18.白薔薇に散る盤上の紅
「どういうことですか!」
カイザーは白薔薇砦での勢いのまま、東部支部司令官室で上官の机に両手を叩きつけ、掴み掛からんばかりの勢いで問い詰めた。
「アルバ軍曹から聞いただろう。これがその辞令書だ」
激しく憤るカイザーに対し、エリック・ヴァルツァーは普段どおりの落ち着き払った所作で、事務机の上に一枚の辞令書を滑らせた。
「自分が聞いているのは、なぜ、“今このタイミング“で復帰命令が出るのかということです」
「まったく、いつも言っているだろう。私は上からの命令に従っているまでだと。その上層部曰く、“カーズ夫人はここ数ヶ月砦から一切出ていないのだから、ダルトン中尉のような過剰な戦力は必要ない“とのことだ」
「夫人が砦から出られなくなったのは、墓参りに出かけた際に爆殺されそうになったからなのはご存知でしょう! 砦から出なくとも、先日は護衛の自分を狙った刺客まで現れました。危険性は全く変わっていない!」
「君が負傷したことも上は問題視しているのだよ。将来有望な君が、三日間も昏倒するほどの大怪我を負わされたのだからな」
「大袈裟すぎます。戦場に出ればあのぐらいの怪我なんて日常茶飯事でしょう。現に、自分は今こうやって問題なく動けております」
「砦から出ない夫人に代わって、帝国軍期待の若手が命の危機に晒された。上は単に合理的に天秤にかけただけだ。それに、護衛をつけないとは言っていない。後任にアルバ軍曹を送ってきただろう」
「危険な状況に置かれているカーズ夫人を守らせるために、自分を理不尽に東部へ異動させておいて、今度は危険だから帰ってこいってことですか。……これは陛下も関わっておられるのですか」
優雅にコーヒーを飲みながらカイザーに対峙していたヴァルツァーの眉間が、ピクリと顰められた。
「……まさか、栄転であるはずの中央への復帰辞令がそんなに不服とはな。ダルトン中尉。私は“夫人を守れ“とは言ったが、“たらしこめ“とは言っていない」
「……っ、話を逸らさないでください」
「女に入れ上げて命令に背くのか。夫人はガリオン・カーズの後妻で、夫を亡くしてまだ喪中も明けていない。世間知らずな傷心中の夫人につけ込む行為は褒められたものではないぞ」
カイザーはその点に関しては返す言葉がなかった。
自覚はあった。護衛の分を越えていることも、理性を失って強引に触れてしまったことも。だが、エリシアナを狂おしいほどに思う気持ちは、もうどうやっても止められなかった。
「命令が不服なら私より偉くなるか、軍を去れ。……以上だ」
東部へ来た初日のように、この食えない上官にはもうこれ以上は何を言っても無駄だということがわかった。
カイザーは差し出された辞令書を受け取りもせず、怒りに任せて扉を乱暴に開け、そのまま砦へと走り去った。
*
カイザーが司令官室を飛び出した後、ヴァルツァーもゆっくりと部屋から出てきた。廊下には控えていた部下たちがこの後に下される命令を待っていた。
「こんなに行動の読める男で助かったよ……動くぞ」
ヴァルツァー達はこれから起こる作戦の第一歩に向けて動き出した。
*
白薔薇砦に再度戻ってきたカイザーは、ちょうど応接室から出てきたフィズィーロと前庭で鉢合わせた。
支部でカイザーが何を言われてきたのか予想がついているのか、フィズィーロの顔にはカイザーを嘲るような、薄っぺらい笑みが張り付けられていた。
「お前、もしかして“あっち側“なのか」
「あっちって、どっちです?」
思わずフィズィーロの胸ぐらを掴みかかりながら、カイザーは今にもその薄ら笑いしている顔面を殴り倒しそうになるのをなんとか我慢していた。フィズィーロはカイザーの行動が読めていたのか、怯えることもなく、なおも不適に笑っている。
