2.カイザー・ダルトン
ダルトン伯爵家は、帝国南西部に位置するありふれた家門の一つだった。
この家には、待望の第一子でありながら非常に病弱な長男・アダムがいた。難産の末に生まれ、いつ消えるとも知れない灯火のようなアダムは、両親にとって絶えず悩みの種であり、同時に命に代えても守り抜くべき唯一の宝だった。
カイザーが生まれたのは、その三年後のことである。
不妊の気があった両親にとってカイザーの誕生は全くの想定外であった。そして皮肉なことに、カイザーは生まれた時から大きく、骨格もしっかりとした頑丈な赤子だった。成長も早く、五歳になる頃には身長で兄を追い越し、簡単な算術や読み書きも難なく習得してしまった。
「母上、見てください! 今日の書き取りのテスト、満点だったんです」
家庭教師に褒められた答案用紙を、カイザーは誇らしげに両親へ見せた。普段は兄につきっきりの両親も、今日ばかりは少しは自分を見て、喜んでくれるだろうと幼心に期待していたのだ。
しかし、母の口から出たのは氷のように冷たく大きな溜め息だった。
「はぁ。それが何だと言うの。アダムはベッドで苦しんで、勉強もままならないというのに……あなたは呑気に満点を取ったと自慢して。そんな冷たい子に育てた覚えはありません」
「え、そんなつもりじゃ……」
両手に大事に握られた花丸の答案用紙は、途端にただの薄っぺらい紙切れになった。
その夜、カイザーは父から「家庭教師に暇を出した」と一方的に告げられた。理由は、優秀すぎるカイザーの姿がアダムの劣等感を刺激し、情操教育に悪影響を及ぼすためだった。
アダムが十歳を超え、少しずつ外の世界に出られるようになると、自分が弟よりも劣っているという事実を痛感するようになり、そのやり場のない劣等感はすべてカイザーへの憎悪として向けられた。
家族の中で健康で優秀であること。それこそが、ダルトン家におけるカイザーの「最大の罪」だった。
そんな彼に寄り添い、こっそりと勉強を教えてくれたのは、家令のジョゼフとベテランメイドのアンだけだった。
「おぼっちゃま、帝都のアカデミーに通われてはいかがですか? この屋敷は、おぼっちゃまには狭すぎます」
使用人たちの涙ながらの提案を受け、カイザーは八歳にして実家を離れた。後ろ髪を引かれる思いはあったが、一人帝都へと旅立った。見送りには、誰も来てくれなかった。
*
アカデミーでの生活は、カイザーにとって非常に刺激的だった。
兄の顔色を窺う必要もなく、思うままに勉学に励み、友人と遊ぶことができる。十五歳になる頃には同年代より頭一つ分背が高くなり、端正な顔立ちと相まって令嬢たちから絶大な人気を集めた。
どうやら自分はモテるらしいと気づいたカイザーは青春を謳歌し、令嬢たちと適度に遊び歩いた。だが、心の内は常に冷めきっていた。相手を可愛らしいとは思えても、「好き」という感情がいまいち理解できないのだ。まるで恋愛という名のゲームをこなしているような感覚で、一人の令嬢と長続きすることは決してなかった。
そんな折、何年も音信不通だった両親から唐突に手紙が届いた。
――お前の婚約者を見繕ってやったから、明日にでも戻ってきて見合いをしなさい。
兄のアダムは十八歳になっても婚約していないのに、なぜ自分に?
