24.白薔薇砦の新領主の昼と夜
R15回です。ご注意ください。
麗らかな春の日差しに祝福された新領主就任パレードの朝。
エリシアナを会場へエスコートするため、彼女の私室の扉を開けたカイザーは、その瞬間、文字通り息を呑んで言葉を失った。
彼女はこれまでで最も華やかなドレスを身に纏っていた。
アイボリーを基調としたオフショルダードレスには、金糸で上品な白薔薇の刺繍がふんだんに施され、豪華でありながらも彼女らしい清楚な印象を与えている。腰からふわりと広がるスカート部分は淡いグリーンの生地が幾重にも重なり合い、歩みを進めるたびに裾の金糸が優雅に煌めく。
いつもは漆黒の喪服に覆い隠されていたデコルテには、同モチーフのネックレスが飾られ、中央で輝く大粒のエメラルドが透き通るような白い肌を一層引き立てている。
ハーフアップに編み込まれた艶やかな金髪には白薔薇の花とパール、エメラルドをあしらった上品な飾りが添えられた。そして左こめかみにはいつもの白薔薇のヘアピンが誇らしげに光っていた。
背後で彼女を磨き上げたメイド達が、「最高傑作を生み出せた」と鼻高々に胸を張るのも頷ける。
これまでも幾度となく目を奪われるぐらい美しいと思っていたが、愛おしさが増すにつれて「可愛い」と感じることの方が多くなっていた。だが、今の彼女は「美しい」以外の言葉が見つからない。
「……何て言っていいかわからない」
「何よそれ」
褒めてくれると思っていたのだろう。予想していた言葉をもらえずにエリシアナは少し不満げに唇を尖らせた。だが、カイザーがその美しさに圧倒されている心の内を正確に察したメイド達は後ろでくすくすと笑っている。
「そのイヤリング……」
少しむくれたエリシアナの耳には、かつてカイザーが誕生日に贈ったいつものシンプルなイヤリングが揺れていた。
華やかで豪華なドレスにはいささか地味で、首元で輝くエメラルドのネックレスと不釣り合いなそれは、今の装いの中で悪目立ちしていた。
「お嬢様が絶対外さないと仰るのです」
「ネックレスと対のイヤリングがきちんとあるのに」
「いいの。いつも付けてるからこれじゃないと落ち着かないし」
メイド達は完璧な最高傑作に残った唯一の妥協点に揃って溜息をついた。どうやら頑固な新領主の説得に失敗したらしい。
カイザーはメイドが手にしているエメラルドをあしらった華やかなイヤリングを手に取ると、何も言わずにエリシアナに歩み寄り、耳元を飾るシンプルなイヤリングに指を伸ばした。
首筋に触れる彼の指先の熱にエリシアナがわずかに肩を跳ねさせた隙に手際よく、ネックレスと対の華やかなイヤリングへと付け替えた。
「ん、もっと綺麗になった。……これは俺が預かっておく」
「……ぅ、うん」
耳元で囁くと、エリシアナは頬を赤らめながらも素直に頷いた。それを見たメイド達は顔を見合わせ、「これからはお嬢様の説得にはダルトン特尉に真っ先にお願いしよう」と笑い合っている。
*
新領主就任の挨拶の場には既に大勢の領民が押し寄せ、初めて目にするベールに包まれた噂の若き領主がどんな人物なのか、今か今かと待ちわびていた。
しかし用意されたステージのその裏では、エリシアナは緊張と恐怖に足をすくませていた。
これまで刺客から逃げ続け、白薔薇砦の奥で隠れるように生きて来た彼女の人生において、これほどの大勢の視線に晒されることは一度もなかった。もう命を狙われることはなくなったと頭では理解していても、期待に目を輝かせた無数の群衆の波が、今のエリシアナには自分を飲み込もうとする得体の知れない脅威に見えてしまう。
