14.黒薔薇からの定期報告書
息が白く凍るようになった冬のリューゲンの丘。
中肉中背の六十代ごろの男が静かに立っていた。仕立ての良いコートに身を包み、帝国の英雄夫妻に花を手向けていたのは、東部支部司令官のエリック・ヴァルツァー少佐だった。立ち姿だけでは東部の軍を統べる男だとはわからないほど、休日に墓参りに来た老紳士のような雰囲気だ。
「あなたの遺言どおり、定期報告に参りました」
ヴァルツァーの右手には薔薇の封蝋がされた黒い封筒が握られていた。
「まったく、あなたのおかげで私はいつまで経っても引退できない。中央もいよいよ動きが大きくなってきたし、お隣のサイスもきな臭い。私は一体いつになったら穏やかな余生が過ごせるようになるのやら」
愚痴を聞かせたい相手はもう空の上。おそらく今頃は最愛の妻と仲良くディオスの街を天から眺めているだろう。
ヴァルツァーは苦笑しながら手元の黒封筒から報告書を取り出し、英雄の唯一の心残りだった忘れ形見の様子を読み上げた。
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空がまだ暗い初冬の早朝、エリシアナは日課の早朝訓練のため砦の訓練場に足を踏み入れていた。この時間は使用人たちは訓練場の使用を許可されていないため、エリシアナ一人が訓練場を占領できる。
エリシアナはひたすら走り込んだ。最近頭の中に鎮座する男の存在を無理矢理にでも追い出すように、いつもより速いペースで走った。冷たい空気が肺を刺激し、口の中が血の味がしても、汗が滴りシャツが体に張り付いても止まらなかった。
少しでも止まってしまうと、あの男の顔や手の感触や背中の熱がぶり返してしまう。あの男が白薔薇砦に来てから彼を考えない日はなかったが、バルコニーで泣きじゃくったあの日以降はより酷くなった。
命を狙われる領主代理としてこんな腑抜けた状態は真面目なエリシアナには許せなかった。それに、いつまでこの砦にいるかわからない男の存在に左右されるのも。
なのに、ふとした時に頼りたくなってしまうし、あの広い背中に抱きつきたくなってしまうのだ。
左こめかみの白薔薇のヘアピンが熱を持ったように主張していた。
ようやく足を止め、流れる汗をタオルで拭いながら息を整えていると、ふと視線を感じた。
「っ、っ、な、なんでいるの!」
「いや、なんか目が覚めて。暇だから体でも動かそうかと」
訓練場の入り口に頭を悩ませ続ける元凶が呆けた顔で立っていた。
「ここは朝七時からって言われてるでしょ、戻りなさい」
「エルも使ってるだろ」
「私はいいのよ、領主代理だから!」
戻れと言ったのに、カイザーは臆することなくズカズカとエリシアナに近づいてきた。
「戻れって聞こえなかった?」
「聞こえなかった」
本当にこの男は。エリシアナが何を言っても躱されたり言い負かされたりして、なかなか勝てない。
カイザーはエリシアナの目の前までやってくると、何とも言えない表情でじっと見つめ続ける。
「な、何よ」
「いや、その格好が、なんか……」
「?」
エリシアナが体を動かす時は、ゆったりとした立ち襟の白シャツに革のコルセットベルトを締め、下半身のラインがはっきりわかるパンツスタイルが定番だった。
いつもの肌を見せない喪服姿からはわからないスタイルの良さが際立ち、汗で張り付いた後れ毛やピンク色に上気した頬が色っぽく、カイザーの紫紺の瞳の奥に熱が孕んでいるのが見えた。
「いつも体を鍛えてるのか?」
カイザーはエリシアナのサイドの後れ毛が汗で頬に張り付いているのを手で戻してやりながら聞いた。その手が火傷しそうなぐらい熱い。
「い、命を狙われてるのだから、少しでも鍛えておいた方がいいって、旦那様が」
「もしかして銃の扱いもガリオンに教わったのか?」
「え、えぇ。護身目的で小銃と短剣と、あと武術も少し」
「ふぅん」
「何よ、何か問題ある?」
「いや、ガリオンの意図はわかる。けど、護身目的でも、エルには戦ってほしくない。それは俺の仕事だから」
カイザーの顔が切なげに歪む。
本当にやめてほしい。そんな顔で、声で、掻き乱さないでほしい。未だ触れたままの頬の手が熱くて、心臓がうるさい。
「っ、わ、私は射撃の練習するからっ」
エリシアナはこの空気から逃げ出すことにした。カイザーから背を向け、射撃場へ足を動かしていると、カイザーも後ろから付いてきた。
「なんで付いてくるのよ!」
「俺も射撃の練習しようと思って。そうだ、俺がコーチしてやろうか?」
「いいわよ、別に」
「俺の射撃は中央でも指折りだったんだぞ。教え方も上手いって後輩たちに評判だったし」
「……」
*
エリシアナは後悔していた。
カイザーの言葉に乗せられ、渋々射撃を教えてもらうことに同意した。ガリオンの存命中は彼に練習を見てもらっていたが、今は一人で自主練習するしかなく、正直に言えば誰かに練習を見てもらいたいと思っていたところだった。
そして今、小銃を構えるエリシアナの後ろにカイザーがピッタリとくっつき、腕や肩の高さを調整するためにしっかり触れられていた。
「もっと肩の力抜いて、重心下げろ」
エリシアナのシャツ越しにカイザーの逞しい筋肉質な体が触れる。カイザーは体に張り付く黒のインナーの半袖姿で、筋肉の隆起がはっきりと表れていた。自分とは全く違う体の厚みや腕の太さ、頭の上から聞こえる低い声に頭が茹だるように熱く、心臓が飛び出すのではないかというぐらい激しく鼓動していた。
「そのまま目線上げて、ーー撃て」
静かな訓練場に破裂音が響いた。数十メートル先の的のほぼ中心部に弾痕が入った。
「ん、筋がいいな。さすが帝国の英雄が教えただけあって基礎はできてる」
悔しいことに、射撃の腕と教え方はカイザーの自己申告どおり上手かった。エリシアナの精神的疲労はそろそろ限界だったので、あとはもう一人で練習すると言おうとした。
「じゃ、俺は背中でも鍛えるか」
「?」
なんでわざわざ鍛える部位を申告するのだろう?
