21.愛の証明
カイザーとエリシアナは、東部支部の用意した馬車で白薔薇砦への帰路についた。ブラッドとメアリーは作戦の邪魔になるという理由で先に帰らされたらしい。
二人は小さめの馬車に隣り合って揺られていた。
「いくら人質を取られていたとはいえ、ろくな護衛も安全策も用意せずに敵地に乗り込むなんて、一体何考えてんだ」
「あなただって、たった一人でサイスに潜伏してたって言ってたじゃない。十分危険だわ」
「俺は実戦経験豊富な軍人、あんたは強がっててもか弱い女だろ」
地下室での甘い空気はどこにいったのやら、カイザーのお説教にエリシアナは苦し紛れに反発していた。だが、これまでの離れていた時間を取り戻すように互いの片手は握られたままだった。
「だって……これ」
エリシアナはカイザーに口では勝てない。今回も分が悪いと早々に諦め、上着ポケットに入れていたものを取り出した。
「何だこれ。……階級章?」
「マーカス子爵が砦に来た時に置いていったの。誰のものかわかるだろうって。……てっきりあなたが危ない目に遭ってるんじゃないかと思って……」
言葉の最後は、涙声だった。
「こんな汚ぇもん、今すぐ捨てろ!」
言うや否や、カイザーはエリシアナの手の中の血で汚れた階級章を奪い取り、窓の外へ雑に投げ捨てた。
「よく見てみろ、俺のはちゃんとあるだろ」
エリシアナの肩にかけられたカイザーの軍服の上着には、いつもの場所にいつもある階級章が揃っていた。もちろん、血で汚れてもいない。
「私、マーカス子爵にまんまと騙されたのね……」
自分の迂闊さに落ち込むエリシアナをカイザーは堪らず抱きしめた。
いつもの冷静なエリシアナなら、いくら人質を取られていても小銃一つで乗り込むような危険な真似はしない。カイザーを心無い言葉で砦から追い出し精神的に追い詰められていたところに、カイザーの身の危険を連想させられ、絶望の中で無謀な行動に出たのだと思うと――カイザーはこれ以上、彼女を責める気にはなれなかった。
「ほんとに、間に合ってよかった。……これからはずっと傍にいるから」
「……でも、……軍が」
エリシアナは手放しで喜べなかった。帝国軍人である以上、いつ異動辞令が出るかわからない上に出征だってある。「傍にいる」とカイザーがいくら言葉で言っても、そうはならないことは、ここ最近の出来事でもう痛いほど思い知っていた。
「そのことなんだが、退役を考えてる」
「えぇっ!?」
驚きのあまり、貴族女性としてはしたないほどの大きな声を出してしまった。カイザーに抱き締められた腕の中から体を離し、一体この男は何を考えているのかと、その顔をまじまじと見つめた。
「これまでの軍功でそれなりに蓄えはあるし、軍人を辞めて傭兵で食っていくことも考えたことあったし。……それに、また上層部の思惑に巻き込まれてエルと引き離されるのはもう嫌だ」
――嬉しい。心から嬉しいけれど。
「でも、これまで一生懸命努力して認められて、皆に期待されているのに。それにあなたも、出世を望んでいたでしょう」
今まで見てきたカイザーは自尊心が強く、それを裏付ける努力と実力を備え、上昇志向が強い男だった。そんな男がエリシアナ一人のためにこれまでの功績と、これから得るはずの輝かしい未来を捨てるというのか。
「……やっとわかったんだ」
カイザーは憑き物が落ちたような、ひどく穏やかですっきりとした笑みを浮かべていた。
「俺は出世したかったんじゃなくて、誰かに自分を見てもらいたくて必要としてもらいたかったんだ。……今はエルが俺を見てくれるし、誰よりも必要としてくれるから。もう、軍での地位なんていらない」
幼少期に家族から得られなかった愛情や、元婚約者に裏切られた傷がわかりやすい出世欲にすり替わっていただけで、それらが満たされた今は不思議と何も感じない。カイザーは自分でも気づかないほど過去の孤独を引きずっていたのだ。
「フィズも言っていたが、軍を辞めたら俺はほぼ平民に近い身分になってしまう。それでもエルを守るのは俺でありたいし、一番近くにいたい。……夫として」
カイザーはまっすぐエリシアナを捉えて離さなかった。
エリシアナはここ数日枯れ果てるぐらい涙を流したのに、どこから湧いてくるのかまた熱いものが込み上げてきた。
