19.謀略の影の来訪
カイザーを追い出したあの後、エリシアナは自室で声を上げて泣いた。
ガリオンが亡くなった時でもこれほど派手に泣かなかったのに、次から次へと涙が滝のように溢れて止まらなかった。心配したメアリーが慌てて駆けつけ、ベッドの端でくず折れて大泣きするエリシアナを抱きしめた。
「あ、あの人にっ、酷いことっ、言っちゃった、っも、もうっ、会えない、こっ、こんなに、……好きなのにっ」
メアリーは何も言えなかった。ただ無言で、エリシアナが泣き疲れて眠るまで、その細い背中をあやし続けた。
*
カイザーが白薔薇砦を追い出されて一週間が経った。
数ヶ月いた護衛が入れ替わっただけで、砦内は異様に静かで重苦しく、異分子が紛れ込んだような違和感が漂っていた。
後任のフィズィーロは、カイザーを追い出した張本人であることが使用人達に知れ渡ったことで大層嫌われていた。
だが、当の本人は顔を腫らしながらどこ吹く風という様子でカイザーが請け負っていた業務を淡々とこなしている。初対面でエリシアナに対し露悪的だった態度は意外にも消え失せ、二重人格ではと疑いたくなるほど、気味悪いくらいにこやかに接してくるようになった。
エリシアナはまた不眠が再発した。
日に日に顔色が悪くなっていき、今にも倒れそうなほど心も体も弱っていった。今も変わらず、彼から贈られた白薔薇のヘアピンとイヤリングを身につけ、魂が抜けたように政務をこなす姿が更に痛々しかった。
「やっと顔を合わせることができたな、カーズ夫人」
砦の応接室にはサイス領の領主、ジョージ・マーカス子爵がソファにふんぞり返っていた。
見栄っ張りな貴族男性特有の髭を蓄え、その髭をいじくる指にはいくつもの宝石が嵌められている。でっぷりとした体型のせいか、ソファがいつも以上に深く沈んでいた。
「マーカス子爵、どうしてあなたが砦の通行証をお持ちで?」
同席しているブラッドがエリシアナの代わりに鋭く問いただした。同じく同席しているメアリーも、無表情で目の前の下品な男を見据えていた。護衛として一応側に控えているフィズィーロは、感情の読めない表情で扉付近に立っている。
応接室は今までにないほど緊迫した空気だった。
カイザーが砦を追い出されて、大して日も置かずにやってきた招かれざる客。これまでしつこく謁見要請を繰り返し、ディオスを狙っている隣領地の領主。こんな偶然があるだろうか。
「ふん、執事のくせに口を挟んでくるとは教育がなっとらんな。まぁいい、答えてやろう。帝室が直々にこの通行証を発行してくださったのだ。これまで何度も通行証の発行申請を夫人から無視されて困っているという私の訴えを聞き入れてくださったのだ」
マーカス子爵は大仰に通行証をひらひらと掲げながら、短い足を組んだ。
「帝室」という単語に、エリシアナは足下からぬるりと影が這い上ってくるような感覚がした。白薔薇砦に来てから大人しかったあの女が、カイザーという強力な盾がいなくなったことで遂に動き出したのだ。
「これまでこちらが親切心で声をかけてやっていたのに無碍にするから、どんな鼻持ちならん女かと思えば……こんなにいい女だったとはな」
エリシアナより二回りは年上だろう男から全身を舐め回されるような下品な視線に、エリシアナはこの上ない不快感を覚え鳥肌が立った。
背後に立つ保護者同然の存在である使用人二人も、嫌悪感を隠さなかった。
「それでマーカス子爵、ご用件は何かしら」
通行証を持つ以上、門番はこの招かれざる客を通さざるを得ない。なら、領主代理である自分が毅然と対応してさっさと追い出そう。
「以前から言っておるだろう、東部の領主同士、親睦を深めるべきだと。カーズ夫人は領主代理として経験が浅い上に年若い未亡人だ。それに、聞けば今までろくに貴族女性としての教育を受けていないというじゃないか。私はかれこれ二十年年以上、領主としてサイス領を守ってきた実績がある上に、有力貴族家とも縁が深い。私と仲良くするのは夫人にとってメリットだろう」
