第九章 等差数列の罠と、食べかけの点心
帳簿方の部屋にて。
蘇然は大前脚を広げて大きな机に腰掛け、悪意に満ちた(?)視線を目の前の同世代の青年に向けた。
なんだって?俺を試す(テストする)だと?
蘇然は心の中でほくそ笑んでいた。古代人を見下すわけではないが、二千年近く進化した現代数学の知識は伊達ではない。
(これで負けたら、豆腐に頭ぶつけて死んでやるぜ!)と意気揚々だ。
「よし、出題してみろよ!」
陳登は蘇然の態度を見て、少々胸の悪さを感じていた。この男、いくらなんでも礼儀を知らなさすぎる。ふん、少し痛い目を見せてやらねば!
数歩歩き回り、壁に掛けられた掛け軸を眺めた陳登の口元に、意地の悪い笑みが浮かんだ。
「では蘇先生、お聞きくだされ。我が陳家が有名な書画を買い入れようとしております。市場価格を調べたところ、山水の掛け軸は一軸につき二貫銭、書帖(書道)の掛け軸は一軸につき三貫銭でございます。折悪しく、ただいま家中の資金が十分に回らず、出せるお金はわずか五百貫銭……」
「五百貫もあって『資金が回らない』かよ……」
蘇然がボヤくと、陳登の冷たい視線が飛んできた。蘇然は気まずそうに手を振って「続けて、続けて」と先を促した。
「……私の父は書帖を好み、私は山水を好みます。しかし私は子であり、父と争うわけにはまいりません。ゆえに父が得る品数は、私の得る品数の『倍(加倍)』といたします。……問いましょう。私が得る山水の掛け軸は何幅、父が得る書帖は何幅、そして家中で費やしたお金はいくらか?」
(おや……?)
蘇然の目が輝いた。驚いたように陳登を見つめ、心の中で呟く。
(おいおい、いきなり小学生の算数から中学生の連立方程式レベルに跳ね上がったぞ? こいつ、なかなかやるじゃないか……)
蘇然のその「上から目線」な視線に、陳登はますます腹が立ってきた。ゴホンと咳払いをして尋ねる。
「先生、お答えは出ましたかな?」
陳登の顔に浮かぶドヤ顔を見た蘇然は、なんだかバカにされたような気がしてカチンときた。少し思案し、ニヤニヤしながら口を開く。
「お前の親父が得る書帖は『百二十四幅』、お前が得る山水は『六十二幅』。で、余ったおつりは『四貫銭』だ」
蘇然はチラリと陳登を見て、ヘラッと笑った。
「その余った四貫銭は、俺へのご褒美としてくれてもいいぞ?」
「…………」
陳登の表情が止まった。あまりにも見事な一瞬の解答に言葉を失い、そのまま無言で文机へと歩み寄ると、筆を執って紙の上で必死に計算(筆算)を始めた。
(へっ! ざまあみろ!)
蘇然は面白がりながら、片手を横の点心(お菓子)の皿へ伸ばした。……が、スカッと空振った。
「あれ……? なあ、そこのお兄さん? これの代わり(おかわり)はないのか?」
「そこのお兄さん」だと!?