本当に、この人はいつも……。
「……私だって、ディオスに来る前までは平民として過ごしていたのよ。それに、人手不足だから……私が、うちで雇ってあげる。だから、ずっと傍にいて。……夫として」
カイザーも、エリシアナの涙ににつられて目元が熱くなった。
「ははっ、エルに養われるのか。男としては情けないけど、一緒にいられるならそれもいいな」
どちらからともなく距離を詰め、地下室で邪魔されてできなかった二回目のキスをした。
カイザーの大きな手がエリシアナの頬を優しく包み込み、こぼれ落ちる熱い吐息ごと彼女の唇を食む。ほんの少し前まで身の危険に晒された彼女をただ安心させるような、優しい触れ合いだった。
ただ唇をくっつけ合っているだけなのに、どうしてこんなに気持ちいいのだろう。ずっとくっつき合って触れ合っていたい。エリシアナは胸が温かく満たされ、頭がふわふわとしてきた。
優しく何度も角度を変えて唇を押し付けあっているうちに、体力・気力ともに限界を迎えたエリシアナは、カイザーに抱きつきながら安心しきって眠りに落ちた。
エリシアナが眠った後もカイザーは膝の上で深く抱き抱え、もしかしたら失っていたかもしれない華奢で柔らかな存在を愛おしむように確かめ続けた。
幼い子供のように無防備に眠る旋毛にそっと唇を寄せ、二度と手放さないと心の中で誓う。
馬車が白薔薇砦に到着し、カイザーが眠ったエリシアナを大切に抱きかかえて降り立つと、正門前で待機していたブラッドとメアリーを筆頭に、使用人たちが一斉に駆け寄ってきた。
無事な姿を目にしたメアリーは口元を覆って泣き崩れ、ブラッドもまた目元を拭いながら深々と頭を下げた。
静かに休ませるよう指を口元に当てて制しながら、カイザーは温かな安堵に包まれた久しぶりの我が家へと足をすすめた。
*
「……あの、俺のこと、まだ怒ってます、よね」
エリシアナがカイザーに連れられ白薔薇砦に戻って一週間後。
エリシアナは溜まった政務とサイス領の事後処理に追われていた。カイザーを追い出しもう二度と会えないと絶望していた期間に処理できなかった書類の山と、春に向けて各所から提出される予算案の精査、定例の事務処理に加え、サイス領からディオス領への補償問題が大きかった。ディオス領主代理に危害を加えただけでなくディオス領民の拉致監禁まで犯した罪は軽い刑罰で済まされることではなく、軍や帝室を交えての大問題となった。
だが、カイザーが戻ってきてからエリシアナの不眠は解消され、みるみる顔色が良くなった。政務に忙殺はされているものの、砦のどこかにカイザーがいると思うと、不思議と頭も手も良く動いた。
メアリーには「恋の力ってすごいですね」とにっこりと言われ、恥ずかしくはあったが自覚もしていたので、否定はできなかった。
だが、今日のエリシアナは機嫌が悪かった。
「……あの時のことは軍の作戦だったのだから仕方がないことでしょう、アルバ軍曹」
「仕方ないっていう顔ではないんですけど……」
もう会えないと思っていたカイザーと再会し、まだ皆には伝えていないものの、将来も誓い合ってこれからはずっと一緒にいられると思っていた。
なのに、そのカイザーは今、帝都の地に向かっている。そしてカイザーの代わりに再び寄越されたのがフィズィーロだった。
「美人が怒ると怖いってほんとだったんだな……」
「私はいつもこんな顔よ」
チョキン、と白薔薇を手入れする鋏の音が前庭に苛立たしく響き渡った。
カイザーが帝都に発つ前、仕事に根を詰めすぎるエリシアナは必ず日に一度は息抜きすることをカイザーと約束させられた。
約束だから、息抜きのために白薔薇の手入れをしているだけだ。カイザーがいないからっていじけているわけでは決して、ない。
昨日東部支部に呼び出されたカイザーは、中央本部に顔を出せと厳命を下された。
皇后側が仕組んだものではあるが、中央復帰辞令は人事部が正式に出したものであるため法的に有効らしく、このままだと軍令無視として厳罰に処されてしまうという。とにかく頭を下げてこい、悪いようにはならないだろうから、とヴァルツァーに押し切られたのだ。
皇后による直接的な脅威は去ったとはいえ、エリシアナの首に賭けられた賞金の取下げが裏社会に浸透するまでには時間がかかる。そこで、カイザー不在時の念のための代理として、フィズィーロが再びエリシアナの護衛についた。