全くもって余計なお世話だ。あからさまにエリシアナを見下し、下心を隠そうともしない言動に、今すぐ懐の小銃を取り出したかったが、領主代理として苛立つ心をどうにか落ち着かせた。
「どうだ、これからの東部発展のためにサイスとディオスで経済協力と防衛協定を結ぼうではないか!」
自分の提案がさも素晴らしいと疑ってもいないような男の態度に、エリシアナは冷笑を浮かべながら即座に拒絶した。
「東部の発展ですって? 領民に重税を課しながら領主は贅沢三昧な生活を送り、帝国の重鎮貴族達に媚びへつらって賄賂を送り続け、自領で麻薬が横行し暴動が起きても治安の維持を気にも留めない。数年前の大嵐の時には城の備蓄を出すのを惜しんで大量の餓死者を出したサイス領とディオスが、どうやって手を取れるとお思いで? おめでたい頭ね」
世間一般に知られる「外に出られないほど病弱なカーズ夫人」が毅然とした態度で即座に断ると思っていなかったマーカス子爵は、見る見るうちに鼻白んだ。
「これだから女は……。人脈が重要だということを理解できないとはな。噂とは違って世間知らずで生意気な小娘だ」
「あなたは旦那様が生前言っていたとおりの人物ね。――たまたま領主の家に生まれただけの無能のくせに、強欲で矮小な男」
マーカス子爵は元々赤ら顔だった顔を更に赤くしながらエリシアナを睨みつけた。
「そんな生意気な態度で良いのか? これは提案ではない、勧告だ。サイスにはとても力のある高貴な方がお力添えしてくださっているのだ。ただの領主代理の未亡人の小娘など、簡単に処理できてしまうほどのな。そしてそのお方がお前に会いたいと仰せだ。ちょうどいい、協定締結のために三日後にサイスの我が城に招待してやろう」
「脅しておいて“協定“だなんて笑わせるわね。行くわけないでしょ」
「言っただろうこれは提案ではないと。来なければディオスの領民何人かが帰ってこなくなるぞ、永遠にな」
「東部支部を舐めすぎでは? 領民が何人も行方不明になれば軍が動くわよ」
マーカスは汚らしい高笑いを響かせながら答えた。
「お前こそ軍人を高く買いすぎだぞ。奴らも人間だ、私と仲良くしている軍人どもが何人いると思う?」
エリシアナは、カイザーを毒刃で襲った刺客がサイス領に駐屯経験のある元軍人であったことを思い出した。この男の発言はハッタリではない可能性が高い。
強気な態度を崩さなかったエリシアナの目に、恐怖や不安の色を感じ取ったのだろう。マーカスは、ニヤァと嫌らしく笑いながら、ソファから立ち上がりついでに懐からあるものを取り出し、テーブルの上に放り投げた。
「それは土産だ。……誰のものかは、わかるだろう? 優秀な番犬を失ったお前は……どうするかな」
エリシアナを見下し、下品に笑いながらマーカスが去った後。
応接室のテーブルの上に放置された「それ」を見た瞬間、エリシアナは一気に血の気が引き、視界がぐらりと揺れた。
そこには、軍人なら肌身離さず身につけているはずのものーーべっとりと赤黒い血がこびりついた、見覚えのある階級章が転がっていた。
*
「お嬢様、やはり今からでもヴァルツァー少佐に同行をお願いすべきです」
質素な馬車にエリシアナ、ブラッド、メアリーが乗り込み、サイス領のマーカス子爵邸へ向かう途中で、ブラッドはいつになく強い口調で訴えた。未だ信用されていないフィズィーロは護衛兼馬夫として馬を操っていた。
「少佐は任務で今は不在だそうです。それにマーカス子爵と軍の一部が繋がっているなら、東部支部を全面的には信用できなくなりました」
「ハーマン執事長の言うとおり、少佐が戻られてからでも……」
「メアリーさん、黒薔薇からの報告でディオスの領民が数名行方不明がわかったでしょう。あの男の言うとおり期限を守らなければ、連れ去られた彼らがどうなるかわかりません。それに……」