「誰かさんが俺の背中が好きだって言うから」
「〜〜、好きだなんて言ってな……あ、」
カイザーはイタズラが成功したようなニヤケ顔でエリシアナの顔を覗き込んでいた。
バラ祭りの翌朝、エリシアナは二日酔いの頭痛と羞恥でベッドで蹲ってなかなか起き上がれなかった。自分は酔った勢いで一体なんてことをあの男に言ってしまったのか。それに対してあの男はどう反応した?
酔い潰れておんぶされたことだけでも恥ずかしいのに、意図せず本音を曝け出してしまったことが死ぬほど恥ずかしかった。
羞恥に悶えるエリシアナが取った行動は、酔っていた間の記憶喪失を装うことだった。カイザーも何も聞いてこなかったし、あの夜のことを言及してこなかったので上手くやり過ごせたと思っていたのに、どうやらエリシアナの心の内はエリート軍人様には全部お見通しだったらしい。
しかも、墓穴を掘ってあの夜の記憶がしっかりあることを自ら晒してしまった。
顔を真っ赤にしてワナワナと体を震わせるエリシアナは俯いた。カイザーはなおもニヤケ顔が止められず、調子に乗って自分の両手で掬い上げるようにエリシアナの両頬を包んだ。
「好きじゃないのか?」
「〜〜〜っ、ばか! 嫌い!」
エリシアナは真っ赤な顔で瞳に涙を浮かべながら叫んだ。思わず出た言葉は語彙力の無い幼児のような幼稚な言葉だった。固まったカイザーを振り返ることなく一目散に訓練場から逃げ出したエリシアナだった。
一人残されたカイザーはその場で思わず顔を両手で覆って蹲った。
いじめ過ぎて羞恥に涙を浮かべ、日頃のエリシアナからは想像もつかないほど幼稚な言葉を叫ぶ姿が、カイザーには急所攻撃のように効いた。
「何あれ、めちゃくちゃ可愛い」
静かな訓練場にカイザーの絞り出すような声が微かに響いた。
その日から三日間、カイザーはエリシアナに徹底的に無視され、十日間の訓練場の立ち入り禁止が言い渡された。
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ヴァルツァーは思わず眉間をもみほぐした。
一体自分は何を読まされているのか。年若い男女の甘酸っぱい恋模様を老人が墓前で朗読するこの状況に頭痛がしてきた。
ダルトン中尉は何をやっているのだ。これでは好きな子にちょっかいを出して嫌がられる悪ガキのようじゃないか。中央での華麗なる女性遍歴は何だったのかと思ってしまうほど青臭いことをしている。
エリシアナの護衛の人選は当初ひどく難航した。
死期を悟ったガリオン・カーズがこの先一人残してしまうエリシアナを案じて厳しい条件を設定したのもあるし、その上“あの方“も選考に関わったと聞いている。
能力・人柄・家族との関係をクリアした上で、ガリオンが更に付け加えた条件――。
それが「エリシアナに一切の下心を向けないこと」だった。
詳しい理由は聞かなかったが、これまでの生い立ちでそういう苦労があったのだろうことは想像していた。
だからこそ、経験豊富ではあるが元婚約者の裏切り以降は、女性を内心嫌悪し深い関係を拒絶していたカイザーに白羽の矢が立ったのだ。
この条件はあえてカイザーには伝えなかった。
――なのに、下心どころかすっかり骨抜きにされているではないか。
「まぁ、当のカーズ現夫人も同じ気持ちのようだし、これはこれでいいのか」
ヴァルツァーは大きな溜息をつきながら、報告書を懐にしまって丘を下った。
これから毎回あの胸焼けするような恋愛小説じみた報告書を読まなければならないのかと思うと気が遠くなった。
ヴァルツァーの穏やかな余生は、まだ当分先のようだ。