「とぼけるなよ。俺がいない間に奴らに取り込まれたのか? それとも最初からあっち側のスパイとして俺に近付いてきたのか」
「何を言ってるのかわかりませんね、あっちとか奴らとか。それよりいい加減苦しいんで、離してもらえます?」
「なら、全部話せ」
「まったく、どうしたんです? そんなにここが気に入ったんですか?……あぁ、ここじゃなくて“カーズ夫人“が気に入ったんですか?」
「黙れ」
「先輩どうしちゃったんですか、中央にいた時は女嫌いだったでしょ? 上辺だけ適当に優しくして誰にも執着しなかったのに。……そんなに彼女の扱いが上手くいったとか?」
「黙れ!! お前にエルの何がわかる!」
圧倒的な体格差でカイザーに胸ぐらを掴まれ、今にも締め上げられようとしているフィズィーロの両足が地面から浮き始めた。掴まれた胸ぐらに全体重がかかって息苦しいはずなのに、フィズィーロはカイザーを挑発するのをやめなかった。
「そんなにここにいたいなら軍を辞めるしかないですね。そしたら伯爵家の次男坊として自由にできますよ。あぁ、でも家督が継げない上に見捨てられた貴族家の次男じゃ身分保証が弱いか。軍功で下賜された男爵位は軍を辞めたら返上しなきゃだし。となると、平民に近い先輩じゃカーズ領主夫人の再婚相手としては……微妙ですね」
ドゴッ!!
雪が舞い散る白薔薇の前庭に、鈍く重い音が響いた。
カイザーの思い一撃をまともに食らったフィズィーロが、無様に地面へ転がる。完全にキレたカイザーは、倒れ込んだ後輩の胸ぐらを再び荒々しく掴み上げ、もう片方の拳を再び高く振り上げた。
「やめて!!」
玄関から前庭に続く薔薇のアーチの下、白い息を吐きながらエリシアナとブラッドが必死の形相で走り寄った。
「止めんな!!」
頭に血が上ったカイザーは、視線を自分の下で意識を失いかけている後輩から逸らすことなく、制止の呼び掛けに激しく怒鳴り返した。その目は血走り、完全に殺意に支配された鬼の形相だった。
「お、お願い、やめて。……あなた、手が、血が……」
初めて目にするカイザーの殺意に満ちた暴力行為や、空気を震わせるような怒鳴り声に、エリシアナは恐怖に竦んだ。
怒りで視界が染まったカイザーは、視界の端でエリシアナが両手を胸の前で握り締め、体を縮こませながらもカイザーの怪我を心配している姿を捉え、ようやくハッと我に返ったように大きく息を吐いた。
カイザーの右手は、渾身の力で殴りつけた反動で赤く腫れ上がり、微かに血が滲んでいた。
エリシアナを心底怖がらせ、後輩を殺しかけた状況に気がついたことで、カイザーは少し落ち着きを取り戻した。フィズィーロに掴みかかっていた手を離し、肩で大きく息をしながら立ち上がる。
しばらく誰も言葉を発しなかった。
その間も雪は無情に降り続け、急いで外に出てきたからか薄着のエリシアナの服を冷たく濡らしていった。
「……風邪引くから、もう中に戻れ」
カイザーはエリシアナの顔を見れなかった。まだ完全に冷静にはなれていなかった。
「……」
「エル」
「……ダルトン中尉」
これまでエリシアナはカイザーのことを頑なに名で呼ばなかった。いつも「あなた」呼びで、階級で呼んだのは初対面の時だけだ。
久しぶりに聞いた堅苦しく呼びかける声は、雪の中で震えており突き放すような声だった。
カイザーは言い知れぬ不安に襲われた。怒りでまだ茹るように重い頭を彼女の方へもたげた。
雪で濡れた体が震えるのを必死で耐えるように、エリシアナは両手を強く握りしめていた。掌に自らの爪が食い込み、血が滲んでいるのすら見える。それなのに、彼女の口から発せられたのは、カイザーを冷たい刃のように切り裂くような言葉だった。