――あの人がマーカス子爵に捕らわれているかもしれない。
エリシアナは口には出さなかったが、ブラッドとメアリーは続く言葉が何なのかわかった。こんな時にダルトン中尉がいれば……そう思わざるを得ない二人だった。
「待ちくたびれたぞ、カーズ夫人。あまりに遅いからこの私が直々に出迎えてやった」
マーカスは今日も派手な衣装に宝石を見せびらかせ、腕を組みながらエリシアナ達を出迎えた。その周辺には武装した警備兵が大勢配置され、ほぼ戦力にならない使用人二人、とまだ経験の浅いだろう護衛一人に対する、あからさまな威嚇行為だった。
「そこの使用人どもはここで待ってもらおう。夫人だけついて来い」
マーカスが言うや否やブラッドとメアリー、フィズィーロは抵抗虚しく武装警備兵に取り押さえられ、拘束されてしまった。
「「お嬢様!」」
「マーカス子爵!」
「お前が大人しくしていれば怪我はせんさ。協定締結がまとまれば解放してやる」
エリシアナはマーカスを強く睨みつけるが、領民に加え身内同然の使用人も人質に取られてしまえば、マーカスに従うしかなかった。
エリシアナは両隣と後ろに警備兵に取り囲まれながら、前方を歩く男の後ろに付いて歩き出した。
――落ち着いて、エリシアナ。いざとなれば……。
懐に忍ばせた小銃の冷たい感触を服の上から確かめる。心臓は嫌な音を立てて早鐘を打ち、冷や汗が流れ続ける。もう会えない男の逞しい背中を必死で思い出し、左こめかみの白薔薇のヘアピンに震える指先で触れながら、動かなくなりそうな足を何とか前へ進めた。
マーカスに付いて辿り着いたのは、地下にある薄暗く狭い部屋だった。部屋の中央には小さな木の机と向かい合わせに簡易な椅子が配置され、机上には予め紙とペンが置かれていた。
「何をすればいいかわかっているな、さっさとサインしろ」
「その前に、人質にした人達を解放しなさい」
「サインすれば解放してやると言っているだろう」
マーカスの提示する経済協力や防衛協定を飲んでしまったが最後、ディオスが第二のサイスになるのは火を見るより明らかだった。手始めに白薔薇砦を解放させ砦の内部から侵略し、ディオスの豊富な食糧や税収を掠め取る。反発する領民や軍は麻薬や賄賂で洗脳し、高笑いするのはマーカス子爵のみ。
そんなことはガリオン・カーズの後を継いだエリシアナには到底許せなかった。
「解放が先よ!」
バッ、と懐から小銃を取り出し、引き金に指をかけながらマーカスに銃口を向けた。
「なっ、お、お前らっ、早く何とかしろ!!」
エリシアナをただの世間知らずな小娘と侮っていたマーカスは、突然向けられた銃口に怯え、武装兵に無様に喚いた。
銃口の狙いを自分に向かってくる武装兵に向けたが、実戦経験はほとんどないエリシアナの指先は震えていた。引き金を引く前に男達の圧倒的な腕力で小銃を叩き落とされ、後ろ手に拘束され、冷たい石の床に力任せに跪かされてしまった。
「おねぇさんさぁ、人、撃ったことないだろ。ダメだぞ〜、そんな中途半端に危ねぇもん向けちゃ」
「う゛っ……!」
エリシアナを背後から拘束する武装兵がニタニタと嫌らしく笑いながら、エリシアナの細い腕を力任せに捻りあげた。関節がミシリと鳴り、激痛に顔が歪む。
「本当になんて女だ、私に向かって銃を向けてくるとは! まだ自分が置かれた立場がわかっとらんとは……サインが済めば、その生意気な口が二度と利けないようにしてやる。さぁ、書けっ!」
エリシアナは床に跪かされながら右手だけ解放され、目の前に協定締結書を叩きつけられた。
腕の痛みと、あっさりやられてしまった悔しさ、ディオスを守りきれなかった不甲斐なさ、そしてこれから自分の身に起こる理不尽な暴力と、死への恐怖。それらが熱い涙になって込み上げてきた。
その時だった。
「まぁ、なんて汚らしい」
