20.掌の上の再会
――誰がお前の妻だ。エリシアナは、俺と結婚するんだよ。
砂埃の舞う薄暗い地下室で、エリシアナは恐怖のあまり、遂に幻覚を見たと思った。
酷い言葉を投げつけ自ら追い出した男が、中央に戻ったと思い込んでいた男が、こんなにも都合良く自分の窮地に駆けつけてくれるなんて、そんな奇跡があるはずがない。
あぁ、でも、最期に幻覚でもいいから、あの男の姿を見れてよかった……。
「エル。すぐ終わるから、目瞑ってろ」
幻覚にしては、その低く掠れた声はあまりにリアルで、温かかった。
エリシアナは幻覚の言うとおりにきつく目を閉じた。真っ暗になった世界で、マーカスや武装兵達が動揺し、下品な声で喚いているのが聞こえる。
「な、何で貴様がここにいる?! 帝都に戻ったはず……ぐふぅぁっ」
「てめぇは喋んな、殺してしまうだろ」
マーカスが大声で喚いていたが、鈍い音と、壁に重量のある何かがぶつかった音と共に、あっという間に静かになった。
「おい、こんなの聞いてねぇぞ! 護衛の軍人は帝都に行ったって!」
「俺が知るかよ!! とにかくこの女殺して、俺らも逃げねぇと……」
「お前が先にいけよ! 俺はこの女で手が塞がってんだ!」
エリシアナを取り囲む武装兵達が仲間割れを起こしているのか、何やら頭上で怒鳴り合っている。押さえ付けられた体や捻りあげられた腕が痛い。
「おい、さっさとその汚い手を離せよ。俺の女だぞ」
「ぅああああっ、あ、あし、脚がぁぁ!」
「や、やめ、まだ何もして……あぁああああ!」
地を這うような底冷えのする低い声に、何かを鋭く振り下ろす音がすると、男達の短い絶叫が上がり、重いものが床に崩れ落ちる音が聞こえた。
その後、容赦無く何かを蹴り飛ばすような鈍い音が二回鳴ると、うるさかった男二人が完全に沈黙した。
「こ、こっちに来んな、この女がどうなってもいいのか?!」
背後でずっとエリシアナを押さえつけていた最後の男に無理矢理立たされ、片手で肩を拘束されながら首元に何か鋭利なものを当てられた。男の手は震え、その振動で鋭利な何かが首筋に食い込む。
痛い、血が流れている感覚がする。
「舐めんなよ。この距離で、俺が外す訳ないだろ」
「あぁあっ、ヒィッ、あぁぁぁ!」
パァンッ!!
狭い地下室に鼓膜を破るような銃声がこだました。
するとエリシアナを拘束していた男の手が離れ、再び床に投げ出され手と膝をついた。男は絶叫しながらドタバタと転げ回っているようだったが、また鈍い音がすると部屋全体が完全に静寂に包まれた。
「エル、もう大丈夫だ。……遅くなってごめんな」
もう一度聞きたかった優しく、頼もしい低い声。
記憶にあるものと同じ、大きく温かい手が床に蹲るエリシアナの体を優しく抱き起こした。
恐る恐る目を開けると、いつもきっちりと上げられている前髪が乱れ、軍服にはところどころ汚れが付着しているが、切れ長の綺麗な紫紺の瞳は、間違いなくエリシアナが愛してやまない男だった。
「っ、ぅ、あ、会いたかったっ、カイザー……!」
張り詰めていた糸が切れたように、大粒の涙を流しながら目の前の男に勢いよく飛び込み、抱きついた。
「……っ、やっと、名前で呼んでくれたな」
カイザーも彼女の華奢な体を、力強く抱き締め返した。
*
震えながら泣き続けるエリシアナを抱きしめ続けたカイザーだったが、薄汚く暗い血の海の中にいつまでも彼女を留めておきたくなかった。首にナイフを突きつけられた際にできた傷が痛々しく、早く手当してやりたい。
エリシアナを抱き上げるため、腕の力を緩めた。
そうしたらーー。
「っん、」
「!」
エリシアナの細腕がカイザーの首に絡みつき、少しでも離れた空間を埋めるように再び抱きついてきたかと思った瞬間、唇に柔らかな衝撃が押しつけられた。
あまりの衝撃にカイザーは紫紺の瞳を限界まで見開いたまま、完全に硬直していた。まさか、あのエリシアナが、自分から口付けてきたという予期せぬ行動を理解するのに、しばらく時間がかかった。
エリシアナからのキスは涙の味がしたが、とても柔らかく、ほんのり甘かった。
勢いよく口付けられた唇がしばらくして離れると、涙でいつも以上にきらめく碧い瞳が真っ直ぐ、そして熱くカイザーを映していた。
「……油断した。まさか、この俺が唇を奪われるとは思わなかった」
我に帰ったカイザーが、今度は自分の方から熱を孕んだ瞳で顔を寄せ、エリシアナの細腰を抱き寄せる。エリシアナはそっと目を瞑り、あと数ミリで再び唇が重なる――というところで、唐突に間の抜けた明るい声が飛び込んできた。
「あ、やっぱり先輩が全部片付けたんですね!……って、お取り込み中でしたか」