「父上、兄上の婚約が先では?」
「アダムは次期当主だ! 見合う娘を厳選するのに時間がかかって当然だろう!……それに、アダムには健康上の不安があってな。家門の将来を考え、お前の婚約を先にとアダム自身が頼み込んでくれたのだ」
「本当に、あなたとアダムが逆だったらどんなに良かったか……」
都合のいい茶番劇だとはわかっていた。それでも、両親が初めて「自分を優先してくれた」のは事実だった。長年見捨てられていたカイザーの胸の奥に、微かな温かさが生まれてしまっていた。
見合い相手のジュリアム・ネウロ子爵令嬢は、赤毛の巻き髪とそばかすが特徴的な平凡な少女だった。特別美しいわけではないが、カイザーを見て嬉しそうに笑う顔は悪くないと思えた。
不誠実な行いはしないと決めた。
それまでの女遊びは一切やめ、言い寄る令嬢たちも全て断った。ジュリアムとは清らかな関係のまま、ゆっくりと穏やかに絆を育んでいこうと考えていた。それに、不思議とジュリアムには一切の下心が生まれなかった。
しかし、カイザーがアカデミー卒業後の進路を「軍事学校」に決めたあたりから二人の間の雲行きが怪しくなった。家督を継げず個人資産もない自分は、己の腕一つで身を立てるしかない。それに、歴史の授業で知った帝国の英雄、ガリオン・カーズの武勇伝への強い憧れもあった。
「どうして何の相談もなく軍人になるのよ! 私との将来をちゃんと考えているの!?」
遠距離になることや、危険な任務に就くことを激しく責め立てられ、ジュリアムとは喧嘩別れのような形で軍事学校へ入学することになった。
――こんなことなら、アダムさんと婚約すれば良かった。
別れ際に彼女が吐き捨てた言葉を、カイザーは単なる売り言葉に買い言葉だとタカを括っていた。
軍事学校での生活は、地獄のような忙しさだった。雑用と過酷な訓練に揉まれ、要領の良かったカイザーですら何度も弱音を吐きそうになった。それでも彼を突き動かしていたのは、「自分ならやれる」という自尊心と、辞めても自分には帰る場所がないという冷酷な事実だった。
地獄の訓練にようやく慣れてきた頃、再び実家から手紙が届いた。
――ジュリアムが、アダムの子を妊娠した。
資金力のない名ばかり貴族だったジュリアムは、領地を持つ伯爵夫人の座を何よりも渇望していた。カイザーに家督を奪う気がないと知るや否や、彼女は頻繁にダルトン家へ通い詰め、アダムを誘惑し、あっという間に骨抜きにしてしまったらしい。
数年ぶりに実家へ帰り、婚約破棄の手続きを終えた後、どうやって軍事学校の寮へ戻ってきたのか、カイザーはよく覚えていない。記憶に残っているのは、ジュリアムのお腹を見て幸せそうに笑う両親の顔と、生まれて初めて弟に勝てたことを誇らしげに喜ぶ兄の顔だけだった。
――お前との子である可能性はないだろうな?
――ありません。
そう答えた自分の乾いた声だけが、虚しく耳の奥に残っていた。だって自分は、婚約者であった彼女と口付けはおろか、抱きしめることすらしていなかったのだから。
それ以来、カイザーの心は完全に澱んでしまった。
大切にしようと誓った婚約者の裏切り。そして何より、少しでも自分を愛してくれるのではと期待してしまった家族の底知れぬ残酷さ。胸に渦巻く絶望と怒りは、訓練で自らの身体を痛めつけている間だけ忘れることができた。
カイザーは無心で訓練に励み、鬼気迫る勢いで軍事学校を首席で卒業すると、エリートの集う中央本部陸軍へと配属された。その後も圧倒的な軍功を積み重ね、瞬く間に一代限りの男爵位を下賜されるまでに出世を果たした。
時間が薬となり、家族への未練も元婚約者への情も、いつの間にか綺麗に断ち切られていた。
ただ、ジュリアムの件以来、彼は女性に対して強い嫌悪感と不信感を抱くようになり、特定の恋人を作ることは決してなかった。処世術として上辺だけは紳士的に振舞ってはいたが、その内心は非常に冷めたものだった。
決して深い仲になることはなく、一夜限りの関係を持つことはあっても同じ女に二度深入りすることは絶対にしなかった。
赤毛の女、そばかすの女は言わずもがなだった。




