん。俺のようなでっかい男じゃないとダメだ!


 それはまるで、孫娘を溺愛する口うるさい祖父のようだった。



 ――旦那様。全て、あなたの言うとおりになりましたね。


 エリシアナは領主として立派にディオスの街を守り、今やディオスは帝国内でも有数の豊かな観光地になっている。そして、隣に立つ夫はなかなか素直になれない妻を揶揄いながら、心から愛おしそうに愛でている。


 ブラッドは時折、砦の主の夫になったカイザーにガリオンの姿を重ねてしまう。

 外見は似ても似つかないが、己の実力に揺るぎない自信を持つ堂々とした佇まいや、強情で根を詰めすぎるエリシアナの扱い方が上手いところは実によく似ている。そして何より、たった一人の女性を一途に愛し続けるところも。

 ただ、彼はガリオンと違って座学の方も大変優秀だったらしいが。


 ――旦那様の見る目は、最後まで確かだったということか。


 若い頃に比べれば体の節々に老化を感じ、頭にはすっかり白髪が混じるようになった。

 それでも、あの過酷な夜の幕舎で引き上げてもらったブラッドの心は、今、これまでで一番穏やかに、そして軽く晴れ渡っていた。



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