地下室の入口には、城門前でマーカス子爵の警備兵に拘束されていたはずのフィズィーロが怪我一つなく涼しい顔で立っていた。
誰が来たのか理解すると、カイザーはエリシアナに自身の上着を肩からすっぽりと被せ、さっきまでの甘い雰囲気を一切消し去った。そして、殴り殺さんばかりの気迫で後輩の胸ぐらに掴みかかった。
「お前! よく俺の前にのこのこそのツラ出せたな?! お前もこいつらとグルなんだろうがっ!!」
「ちょ、ちょっと待って! ちゃんと説明するから、先輩落ち着いて!」
「ふざけんなっ、落ち着いてられるか!」
カイザーの右の拳が、今にもフィズィーロの顔面に叩き込まれようとしたその時、血生臭い地下室の一室に全くそぐわない、穏やかな声がかけられた。
「ダルトン中尉、私の“孫“から手を離してやってくれないか」
そこに立っていたのは、東部支部司令官のエリック・ヴァルツァー少佐だった。
*
マーカス子爵邸は使用人も含め、全員が身柄を拘束され東部支部へ一旦移送されることになった。カイザーに壁に蹴り飛ばされ、地下室で気絶していたマーカス子爵も叩き起こされ乱暴に移送車に詰め込まれた。
子爵邸のあちこちが戦闘の跡が残り雑然としていたが、応接室らしい場所は比較的散らかっていなかったため、カイザー、エリシアナ、フィズィーロ、ヴァルツァーの四人はしばらくの間、その応接室を拝借することにした。
カイザーはすぐ隣に座るエリシアナの手を右手でしっかりと握り締めながら、目の前に座る上官と背後に控えるかつての後輩を警戒した目で睨み続けた。
「えぇっと、まずは、執事長のブラッドさんとメイド長のメアリーさんは無事です。怪我もありませんのでご心配なく。それから拉致されていたディオスの領民も我々が保護済みです。そして、皇后陛下ですが……こちらも現在、支部で身柄を確保しています」
まず口火を切ったのは四人の中で最も下っ端のフィズィーロだった。彼の報告にエリシアナが心底ホッとしたように大きく安堵した。
「……どういうことか、今度は全て説明していただけるんですよね」
カイザーは変わらず警戒心を解かず、目の前に座る上官から目を離さなかった。ヴァルツァーは一つ息を吐いてカイザーとエリシアナの二人にこれまでの経緯を説明し始めた。
「まず、ここにいるフィズィーロ・アルバ軍曹は私の孫だ。君たちの敵ではない」
「孫? そいつは農家の三男坊で平民出身だったはずですが? それに、あなたに軍人の孫がいるなど聞いたことがない」
「当然だ。フィズィーロの戸籍は細工されているからな」
「なぜです」
「“特別秘密工作部隊――通称:C部隊“の名を聞いたことはあるか?」
カイザーは優れた記憶力をフル回転させて記憶を探った。
「C部隊」、確か中央にいた頃に真偽不明の秘密組織が実は軍には存在すると同僚たちが噂していた気がする。その時はただのおとぎ話で眉唾物だと思って、カイザーは興味を持たなかった。
「C部隊は帝国の英雄ガリオン・カーズが秘密裏に創設し、現在の総責任者は私だ。というより、カーズ元中将に押し付けられたと言うべきか……」
「本当に実在していたのですか」
「あぁ、C部隊は皇帝陛下直轄部隊として隠密行動や情報工作を担ってきた。ガリオン・カーズの英雄譚の一つに当時の皇太子を救出したという逸話があるだろう? あれは自国の軍内部にスパイが紛れ込んでいたのを防げなかったことがそもそもの発端だ。それを深刻に捉えた当時のガリオン・カーズ自らが選んだ者達で構成され、身内である軍部にすら明かされない秘密組織を創設した」
ガリオン・カーズが創設した秘密組織だから、頭文字を取って“C部隊“というわけか。
「ああ、ちなみに君たちが『黒薔薇』と呼んでいるメイド長率いる密偵組織は、カーズ元中将が個人的に砦とディオスを守るために作ったカーズ家専属の私兵だから、我々C部隊とは別物だ」
白薔薇砦の優秀な密偵は「黒薔薇」という名だったことをカイザーはこの場で初めて知った。しかも、あのメイド長がその組織のトップだったとは……。まさか彼女も副業していたとは思わなかった。
「C部隊に属する人間は全て素性を偽る。“アルバ“の姓は偽名だ」
「ということは少佐も?」
「私はもう素性が知られてしまった後だから本名だよ。まぁ家族情報は色々細工しているが」
穏やかな顔をして裏の顔がまさか皇帝直轄の秘密組織のトップだったとは。やはりただ者ではなかった。そして、今までただの可愛い後輩だと思っていたフィズィーロもその一員とは全く気づかなかった。要領の良い奴だとは思っていたが、すっかり騙された。
