22.特別任務という名の再左遷
カイザーはおよそ半年ぶりに帝都に降り立つや否や、懐かしむ間も惜しむように中央本部へ急いだ。
ディオスから帝都までは列車で二日、往復四日に帝都での滞在時間を考慮すると五日はエリシアナと離れなければならない。
別れ際の寂しさを隠そうとして口元を固く引き結び、ムッとした表情を浮かべるエリシアナは最高に可愛かったが、カイザーは少しでも早く彼女の待つ白薔薇砦へ帰りたかった。
中央本部に辿り着き、カイザーはとりあえず総司令部人事局を訪ねた。
かつて理不尽な左遷人事に憤り、憎しみすら湧いた場所だが、今となってはなんであんなにここに拘っていたのかわからない。それよりもさっさと退役手続きなどの用件を済ませてエリシアナに会いたい。
そう焦っていると、総司令部の更に奥まった部屋――限られた上層部のみ立入が許された場所に案内された。
カイザーは訝しみながら一人で部屋に入ると、そこには透き通った金髪の五十代頃の男が背を向けて窓辺に立っていた。
入室の音にゆっくりと振り返った男は一目でわかる上質な衣装に、有無を言わせぬ威厳を放っていた。そして、カイザーを視界に捉えたその瞳は綺麗な碧だった。
「帝国の偉大なる太陽、ディミトリオ陛下にご挨拶申し上げます」
カイザーはすぐさま跪き、深く首を垂れた。
今まで直接の面識は当然あるはずもなかったが、帝国民なら誰もが知る最も高貴な人物だとすぐ気がついた。
「顔をあげなさい、今は非公式の場だ」
威厳は感じられるが、威圧感はない声に少し安堵し、カイザーはゆっくりと立ち上がり、軍人らしく直立不動の姿勢を取った。
「今日は君に話したいことと、渡したいものがあってここに呼んでもらった」
まさか、この国で一番偉い人に呼ばれているとは思わなかった。せいぜい人事局長に怒鳴られるぐらいかと思って軽い気持ちで訪れており、心は既に東部にあったカイザーは、珍しく内心動揺していた。
目の前のお方は皇帝陛下でもあるが、同時にエリシアナの……。
「まずは礼を言う。ディオス領主代理を助けてくれたこと、誠に感謝する。それから君を利用するような真似をして、すまなかった」
カイザーは面食らった。
この国で最も偉い人が、まだ若造のいち臣下に正直に礼を言うばかりか謝罪までしたのだ。一国の主は例えどれだけ愚かな選択をしようと軽々しく謝罪の言葉は口にしない。それが新たな火種となり、付け入る隙を生んでしまうからだ。
なのに、目の前のお方はあっさりと口にした。
「……いえ、滅相もございません」
「案外堅苦しい男だな。言っただろう、これは非公式の場だ。ここでの事は誰も知らんし私も咎めるような事はしない。……ただ、君と男同士の話がしたかったのだ」
どうやら言葉どおりの意味で、建前ではなかったらしい。とはいえ、目の前にいるのはこの国で最も尊い人物だ。カイザーは礼節を欠かぬよう、上官に接する際の厳格な態度を保つ程度にはとどめた。
ディミトリオは静かにその碧い瞳を伏せた。胸の奥に秘めた問いを口にするのを躊躇うかのように、息を静かに吐き出した。
「領主代理……あの子は元気そうか」
「はい、政務で忙しくなさっていますがお元気です。砦の使用人皆に慕われております」
「そうか。……私が最初で最後に会ったのはあの子が孤児院を転々としていた十三歳の時だった。今はもう二十四歳か。あの子は母親そっくりだったから、さぞ美しい女性になっただろう」
「……初めて会った時、まるで白薔薇の女神かと思いました」
ポロリと、カイザーの口から無意識の惚気が溢れた。
それまで落ち込むような影のある表情だったディミトリオが目を見開き、カイザーを呆然と見上げた。そのポカンとした表情は、エリシアナにそっくりだった。
数秒後、ディミトリオは思わずといったように腹を抱えて笑い出した。
「いや、すまない。君のことは調べさせてあったから大体の人物像は把握していたが、まさかそんな台詞が出てくるとは……。あの子のことを大切に思ってくれているようで安心した」
自分はそんなにおかしなことを言ったのだろうか。素直に思ったことを伝えただけなのだが。
