26.エピローグ
念のためR15回です。ご注意ください。
カーテンの隙間から差し込む夏の早朝の日差しに、エリシアナは目が覚めた。
部屋全体はまだ薄暗く、背中に男の規則的な胸の上下を感じ、目が覚めたのは自分だけのようだ。
――あれが“しょや“というものなのね。
寝起きと昨晩の甘い疲労でぼんやりする頭で、昨夜の初めての営みを思い出す。
恥ずかしかった。あんなにも情熱的に求められ、甘い言葉と共に全身の熱を奪われるように抱きしめられた。全てが訳がわからなくなって、まるで自分ではないようで、今思い返しても顔が熱くなる。
それでも、彼から向けられる大きすぎるほどの愛情と、一つになれたという確かな事実に、とても幸せだった。それが心から愛する人から与えられたものだったから、なおさら。
そっと寝返りを打ち、まだ眠り続ける男の顔をまじまじと観察する。
いつもは上げられている前髪が目にかかり、切れ長の紫紺の瞳が閉じられ、いつもキリッとした眉も今は弛緩して、全体的にどこかあどけない。
人の顔貌の美醜なんて気にしたことはなかったが、初めて見た時から強烈な印象で、「美丈夫な軍人風情――」なんて言葉が自然と口から出てしまったほどだった。
男らしい喉仏を辿って剥き出しになった分厚い胸に手を這わせる。
昨夜はこの胸に強く抱きしめられ、彼も自分と同じように鼓動が速めていたことが嬉しかった。掌全体でなぞるように逞しい胸筋の隆起を楽しみながら、エリシアナはその胸に顔を埋めて彼の匂いを吸い込んだ。
「っ!」
それまで緩く絡みついていたカイザーの腕が不意に強い力でエリシアナを抱きしめた。そのまま彼がくるりと仰向けになり、エリシアナはその上に乗り上げる形になった。
「うちの奥さんは意外とやらしいことが好きなんだな」
「お、起きてたの」
眠っている隙に下心でお触りしていたのは事実だった。言い訳の余地がない。
「……身体は?」
「……少し、重い気がする」
喉の奥で笑う彼の振動が伝わり、エリシアナの身体も一緒に上下する。
「今日はゆっくり休め」
そう言いながらエリシアナの背中をガウン越しに優しく撫でた。その手がとても温かく、まるで幼い頃に母に抱っこされながら寝かしつけられた記憶がふいに蘇る。
これまで過酷な日々に気を張って生きてきたエリシアナは、人生でほとんど経験したことのない穏やかで満ち足りた二度寝の微睡へと落ちていった。
カイザーは、そんなエリシアナを自分の胸の上でずっと愛おしそうに抱きしめ続けていた。
*
――十年後。
「お父様! お母様! いってらっしゃい!」
「はやくかえってきてねー!」
朝の澄んだ空気の中、前庭に二人の子どもたちの元気な声が響き渡る。
七歳になる長男は、カイザーに似た顔立ちに黒髪碧眼で、背も高く、いつも元気におもちゃの剣を持って走り回っている。
その後ろで手を振る五歳の長女は、エリシアナにそっくりの顔立ちに金髪と紫紺の瞳をもち、甘いものと読書が好きな甘えん坊の女の子だ。
見目麗しい領主夫妻から生まれた子どもたちは、まるで「白薔薇の妖精」のようだと、砦の使用人たちはもちろん、ディオスの領民からも大層愛されている。
「こら、前庭は危ないから走るな。メイド長にまた怒られるぞ」
注意しながら歩くカイザーの横で、エリシアナはくすくすと笑った。
結婚して十年が経っても、エリシアナとカイザーは、毎朝の日課の墓参りは必ず「二人きり」で向かうことに決めている。子どもたちは正門までのお見送りだ。
愛する子どもたちに手を振って別れを告げると、二人は待たせていた馬車へと乗り込んだ。
二人きりの車内で、カイザーはごく自然な動作でエリシアナの指先を絡め取る。ガタゴトと心地よい揺れに身を任せながら、二人は窓の外を流れる景色を穏やかに眺めていた。
母となったエリシアナは少しふっくらとし、あたたかな包容力をまとった姿は、十年前と変わらず「白薔薇の女神」のように美しい。
父となったカイザーも、領主の夫としての更なる責任が風格となって表れ、街を歩けば誰もが羨望の眼差しで見上げた。そして相変わらず、愛する妻の最強の盾であり続けている。
馬車がリューゲンの丘へ到着すると、朝日に照らされたディオスの街並みが一望できた。
十年前に比べて、街は驚くほど発展していた。周辺領地よりも安定した治安と豊かな経済状況が評判を呼び、他領からの移住者は後を絶たない。
新領主であるエリシアナの政策で平民向けの学校が新たに三つ新設されたことで、若年層を中心に識字率が飛躍的に向上した。生活にゆとりが生まれた街には子どもたちの笑い声が溢れるようになっている。
かつて白薔薇砦を舞台にした「白薔薇の女神と騎士」の演劇が帝都で大ヒットを記録して以降、今では細かいアレンジを加えられながら帝国中の劇場で愛される演目となっている。
その影響で、道楽好きの貴族や裕福な商人たちを中心に「聖地巡礼」と称して白薔薇砦を一目見ようと、こぞって足を運ぶようになった。
十年前の領主夫妻の結婚式が帝国中で話題をさらったこともあり、砦の一般公開を望む声は凄まじかった。今では月に一度だけ前庭のみが開放され、観光客から入場料を徴収する仕組みは、ディオスの更なる潤沢な財源となっている。
人口増加と観光ブームに乗じて、金の匂いに敏感な商人たちも集まり始めた。ディオスを拠点とする新興商会や、帝都の大商会の支部が次々と発足し、彼らが行き来する街道も整備されて街は更なる活気に満ちている。
もう、ディオスを「東部の辺境」や「田舎」と揶揄する声はどこにもない。
「それにしても、あの家庭教師の先生には本当に感謝しないとな。やんちゃなアイツらが、机に向かうようになったんだから」
カイザーが街並みを見下ろしながら呟いた。
数年前に白薔薇砦が雇い入れた、帝都で確かな実績を持つ中年の家庭教師――彼女は、とある「匿名の支援者」からの強い口利きでやって来たのだ。その支援者が誰なのか、二人はもちろん知っている。
「えぇ。それにブラッドさんも、メアリーさんも。相変わらず元気で支えてくれていて、本当にありがたいわ」
ブラッドは生涯現役を貫くらしく、外の業務はカイザーに任せ、自身は砦内の執事業に専念している。
メアリーもメイド長として後身を育てながら、「黒薔薇」の長としてディオス中の情報収集に余念がない。
「本当に、夢みたい。こんなに穏やかな日々が来るなんて」
英雄夫妻の墓前に辿り着き、白薔薇を手向けながらエリシアナが静かに微笑んだ。カイザーは彼女の肩を優しく抱き寄せ、その髪にそっと口付けを落とす。
「久しぶりに、どこか旅行に行きたいな」
「そういえば、四人では行ったことないわね」
「また、帝都にでも行くか」
「確か、もうすぐ皇太孫殿下の誕生日パーティーがあるわね」
「なら、俺たちも“あの方“に、孫の顔を見せに行こう」
「うん」
朝の光に包まれたリューゲンの丘。
かつて孤独だった二人は、今は強く手を繋ぎ合い、愛する子どもたちと温かな家族の待つ我が家へ向かって、ゆっくりと丘を下っていった。
〈了〉
本編完結です。この後番外編が9話続きます。