薄暗い地下室の入り口にフードを目深に被った女が現れた。埃っぽい部屋に口元を歪め、顔の前で手を払いながらエリシアナに近づいてくる。カビ臭く埃っぽい部屋に、息を止めたくなるほどの強い香水や化粧の匂いが充満した。
「やっと会えたわね。二十年以上逃げ回り続けたドブネズミがどんな顔をしているのかと思えば……本当に忌々しいぐらい、あの女にそっくりね」
「こっ、このような不潔な場所にお越しいただけるとは……帝国の高貴なる月にご挨拶申し上げます、オフィーリア皇后陛下」
先ほどまでエリシアナに唾を飛ばしながら怒鳴り散らしていたマーカスが、打って変わって忠実な犬のように傅いた。
「よくやったわ、マーカス子爵。褒美は何がいいかしら」
「そんな、滅相もありません! 皇后陛下にいただけるものでしたらその全てが家宝となりましょう」
「ふふっ、調子のいいこと。……さて」
エリシアナは目の前にやってきた皇后を下から睨み上げた。
皇后の目は濁ったように虚で、厚化粧でも隠せないほどの隈とこけた頬、毒々しいほどの真っ赤なルージュは、薄暗い部屋の中ではまるで墓地から這い出た死霊のようだった。
顔を合わせるのは初めてだったが、長年命を狙ってきた黒幕の存在は、常に付き纏ってきたある意味身近な存在でもあった。
「本当に長かった……。何年も何年もコソコソと無様に逃げ続けて、遠い島国でやっとトドメをさせると思えばまさか帝国の英雄が邪魔してくるなんて思わなかった。その邪魔者もやっと死んだと思えば、次はあの生意気な護衛を侍らせて……。さすが分不相応に私の陛下を籠絡させたあの卑しい女の娘ね。帝国の英雄に取り入って保護してもらった上に、護衛の若造も手玉に取るなんて。その顔と体は、さぞご自慢なのでしょうね」
「母はあなた達が婚約する前に身を引いたでしょう。しかもその後、母の実家を冤罪で潰しておいて……。なのに執拗に襲い続けて母を殺した挙句、その娘まで手にかけようとするなんて、嫉妬で物事の分別もつかないとは帝国の母が聞いて呆れるわ」
「生意気なその口から引き裂いてやろうかしら。マーカス子爵、この小娘を徹底的に痛めつけてから処理してちょうだい。やり方は好きにしていいわ。……やっと、やっとよ、これであの人の心は、私のものになる……」
アハハハハと何もない空間を見つめ、常軌を逸した甲高い笑い声を響かせながら、皇后が部屋を出て行った。潔癖症な皇后は一刻も早くこの地下室から出たかったようで、エリシアナの最期の瞬間には興味がないらしい。
「もう終わりだ、カーズ夫人。痛い目を見る前にサインした方がお互いのためだ。……おい、お前達。私が楽しんだ後に皇后陛下の仰ったとおりに処理しろ。好きに痛めつけて構わん」
武装兵の男三人が、笑い声を上げて湧き立った。
「さっすが領主様! こういう高慢な貴族の女、泣かせてみたかったんだ」
「やり方を任せてくれるなんて、いい領主様だぜ」
「おい、さっさとサインさせろ!」
薄暗い密室の小さな空間に、男四人のねっとりとした粘着質な視線や興奮した鼻息が、窮地のエリシアナを恐怖の谷に突き落とした。真後ろでエリシアナを拘束する男の手が、逃がさないよう執拗に痛みを伴って腕や肩を締め上げる。
――気持ち悪い、嫌だ、吐き気がする。あの人以外に触られたくない!
「はぁ、残念だ。皇后陛下の命でなければ、殺さずに私の妻の一人にしてずっと可愛がってやるのに」
マーカス子爵がわざとらしく溜息をついた。
武装兵の一人に無理やりペンを握らされ、紙に体ごと押し付けられた。エリシアナの抵抗虚しく、強制的にサインさせられそうになった、その時。
ドゴァァァンッ!!
地下室の重い扉が、蹴破られる派手な音が響き渡った。
「――誰がお前の妻だ。エリシアナは、俺と結婚するんだよ」
涙で歪んだ先に、もう会えないと思っていた男がサーベルと小銃を構えて立っていた。