青い顔をして小さく震えるエリシアナの異変にすぐ様気づいたカイザーは、その逞しい腕で彼女を引き寄せ、分厚い胸の中へそっと抱きこんだ。
「大丈夫だ。何があってもずっとそばにいる。絶対に守ってやるから」
領民達のざわめきを遮るように、カイザーの低く落ち着いた声がエリシアナの耳の奥へスッと染み込んでいく。彼の大きな背中に手を回し、安心するその香りを胸いっぱいに吸い込むと、緊張と恐怖で氷のように凝り固まった体が嘘のようにじんわりと弛緩していった。
愛する人の温もりに勇気づけられ、エリシアナはディオスの領主として新たな一歩を踏み出した。
まだ少し不安だけれど、もう大丈夫だ。彼女のそばにはいつだって彼がいてくれるのだから。
*
新領主誕生の熱狂に包まれたまま、ディオスのメイン街道からリューゲンの丘までのパレードが始まった。
この日のために用意された白薔薇を模した豪勢なオープン馬車に乗って、色とりどりの花吹雪が舞う中、エリシアナは街道の両側に詰めかけた領民達に微笑みながら手を振った。
その姿はまさに「白薔薇の女神」そのものであり、ディオスの領民達は感嘆の溜息を漏らし、すっかり虜になった。
新領主に寄り添いエスコートするカイザーにも熱い注目が集まった。白馬に跨り馬車を先導するカイザーはいつもの軍服姿ではあったが、鍛え抜かれた体格に目を惹く美貌はエリシアナの美しさと相まって、まるで白薔薇の女神を守る騎士のようだった。
完璧な美男美女の組み合わせにディオスの女性達は歓声を上げ、旅の絵師はこの奇跡のような美しい光景に一心不乱に筆を取り、偶然居合わせた劇作家は次の新作を東方の白薔薇砦を舞台にしようと鼻息荒く心に決めた。
メイン街道からゆっくりと時間をかけてリューゲンの丘へやってくると、そこはパレードの喧騒から切り離されたいつもの静けさの中に、カーズ夫妻の墓が変わらず佇んでいた。
パレードの終着点はここにしようと決めたのはカイザーだった。
「ガリオンにも晴れ姿を見てもらわないとな」と優しく笑う彼を見て、(あぁ、私はこの人のこういうところが本当に好きなんだ)と温かな愛おしさに胸を満たした。
春風が吹き抜けるリューゲンの丘からは、白薔薇砦と美しい若き新領主の誕生に沸き立つディオスの街が一望できた。ソニアが愛し、そして愛するソニアの遺したこの街を守り抜いたガリオンの意志を、これからは自分がしっかり引き継いでいくのだと、エリシアナは墓前で静かに誓った。
「そういえば、陛下からも領主就任祝いが届いてたな」
「うん」
二人きりになったことで、お互い少し気を抜き、いつもの飾らない言葉遣いに戻った。
「何が贈られたんだ?」
「帝室御用達のワインよ。帝室以外ではこういう祝い事でしか手に入らないものらしいわ」
帝国内で領主が代替わりした際に形式的に贈られる品だった。そこには表向きには何の感情も込められていないように見えたが、ワインと共に添えられたメッセージカードの端に「体に気をつけて幸せに」と小さく書かれた文字を見つけた時、エリシアナは胸が締め付けられた。
そこには直接会うことのできない娘を案じながらも、ディオス領主だけを特別扱いするわけにはいかない"皇帝"としての深い葛藤と愛情が滲んでいた。
カイザーが帝都から持ち帰ってきた宛名も差出人も書かれていないあの手紙は、今でも一人で読み返している。
実の父として何もしてやれないどころか危険に晒してしまったことへの痛切な謝罪と後悔、これからの安全は絶対に保証することへの決意表明、そしてカイザーと共に歩む幸せな未来への切なる願いが綴られていた。