だが、笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭う姿は、案外親しみやすいお人なのかもしれない。
「あの子には何もしてやれなかったばかりか、辛い思いばかりさせてしまった。私が愚かだったばかりに、人生で唯一愛した人も守れず、残されたあの子を見つけるまでにも相当な時間がかかってしまった」
先ほどまでの笑みを消し、哀傷に満ちた眼差しで遠くを見つめるディミトリオの姿に、カイザーは息を飲んだ。
一国の頂点に君臨する男の背中に重々しい後悔の影が落ちている。
「皇后は昔から私への執着が異常なまでに強かった。政略上、どうしても皇后と結婚しなければならなくなった時、あの子の母親ーーセレーナと泣く泣く別れを選んだ。そうしなければ、嫉妬に狂った皇后がセレーナに何をするかわからなかった。離れれば、彼女を守れると思っていた。……だが守られていたのは私の方だった」
ディミトリオの口から漏れたのは、自嘲の混じった深い溜息だった。
「セレーナが未婚のまま一人で娘を育てていると知ったのは、彼女の家門がフィデリア家に潰された後だった。大事になった時にはもう手遅れで、当時の私の力では彼女たちをどうすることもできず、ただ見ていることしかできなかった。彼女は私に迷惑をかけまいと、決して助けを求めなかった。そして、皇后がどれほど執念深くセレーナの存在を憎んでいるかもその時にようやく思い知らされた」
皇后とフィデリア侯爵家、これまでの不可解な動き、そしてカイザーを襲ったあの毒ナイフの刺客や、エリシアナを狙った数々の陰謀の元凶の始まりが、皇帝の口から語られていく。
「秘密裏に捜索を続け、ようやく見つけたあの子を個人的な伝手で遠い島国へ亡命させた。だが、国を出れば安全だと思った私の目論見はあまりに甘かった。数年後には、またしてもフィデリア家の魔の手が迫っていたのだからな」
「……陛下」
カイザーは思わず声を絞り出した。ならばなぜ、皇帝の権力をもってしてその奸臣どもを叩き潰さなかったのか。その喉まで出かかった疑問を察したように、ディミトリオは静かに首を振った。
「なぜ皇后やフィデリア家を即座に処罰しなかったのか、と思うだろう? 奴らは政財界のみならず、軍内部にも深く根を張っていた。証拠を残さぬほど狡猾な奴らを下手に裁こうとすれば、国を二分する内乱を引き起こしかねなかった。……それに、あの子の存在が公になることも恐れた」
ディミトリオの碧い瞳に強い苦悶の色が滲む。
「帝室の血を引く娘が国家反逆罪で処刑された家門の出であると知られれば、世間の風当たりは計り知れない。さらに、既に生を受けている第一皇子との継承権争いに巻き込まれれば、あの子の命は幾らあっても足りん。私は己の無力さに悲嘆に暮れるしかなかった」
権力ゆえの縛りと娘を守れぬ苛立ち。そんな絶望の淵にいた皇帝に差し伸べられたのが、あの白薔薇砦の主であり帝国の英雄の手だった。
「私だけでは守れないと嘆いていたところに力になってくれたのが、父の右腕であり、かつての私の武術の師でもあった帝国の英雄ガリオン・カーズだった。彼は“親友の孫娘なら俺の孫娘も同然だ“と、笑いながら二つ返事で引き受けてくれた。白薔薇砦という絶対の盾で彼女を保護し、密偵網を張り巡らせて守り抜くと言って……。その後の経緯は、君も知るとおりだ」
そのあたりの話は、以前エリシアナから聞いたとおりだった。
「父親らしいことは何一つしてやれなかった。今更父親面してあの子の前に現れるつもりはない。……だが、一人の人間として、一国の君主として、せめてこれからはあの子が望む平穏な生活ぐらいは保証してやりたい」
ディミトリオはそう力強く言い切ると、机の上に置かれた書類へと視線を落とした。
「皇后やフィデリア家のことはもう心配いらない。皇后は『療養』という名目で別宮への無期限謹慎が決まった。ここ数年、精神を病んでいたのは事実だ。せっかく出来の良い息子がいるというのに、いつまでも過ぎ去ったセレーナへの嫉妬に囚われ続け、軍をも私欲のために利用した。裏で動いていたフィデリア家の者も私財を全て没収の上、国外追放とした。……そして、サイス領マーカス子爵は死罪とし、サイス領は帝国直轄領とすることが決まった」