陳登は額に青筋を立てつつ、部屋の外に向かって大声で呼んだ。
「誰かある!」
すぐにバタバタと慌ただしい足音が響き、下男が駆け込んできた。
「蘇……蘇先生に、点心をもう一皿持っておいで」
陳登は紙から目を離さずに命じた。
「二皿! 二皿頼む!」
蘇然はすささっと指を二本立てて手振りでアピールする。
陳登は呆れたように蘇然を一瞥した。
「……二皿だ。早く行ってまいれ」
「ははっ!」
下男は慌てて飛び出していった。
下男が真新しい点心を二皿運び込み、お茶を注ぎ足してくれた後も、陳登はまだ腕を組んで紙とにらめっこをしていた。自ら出した問題の解法にドハマりし、ド沼に陥っていたのだ。
しかし、さすがは知力80オーバーの秀才である。時間はかかったものの、最後には自力で計算を弾き出した。その結果は——蘇然が言った数字と、寸分違わず一致していた。
勝負の決着は、言うまでもなかった。
陳登は複雑極まりない眼差しで蘇然を見つめた。胸の奥に悔しさが込み上げてくる。
「……次は、先生から出題してくだされ」
蘇然は陳登の様子を見て、(こいつ、どうやら陳府の中でも相当な立場っぽいな。あんまり打ち負かして機嫌を損ねたら、飯の種がなくなっちゃうかも……)と考えた。
少し躊躇いつつ、手を振って言った。
「そうだなあ……じゃあ手加減してやるよ。俺は今日お菓子を二十個食べた。明日も二十個食べる。明後日も二十個食べる。……じゃあ、今月(三十日)で俺は合計何個のお菓子を食べるでしょう?」
「……私を愚弄なさるな! 誠意をもって臨んでいただきたい!」
手加減されたと悟った陳登は、かえってプライドを傷つけられて不機嫌になった。
(親切で手加減してやったのに、虐められたいのかよ!?)
蘇然は目を丸くし、腹を括った。
「よし分かった! なら、本気で行くぞ。耳の穴かっぽじってよく聞け!」
陳登の目が輝き、姿勢を正した。
「昔々、ある男が道を歩いていると、偶然一文銭を拾った。二日目には二文、三日目には三文……と、毎日一文ずつ増えて拾っていったとする。……問いましょう! 一年(三百六十五日)で、この男が拾った銭は合計で何文になるでしょう?」
(そんな都合のいい道があったら俺が行きてえよ!)と心の中でツッコミを入れつつ、蘇然はお茶を啜った。目の前で冷や汗をダラダラ流し始めた陳登を放置しながら。
「一日目に一文、二日目に二文、三日目に三文……っ!? こ、これは……!?」
陳登は筆を握りしめたまま白紙を凝視していたが、どこから手を付けていいのかサッパリ分からない。どうやって計算すればいいのだ!?
(フン、虐められたいって言うから痛い目見せてやったぜ!)
一皿目の点心を平らげた蘇然は、残りの一皿を見て、ふと家にいる秀のことを思い出した。
(あいつ、昼飯食べてないんだよな……)
胸が痛み、陳登に声をかけた。
「じっくり計算しててくれ。俺はちょっと外に出てくるから」
「あ……先生、行ってらっしゃいませ……」
陳登はもう蘇然を引き止める余裕すら無かった。この問題には何か特別な法則(数式)が潜んでいるはずだ……しかしそれが何なのか、頭が破裂しそうになりながら考え込んでいた。
蘇然はニヤリと笑うと、お菓子の皿を大事そうに抱えて部屋を後にした。
「それじゃ、がんばって計算してくれなー!」
◆
蘇然が急いで自宅へ戻ると、秀は部屋の縁側で裁縫をしていた。
数日前に秀が「旦那様に新しいお着物を作って差し上げますわ」と言っていたのを思い出す。
蘇然は足音を殺して、そーっと近づいたのだが——。
「夫君、陳府でお仕事中ではございませんか? なぜこのような時間に?」
秀は振り向きもせず、針を動かしながら尋ねた。
「えっ……!?」
あっさり見破られて撃沈した蘇然は、お菓子の皿をテーブルに置き、ガッカリしながら言った。
「ちょっと時間ができたから、顔を見に戻ってきたんだよ……」
「まあ、そんなことをしてはいけませんわ」
秀は可愛らしく眉をひそめ、作業の手を止めて蘇然を振り返った。