誰にも見せられず、返事を書くことも許されないその手紙は、エリシアナの大切な宝物として寝室の鍵付きの金庫にしまってある。今回のメッセージカードも一緒に保管することになるだろう。
英雄たちの眠る墓を背に、エリシアナとカイザーは自分たちの温かい我が家へと帰るため、共に足を踏み出した。
*
白薔薇砦へ戻り、エリシアナが簡素なパーティードレスに着替えると、今度は砦の関係者のみで就任祝いパーティーという名の宴会が始まった。
貴族特有の見栄や意地を張り合う豪勢な夜会よりも、気を許した身内の使用人たちと騒ぐアットホームな宴会の方がカイザーは性に合っているようで、とても居心地が良かった。
エリシアナもメイド達と笑い合い、大舞台の緊張から解放されたからか、いつも以上にカクテルの進みが早いことがカイザーの視界の端に映っていた。
宴会が佳境を過ぎ、酒好きな男達が何人か酔い潰れ出した頃、メイドの一人がカイザーのもとへやってきて「お嬢様の部屋へ行ってほしい」と頼み込んできた。
どうやら酔ったエリシアナをメアリーが休ませようと部屋に連れ帰ったものの、「カイザーに会いたい」と駄々を捏ねて困らせているらしい。
夜遅くに酔ったエリシアナの寝室に行く――。
理性の危機を感じて躊躇したが、自分に会いたいとごねる彼女を想像すると胸が締め付けられ、抗うこともできずに彼女に会いに向かった。
――やっぱり来るんじゃなかった。
湯浴みを終え、薄手のネグリジェへ着替えたエリシアナはカイザーが部屋へ入った途端、待ってましたとばかりに嬉しそうに抱きついて離れなくなってしまった。
寝るために適した柔らかな素材の服はデコルテを惜しげもなく露出しており、膝下から素足も晒している。ギュッとしがみつく彼女の柔らかな体温と湯浴み後の石鹸の甘い香りが、カイザーの嗅覚と理性を容赦なく削りにきた。
メアリーは「宴会の後片付けがありますので」と呆気なく出て行ってしまった。カイザーの理性を過信しているのか、「皇帝陛下公認の仲なのだからお好きにどうぞ」というメイド長なりの気遣いなのか、主人の貞操の危機にあまりにも無頓着な態度だった。
とにかくエリシアナを寝かしつけようと抱き上げベッドに下ろそうとするが、首に回された腕で絞め殺されるのではというほど強くしがみついて離れない。
「やだ、離れないで」
「もう寝る時間だぞ」
「やだ」
まるでまだ寝たくないと駄々をこねる子どもだ。以前もそうだったが、エリシアナは酔うと幼児化して甘えたがりになるらしい。
「エル、そろそろ離してくれ、苦しい」
「やだ、一緒にいて」
カイザーは己の理性がゴリゴリと音を立てて削られていくのを感じていた。
こんなに可愛い我が儘をねだられて、手を出さずに我慢できる男がいるだろうか。しがみついてくるエリシアナの柔らかな感触と無防備な姿から必死で目を逸らす。
抵抗を諦めたカイザーは、首にしがみ付くエリシアナを抱きあげたままベッドの縁へ腰掛けた。
「エリシアナ、そろそろ限界だから少し離れてくれ」
「いや」
「頼むから」
「いや……エルって呼んで」
「え?」
想定外のおねだりにカイザーは思わず首を傾げた。
「あなたにエルって呼ばれるの、好き。お母様も呼んでくれてたから。でも、今はあなただけなの」
ディオスの酒場で初めて「エル」と呼んだ時、彼女が泣きそうな顔をした理由が今ようやくわかった。母親にしか許していなかった特別な愛称を、あの時偶然にも呼び当ててしまっていたのだ。
「……わかったよ、エル」
「あなたは?」
「ん? 何が?」
「子どもの頃、なんて呼ばれてたの?」
「……俺に愛称なんてなかった。名前も、あまり呼ばれたことがない」