「……今までご苦労様。あなたが中央でも活躍することをここから祈っているわ」
「……は?」
少し落ち着きを取り戻しかけていた頭に、再びカッと血が上る。凍えるほどの雪の冷たさも消し飛ぶほどの怒りが湧き上がり、地を這うような低い声が自分の口から漏れた。
エリシアナはこちらに背を向けた。まるで、カイザーの顔を見るのも、そして自分の顔を見られるのを恐れているかのように。
「おい、本気で言ってんのか」
「えぇ。……私、世間知らずだったわ。あなたにいいように振り回されてしまって。もう疲れたの。砦から出ることもないでしょうし、あなたはもう必要ないの。だから……出てって」
「ふざけんなよ、俺があんたのことどれだけ見てきたかわかってんだろ。そんな見え見えの嘘で俺を突き放せると思ってんのか。……こっちを見て言えよ、エリシアナ!!」
白薔薇の前庭にカイザー悲痛な叫び声が響いた。
彼に背を向けるエリシアナの震える背中はとても小さく、今にも雪の中にくず折れそうなほど弱々しかった。
頑なに振り返ろうとしないエリシアナにカイザーが強引に近づこうとした時、砦の正門が勢いよく外から開けられた。
三十人ほどの武装した軍人がなだれ込み、カイザーを取り囲んで拘束しようと動いた。
「お前ら、一体どういうつもりだ」
もちろん大人しく捕まるカイザーではなく、向かってきた軍人達を怒りのままに次々と薙ぎ倒していった。その数が片手で収まらなくなった時、正門からもう一人の軍人が悠々と入ってきた。
「ダルトン中尉、随分と派手にやってくれたな」
「……ヴァルツァー少佐」
片手に白薔薇砦の通行証を掲げながらゆったりと歩いてきた上官は、カイザーの周りに倒れる部下達数人と、顔面を腫らして血を流すフィズィーロを見やり、わざとらしく大きくため息をついた。
「こんな私でも、将来有望な軍人を罰したくはないということをわかってくれないか。これ以上の暴行は見過ごせんぞ。それに、か弱い夫人の前で流血沙汰を起こすとは、いくら軍人とはいえ紳士的ではないな」
エリシアナの存在に言及された途端、先ほどフィズィーロを殴っている場面を見せただけで彼女をひどく怖がらせてしまったことを思い出した。カイザーは反撃の手を止めて、少し大人しくなった。
カイザーの視界の端にいるエリシアナは変わらず背を向けたまま、彼女の震える肩にブラッドが自身の上着を静かに被せてやっていた。
「……ダルトン中尉、君は少し冷静になる時間が必要なようだ。そうだな、中央に戻る前にお隣のサイス領で少し羽を伸ばしたらどうだ? これまでろくに休暇を取っていなかっただろう。あそこは色々と刺激的で若者には楽しいだろうし、宿も充実していておすすめだぞ」
いつもどおり穏やかな顔をして休暇先の提案をしてくる上官が、まだ息を荒げるカイザーの目の前にやってきた。その目は、有無を言わせない不気味な圧を放っていた。
もう抵抗しないと判断したらしいヴァルツァーは、カイザーの肩に力強く手を置き、周囲には聞き取れない声で何事かを囁いた。
雪の降る真冬のディオスは騒然とした。
街のシンボルとも言える白薔薇砦に大勢の軍人が押しかけ、あの長身の美丈夫な軍人を罪人のように連行していったという噂が瞬く間に知れ渡った。
エリシアナは最後まで振り返らなかった。
一方、カイザーは連行される最中に一度だけエリシアナの小さな背中を振り返った。そして、先ほど上官から囁かれた言葉を咀嚼するように、頭の中で何度も噛み締めながら雪道を進んだ。
――これから動く。準備しておけ。