「大丈夫だって!」
蘇然は気にする風もなく言った。
「今日やるべき仕事はもう終わったし、一人で部屋にいても暇だったんだ。それなら君に会いに帰ってきた方がマシだろ? ……あ、いや、そんな怒った顔しないでくれよ、すぐ戻るからさ……」
「当然ですわ!」
秀はフンと頷いたが、すぐにテーブルの皿に気づいた。
「あら……これは?」
「君にお土産だよ」
蘇然は微笑んだ。
「まだお昼食べてないだろ? 早く食べなよ、お腹空かせたら体に悪いからさ」
「秀は本当に不思議ですわ。夫君がどこからいらしたのか……」
秀は可憐にクスッと笑うと、首をかしげた。
「お昼ご飯……ふふっ。ところでこれ、どこでお手に入れになったのです?」
蘇然は秀の言いたいことを察し、慌てて弁明した。
「これは屋敷の帳簿方にあったやつだよ! 俺がお腹空いたって言ったら、一緒に暗算勝負をしてた男が下男に頼んで用意させてくれたんだ。君のことを思い出してさ、隙を見て持って逃げてきたんだよ」
自分のことを想って届けてくれたのだと知り、秀の頬が一瞬でぽっと緋色に染まった。胸の奥から温かい幸福感がこみ上げてくる。
「さあ、早く食べなよ! 蒸したてでまだ温かいんだから」
蘇然の待ちきれないような視線を受け、秀はそっと手を拭くと、右手の指先で小さなお菓子をひとつ摘まんだ。そして蘇然をチラリと見ると、左手で口元を優しく隠しながら、上品に小さくかじりついた。
(ちぇっ……見えないじゃん!)
蘇然は左右に首を振ってみたが、秀の手で隠されて口元が全く見えない。思わず首を長く伸ばして覗き込もうとした。
「……夫君がそのような目で見つめるのでしたら、秀はもう食べませんわ」
「うぐっ……! た、食べる食べる! 邪魔しないからさ……」
蘇然はガッカリして肩を落とし、小さく呟いた。
「見つめたっていいじゃないか、ケチ……」
「ふふっ……」
秀は耐えきれずに吹き出した。蘇然のボヤキがしっかり聞こえていたのだ。
「あ、そうだ!」
蘇然は急に思い出したように手を打った。
「秀、最近お米の値段って上がってたりする?」
「え……?」
秀は眉をひそめ、食べかけのお菓子を小皿に戻すと、静かに言った。
「秀にはよく分かりかねます……我が家には孫先生が残してくださった備蓄米がございますので、買い出しには行っておりませんの。……夫君、何か良くないことでも起きているのですか?」
「……もしかしたら、戦争(戦)が始まるかもしれない」
「戦……!?」
秀は恐ろしいことでも聞いたかのように顔を蒼白にし、蘇然の袖をギュッと強く掴みしめた。
「そんな……どうすれば……っ」
「大丈夫、怖がるなよ!」
蘇然は腰掛けを寄せて秀を抱き寄せ、優しく背中を撫でた。
「安心して。俺たちは今、徐州城の中にいるんだ。城の中にいれば安全だからさ……ね?」
秀は蘇然の温もりに包まれ、少しずつ身体の力を抜いていった。
「……夫君がそばにいてくだされば、秀は何も怖くありませんわ」
(……?)
秀は、自分を抱きしめている蘇然が急に黙り込んだのを不思議に思い、顔を上げた。
すると蘇然は、ぽかんとした顔で「何か」を食い入るように見つめているではないか。
秀が視線を追うと——そこにあったのは、先ほど自分が一口かじった、小さな歯形が残るお菓子だった。
「〜〜〜〜っ!?」
顔が火が出るほど真っ赤になった秀は、慌てて立ち上がるとそのお菓子を隠すように手に取り、唇を尖らせて睨みつけた。
「夫君のスケベ……!」
小悪魔ならぬ、可憐な許嫁のお怒りである。
「あ、あはは! そうだ、俺やり残した仕事があったんだ! じゃあ行ってくるねーっ!?」
赤面して怒る秀の迫力に恐れをなした蘇然は、逃げるように屋敷を飛び出していった。
走りながら、蘇然は悔しそうに首を横に振るのだった。
(あー……勿体ないことをした……!)
彼の頭の中は今、あの半分の点心と——そこに残された、小さく愛くるしい歯形のことでいっぱいだった。