大人になった今はもう何も感じないが、子どもの頃は両親にあまり名前を呼んでもらえないことがひどく寂しかった。兄のアダムの名前は何度も愛情を込めて口にするのに、どうして自分のことは呼んでもらえないのかと。
声のトーンが少し落ちたのがわかったのか、エリシアナがカイザーの顔を下から覗き込んだ。その瞳はまだ酔っているのか潤んでおり、色っぽくとろんとしていた。
「じゃあ、私がつけてあげる。カイザーだから『カイ』ね」
無邪気に笑いながら安直で、けれど世界で一番愛おしい愛称をつけてくれた。
「呼んでくれるのか?」
「うん。カイ、大好き」
惚れた女が危うい格好で自ら抱きつきながら、その女がつけてくれた愛称と共に囁く「大好き」――その破壊力は凄まじかった。
普段は「好き」の一言すら口にすることを恥ずかしがって、なかなか言ってくれないくせに。
カイザーの体が一気に熱を帯びた。
この状態で密着し続けるのはマズイ。
無邪気で無垢な可愛さが今ほど憎らしいと思ったことはない。本番まではキスまで、と自分の中での線引きが急速に困難になっていくのがわかった。
「ほんと、お願いだから、もう寝てくれ」
「やだ! ずっとそばにいるって言った!」
「言ったけど!」
それは大舞台を前に怯えていたエリシアナを安心させるために言った言葉で、今この状況で物理的に密着したままそばにいるという意味ではない。
「カイ、キスして」
「や、あの、ほんと勘弁してくれ」
「なんで?……今日、キスしてない」
早朝から準備を始め、日中は常に人に囲まれていた。リューゲンの丘への行き帰りはオープン馬車だったこともあり、確かに今日はそういう触れ合いはできなかった。できなかった、けれどーー。
ぐずるエリシアナへの唯一の対抗策をついに実行することにした。
「あんた、明日覚えてろよ」
唸るように腹の底から低い声で恨み節を吐き出すと、カイザーはエリシアナの唇を勢いよく塞いだ。
理性を削られまくった腹立たしさと、あまりの可愛らしさに丸ごと食い尽くしたくなるような破壊衝動を、全てそのまま熱いキスにしてぶつけた。カイザーの容赦のない本気の攻めに、エリシアナは争うこともできずシーツの上に崩れ落ちた。
これまで経験したことのない激しいキスにあっという間に体力を奪われたエリシアナは、数分後、ようやく気を失うように眠りに落ちた。
しかし、眠りの淵に沈んでもなお、カイザーのシャツを強く掴んで離さない彼女の手にカイザーは本気で泣きたくなった。
翌朝。
普段よりも陽が高く昇った時間に目覚めたエリシアナは、疲労と不機嫌を露わにしたカイザーがすぐ隣で頬杖をついて自分を見下ろしていることに悲鳴を上げかけた。
だが、昨夜の自分の破廉恥な言動をすぐさま思い出し、あまりの羞恥に一転して泣きそうになった。
カイザーは「……しばらくキスしない」と恨めしげに言い残し部屋から出ていくと、その後自室に籠り、一晩の間行き場のなかった熱と苛立ちに悶える羽目になった。
新領主誕生に白薔薇砦も浮つく中、当の新領主とその婚約者はまたもやぎこちない空気を醸し出していた。
今回は珍しくカイザーが怒り、エリシアナがひどく落ち込んでいたが、そんな二人を見て使用人達は例外なく皆カイザーに向かって「お嬢様を悲しませるな」と怒り出した。
理不尽極まりない八つ当たりを受けたカイザーだったが、彼を怒らせたことに本気で落ち込み、触れ合えなくなったことに悲しみに暮れるエリシアナをこれ以上見ていられなくなった。
最終的に「結婚するまで絶対に酒を飲まないこと」「結婚後もカイザーがいない時は飲まないこと」と、「普段からカイと呼ぶこと」を顔を真っ赤にする彼女に約束させることでようやく仲直りしたのだった。