「先輩なら大丈夫ですって。ちゃんと寄り道せず帰ってきますから」
「あなたに何がわかるのよ」
「えぇぇ、一応俺の方が付き合い長いんですけど」
鋏を片手にエリシアナはフィズィーロを睨みつけた。芝居とはいえ、彼に言われた残酷な言葉はまだ忘れていない。カイザーが傍にいないこともあって余計に胸がムカムカする。
「……夫人といる時の先輩は、俺が知らない先輩なんでしょうね」
フィズィーロが物思いに耽るような、少し寂しそうな顔で語り始めた。
「先輩のこと、尊敬してるのは本当です。俺は子どもの頃からC部隊に入れられることが決まってたから素性は偽ってましたけど、軍事学校で先輩と過ごした地獄の訓練の日々は今でもいい思い出です」
エリシアナは鋏を動かす手を止め、後輩の思い出話に静かに耳を傾けた。
「先輩は面倒見良くて漢気もあるから俺たち後輩の中でも人気者でした。でも、誰か一人と深く付き合うことはないっていうか、みんな平等に仲良くしてくれるというか。その中で一番俺が先輩と仲良いって思ってたんだけど」
エリシアナの知らないカイザーだった。
人付き合いが上手く、白薔薇砦の使用人やディオスの領民ともいつの間にか打ち解けていた姿はフィズィーロの言うとおりだが、彼は割と最初からエリシアナにズカズカと踏み込んできたように思う。それに、よく揶揄われたし意地悪だった気もする。
「女の子にモテモテっていうのは誇張なしの本当の話ですけど、先輩は寄ってくる女の子をその気にさせるようなことは絶対にしませんでした。社交辞令や処世術として表面上は優しくしてましたけど、徹底して一線は踏み込ませなかったし、先輩からも近づくことはなかったです。だから、俺があの時言ったことは嘘です、すみません」
――あの人経験豊富だから女性のツボをつくのが上手いっていうか、その気にさせるの上手いんですよ。だから勘違いしちゃう女性が大勢いたな〜
あの言葉はエリシアナの胸に深く突き刺さった。世間知らずで初心な自分も簡単に嵌められてしまったのか。彼の周りにいる数多の女性のうちの一人にすぎないのか。そんなふうに彼を疑ってしまった自分も嫌だった。
「でも、カーズ夫人に対しては俺が今まで見たことない顔してるし、挑発したとはいえ、先輩が誰かのためにあんなに怒るところも見たことありませんでした。マーカス子爵城でもずっとくっついて、自分から懐に引き入れようとするなんて今までの先輩じゃ考えられなかった。俺が代理でまた護衛につくことになった時も牽制というより脅しかけてきましたからね、夫人に何かしたら殺すって」
一番仲の良い後輩としてはちょっと妬いちゃいます、とフィズィーロはおどけた。
「そのヘアピンとイヤリング、それって先輩からもらったものですよね?」
「どうしてわかるの?」
「わかりますよ。貴族女性が身につけるにしては安価なものだけど夫人に良く似合ってるし、夫人も毎日つけてるじゃないですか。結婚指輪ですら貴族女性は同じ装飾品を毎日つけるか怪しいぐらいなのに。よっぽど大事なものなんですね」
エリシアナは思わず左のこめかみに手を当てた。
最初はただデザインが気に入ったから身に付けていただけ。それが癖になって決まった場所に付けていないと落ち着かなくなった。着飾ることにあまり興味はないけれど、毎日同じヘアピンとイヤリングをしているのをあの人が嬉しそうにしているからなんだか外しにくいし。
知り合ったばかりの他人に指摘されるほど、自分は単純な人間だったらしいことが気恥ずかしく、エリシアナは心の内で言い訳を並べる。
「俺が知る限りじゃ、先輩は女性に贈り物したことないですよ」
――愛されてますね。
フィズィーロは温かな眼差しで、にっこりと笑った。
その言葉が胸の奥深くにじんと染み渡り、白薔薇のヘアピンに触れていた指先が熱を帯びていく。
疑う必要なんて最初からなかった。
あのまっすぐな瞳も、なんてことなく渡された贈り物も、何度も心揺さぶられた言動も、すべて自分だけに注がれていた愛だったのだと悟る。
込み上げてくる愛おしさと胸の痛みに、エリシアナはギュッと鋏を握りしめた。
――どうしよう、昨日離れたばかりなのにもう会いたくて仕方がない。




