80 怨むのは遺されたものばかり
「喧嘩をしたといっていたね」
紫蓮の言葉は静かでさりげなく、無理に聴きだそうとするようなものではなかった。なぐさめるだけ。悼むだけ。暗がりに差す月の、ひと筋のやさしさに似ている。だからだろうか。結びかけた口の端をほどき、戒韋は再びに喋りだした。
「大家は皇族で、科挙試験を状元で及第されたということもあって、日頃から重荷を背負わされていた」
状元は最終試験で第一等の成績をおさめたものだけに与えられる称号だ。そうとうに優秀だったことがわかる。
「だが、それがご負担だったのか。大家はこのところ、思いなやんでおられた。昨晩ついに「すべてを捨てて遠くにいきたい」「身分も何もないところに私を連れていってくれないか」とまで仰られて。俺は――」
「彼をなだめたんだね」
「そうです。男たるもの、そんなことでどうなさるのですかと」
毒心のない言葉ひとつ。
だが、櫛ひとつをたいせつに抱き締めてきたこころはどれほどまでに傷ついたことだろうか。紫蓮は想像するだけでも、胸が締めつけられた。
綜芳は、彼にだけは男であることを強いられたくなかったはずだ。
だって、綜芳は――紫蓮は唇をかむ。
「男は、強くあらねば。ましてや大家は柴家の御長男なのですから。ただでも大家は丁年(二十歳)を過ぎても妻も娶られず、縁談から逃げ続け、母上様はたいそうお嘆きでした」
「……ああ、そうだろうね」
それができないものもいるのだ。男の身を持って、産まれても。
「ですが、ああ、まさか、こんなことになるなんて。あの時「おともします」といっていれば、大家は命を絶たれなかったのではないかとおもうと」
屈強な武人である戒韋の眼に涙が浮かぶ。
「悔やんでも悔やみきれない」
他でもないみずからが綜芳を死にむかわせたと戒韋は想いこんでいる。
紫蓮は睫をふせた。
戒韋は綜芳のことを愛していた。
それは、綜芳が彼にむけていたものとは違うかたちをした愛だろう。だが、想いあっていたことに違いはないのだ。
真実を知らずに終わっていいのか。
屍は語るものだ。なぜ、死んだのか。いかに死んだのか。
それは死を、終わらせるためだ。愛するものが、終わらぬ死を抱え続けることのないように。
綜芳は戒韋に語りたかったはずだ。
「柴 綜芳は」
紫蓮が意をけっして唇をほどいた。
「自害ではなかったよ」
戒韋が眼を剥き、低く呻る。
「なん、だって」
「彼は縊死にみせかけて、殺されたんだ」
戒韋はよろめきながら、後ろにさがった。息を荒げ、真実を理解しようとするかのように絶句する。腹に落ちたとたんに噴きあがってきた瞋恚をこらえきれなかったのか、紫蓮につかみかかり、叫喚した。
「誰だ! 大家は誰に殺されたんだ!」
紫蓮は眉根を寄せて、彼の腕を振りはらった。
「さあね、それはわからないよ。きみのほうが、想像がつくんじゃないかな」
戒韋は強張った頬をひくつかせて、頭を振る。怒りからか、戒韋は微かに身を震わせながら、低くつぶやいた。
「……皇太妃、か」
戒韋はそれきり、なにひとつ、喋らなくなった。
その眼に燃えさかる昏い火を覗きみて、紫蓮は微かにため息をつく。
死者は怨まない。怨むのはいつだって、遺されたものだけだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
このあたりで綜芳がどういうひとだったのか、想像がつく御方は多いのではないかとおもいます。ひれがこのたびのテーマのひとつでもあるので、丁寧に書かせていただきたいとおもっております。なにとぞよろしくお願いいたします。