ガリオンに保護され手が出せなくなった皇后は、隣の領地であるサイス領に目をつけた。フィデリア家を通じて強欲なマーカス子爵を取り込み、褒美を与えながらディオス領を虎視眈々と狙っていた。そのサイス領も帝国直轄領になれば、次第に正常な領地運営に戻っていくだろう。
長年エリシアナの命を脅かし続けてきた影が、完全に払われた瞬間だった。ディミトリオは三つの書状を取り出し、カイザーの前に静かに差し出した。
「あの子にこれらを渡してもらえるか」
受け取った書状を目にしたカイザーは、思わず息を呑んだ。
一つ目は「ディオス領領主任職状」。
エリシアナはこれまで「領主代理」という不安定な立場だったが、これで正式にディオス領の主として認められ、街と領民を守る正当な権限を得ることになる。彼女がこれまで見せてきた努力と能力を、皇帝自身が認めた証だった。
二つ目は「婚姻承認証書」。
この文字を見た瞬間、カイザーは驚きに目を丸くした。
貴族の婚姻には双方の親の承認と帝室への届け出が不可欠だ。未亡人であり親のいないエリシアナと、実家と絶縁状態の身であるカイザー。どうやってエリシアナとの婚姻を正当なものにするべきか頭を悩ませていた課題が、皇帝直々の承認という最高峰のカードによって一瞬で解決してしまったのだ。
そして三つ目は、宛名も差出人名も記されていない、一通のシンプルな手紙だった。封をされたその紙は開かずともわかる。実の父親から決して名乗ることを許されない娘へ宛てた、万感の思いが込められたたった一通の便り。たった一通の手紙ではあるが、カイザーにはずっしりとした重みが伝わってきた。
「最後に、君にはこれを渡そう」
ディミトリオから最後に手渡されたのは、一枚の辞令書だった。
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カイザー・ダルトン陸軍中尉
一、軍令不服従の罪につき、軍法に基づく処分を下す。
一、陸軍中央本部附を免じ、陸軍東部支部附を命ずる。
一、特別任務「ディオス領主護衛官」を命ずる。
一、本任務の任期は無期限とする。
一、階級を陸軍特尉とする。
帝国陸軍総司令部人事局
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文面だけを見れば「特別任務という名の不名誉な左遷人事」だった。が、これこそが軍を動かし、貴族たちの目を欺きながら、二度と二人を切り離さないために皇帝が下した最大の『正当な名目』だった。
特尉は表向きは特別な任務に就く軍人に与えられる階級ではあるが、実際には不祥事を起こした高位軍人を追いやるための窓際ポストだった。
しかし、カイザーの口元には自然と笑みがこぼれた。
軍令無視の罪を実質不問にし、二度と中央へ連れ戻されることもなく、堂々と胸を張ってエリシアナの傍らに永久に寄り添うことができる。
生涯、中央に戻ることのない左遷人事。
かつてなら屈辱だったはずの辞令は、今のカイザーにとってこれ以上ない最上級の下賜品だった。
「あの子を……娘を、頼んだ」
そう掠れた声で呟く男の顔には、皇帝としての威厳ではなく、ただ愛しい娘の幸せを切に願う、一人の父親の顔があった。
*
カイザーへの辞令が公示されると、中央本部だけでなく帝都の社交界でも大きな騒ぎとなった。
田舎東部から中央へ約半年でスピード復帰できたことにも驚きだったが、軍令無視により僅か一ヶ月足らずで再左遷となったことは衝撃的だった。
しかも今回は無期限の上、事実上の窓際ポストに追いやられた。将来を期待されたエリート軍人の華麗なる転落に、口さがない者や下世話な噂好きの貴族達はカイザーを嘲った。
当の本人はどこ吹く風だった。
周囲がどれほど自分を愚かだと笑おうと、どうでもよかった。勝ち取ったのは名声などよりも遥かに尊い、エリシアナの傍らに永久にいられる権利なのだから。
カイザーは愛しい女の待つ白薔薇砦へ向かう列車へと、喜びを隠し切れない足取りで駆け抜けた。