ヴァルツァーの後ろに控えるフィズィーロを恨めしげに見やると、気まずそうにスッと目を逸らされた。
「今回、敵勢力である皇后陛下がようやく大きく動いた。君が刺客に毒ナイフで刺されたあの襲撃もあちらの仕込みだった。君が命を落とすならそれはそれで良し。負傷すれば『帝国の優秀な軍人を白薔薇砦の過剰な警護などで無駄死にさせかけた。白薔薇砦の警備体制の不備であり、これ以上の配置は軍の損害だ』と、中央復帰辞令を出す正当な口実にできるからな。今回のダルトン中尉の中央復帰辞令は皇后……厳密には皇后の実家であるフィデリア侯爵家に仕組まれたものだったが、我々はこれを逆手に取り敵勢力を大きく削ぐことに決めた」
――ハハッ、これで、任務達成だ……。
あの時の男の捨て台詞はそういうことだったのか。
やはり、今回の不可解な辞令は黒幕の絡んだものだった。そして、それを利用しようとC部隊が動いた。カイザーはまんまと黒幕とヴァルツァーにいいように利用され、見事に駒として動かされていたのだ。
「今回、フィズィーロには三つの任務を与えていた。君を挑発し、冷静さを失わせること。カーズ夫人に自ら中尉を突き放すよう芝居を打つこと。そしてマーカス子爵邸に乗り込み我々東部軍を引き入れること」
「あの、ほんと、お二人には申し訳なかったと思ってます……」
フィズィーロはひどく申し訳なさそうに頭をかいた。
「その割には迫真の演技だったな、まるで本心かのようだった。軍人より、舞台役者の方が向いてるんじゃないのか」
「いや、本当は任務とはいえ嫌だったんですよ?! 先輩にあんなこと言うの! でもああでもしないと先輩を動かすなんて無理だし。それでも夫人に"行かないで"なんて言われたら先輩は絶対砦から出ないだろうから、夫人にも酷いこと言わなきゃで心痛んだし。殴られるかもとは思ってたけど本当に殴られるわ、顔面は腫れ上がるわ、夫人にも泣かれるわで本当に散々だった……」
「……泣かせたのか?」
落ち着いたと思ったカイザーの怒りが再び湧き上がってきた。フィズィーロは思わず口元を手で押さえ「しまった」と言わんばかりの表情で怯えている。
本当にこんなにお喋りでわかりやすい奴が秘密組織の一員としてやっていけるのだろうか。ヴァルツァーも呆れたように息を吐いた。
隣のエリシアナが「私は大丈夫だから」と言うようにカイザーの手を握り返したことでまた少し落ち着きを取り戻した。
「まぁ、そこまで責めないでやってくれ。シナリオを考えたのは私だ。やり方は任せたが……」
最後の含みはまるで、孫に「もっと上手くやらんからだ、未熟者め」と言っているようだった。
「敵を大胆にさせるために、君には派手に白薔薇砦から追い出されてもらう必要があった。カーズ元中将と君が砦にいる間は向こう側は良くも悪くも下手に手出しできなかったからな。その結果、長年奴らの隙に付け入れられず我々も手をこまねいていた。今回の作戦でこちら側があえて隙を作ることで必ず食いついてくると考えていた」
「だからって、エルを……カーズ夫人を危険な目に遭わせたのは到底納得できません! もう少し遅れていたら、どうなっていたか……」
カイザーが声を震わせた。
以前エリシアナが爆発で狙われた時のことを思い返すと、今でも冷や汗が出る。いつも自信に満ち溢れ、何事にも余裕を持って対処してみせるカイザーが唯一恐怖を覚えるのは、エリシアナが危険な目に遭う時だった。
「だから君に言っただろう、“準備をしておけ“と。私も無策で夫人を敵の根城に連れて行かれるのを黙って見ていたわけではないよ」
「たったあれだけの言葉で準備が万全だったとでも?」
「現に君は私の言葉の裏を読んでサイスに潜伏し、自ら情報収集した上でここに乗り込み、見事に夫人の窮地を救った。さすが、中央でも評判の有能な軍人だ」
全く嬉しくない褒め言葉だった。
ヴァルツァーの言葉を信じ、サイス領に張り込んですぐにサイス領主の悪徳ぶりに気づき、エリシアナを狙う黒幕と繋がりがあることも掴んだ。そのマーカスが動き出し、エリシアナが捕らえられたと知った時は血の気が引いたが、なんとかギリギリ間に合っただけだ。
どうやら自分の行動は全てヴァルツァーの計算の内で、掌でコロコロ転がされていたことに今になって気づいた自分を殴りたくなった。
「さて、こんな汚い場所に長々と夫人を居続けさせるのも忍びない。怪我もしているようだし、今日はもう砦へ帰りなさい。まだ何か聞きたいことがあるなら後日支部へ来るように」
ヴァルツァーが立ち上がり、その後ろにフィズィーロが続いた。
カイザーとエリシアナにとって、長い一日がようやく終わろうとしていた。




