第八章 名門の深謀と、暗算勝負
お茶を飲み、本(帳簿)を読み、疲れたら少し歩き回る。……いやあ、なんていい生活なんだ!
蘇然は深緑色の茶碗を手に帳簿方の部屋の前に立ち、陳府の中を行き交う下男や下女たちをぼんやりと眺めていた。口をすぼめて、ふぁぁと大きなおあくびをひとつ。部屋を出てゆっくりと散歩を始める。
(さすがは三国時代、徐州でも有数の大富豪だな。なんてバカでかい屋敷なんだ……。俺もいつかこんなマイホームを持てるようになるのかなあ)
空を見上げて時間を測る。うん、そろそろお昼ご飯の時間だな。
(……ところで陳府って昼飯は出るのかな? あ、そうだ。古代人は昼食を食べないんだった!)
前日に秀へ「昼ご飯は何食べるの?」と聞いて、「何をおっしゃっているのですか?」と目を丸くして不思議そうな顔をされたのを思い出した。
ぐうぅぅ……。
(頼むよ胃袋……)
自分の情けないお腹に苦笑しつつ、蘇然は思い出した。そうだ、部屋の中に確かお菓子(点心)が置いてあったはずだ!
いそいそと部屋へ戻ると、案の定お菓子が用意されていた。ただし、一番奥にある大きな机の上に置いてある。
(それにしても不公平だよな。同じ帳簿方の部屋なのに、机の大きさがバラバラなんだから。一回り大きい机が一つに、小さい机が二つ。……それに、宣揚兄さんは『あと二人帳簿方がいる』って言ってたけど、俺が来てから人っ子一人現れないのはどういうことだ?)
まあいい、今は腹ごしらえが最優先だ!
蘇然は茶碗を置くと、一番大きい机の前の立派な椅子(※当時としては珍しい座具)にドカッと腰掛け、皿に盛られたお菓子を指でつまんで口に放り込んだ。
(ほう、結構うまいじゃないか!)
一口食べると余計にお腹が空いてきて、蘇然は夢中でバクバクとお菓子を貪り食うのだった。
◆
「糜家め……最近は増長が過ぎるぞ!」
陳府の奥まった奥室にて、陳家の家長・陳珪は激しく机を叩いた。怒りのあまり、白髪交じりの立派な髭がプルプルと震えている。
「父上、どうぞお怒りをお鎮めください……」
陳珪の前に立っていた細身の青年が、老父をそっと畳(座具)へと支え、静かに宥めた。
「たかが帳簿方が二人、糜家に引き抜かれただけのことにございます。欲しければくれてやればよろしい。不才ながら、この元龍が父上の憂いを払いましょう」
この青年こそ、徐州随一の英才と名高い陳登、字は元龍である。
「お前がか?」
陳珪は疑わしそうな目で息子を見た。
「元龍よ、お前が学ぶべきは国を治める『帝王の学』だ。そのような帳簿の付け方ごとき小道(くだらない雑務)に拘泥する必要はない。そういえば宣揚から聞いたが、新しく入った『江 守義(こう しゅぎ※蘇 守義)』なる男はかなりの人物らしい。雑務はすべてその者に任せればよい」
「蘇 守義……ですか」
陳登はその名を呟き、どこか奇妙な表情を浮かべた。
「私も宣揚兄から噂を聞いております。なんでも、その蘇守義なる人物は暗算の術に長け、一瞬にして莫大な計算を弾き出し、寸分の狂いもないとか……」
「フン、所詮は小道(技術)に過ぎん!」
陳珪は眉をひそめ、息子を重々しい眼差しで見つめた。
「元龍よ、ワシが日頃から言い聞かせていることを覚えているか?」
「もちろんでございます」
陳登は恭しく頭を下げた。
「現在、我が陳家は各地で米穀(食糧)を大量に買い集めております。……ただ、曹家もまた同じように動き始めている気配がございますが……」
「曹家だと?」
陳珪は冷たく鼻で笑い、長い髭を撫で下ろした。
「曹家のあの老いぼれ(曹嵩)は病で床に伏せっており、もう長くない。その息子(曹徳など)と来たら……フン! 救いがたい愚か者(暗愚)よ!」
「問題は、やはりあの糜家でございますな……」
陳珪は少し沈吟し、深く溜息をついた。
「ワシも糜竺あの小童を甘く見ていたわ。弱冠にして糜家の家督を継いだゆえ、後継ぎもおらんような弱小一族と高くくっていたが……まさかこれほどの手腕を持っていたとはな。参ったわ……」
「父上が見誤られるのも無理はありません」
陳登はハハッと笑った。
「子仲(糜竺の字)兄が類稀なる大才であることは、私も昔から知っております。弟の糜芳でさえ、なかなかの人物ですからな」
「糜芳だと?」
陳珪は一蹴した。
「兄の足元にも及ばんわ!」
陳登は父の怒りが収まったのを見て、ホッと胸を撫で下ろした。父は昔から身体が強くない。余計な興奮で怒らせるわけにはいかないのだ。
「時に父上、現在天下を騒がせている『大賢良師』について、どのようにお考えで?」
「大賢良師……?」
陳珪は茶碗を取り、一口啜って淡々と言った。
「元龍よ、お前が言っているのはあの『張角』のことか?」
「はい」
「大乱の兆し……災いがすぐそこまで迫っておるな」
陳珪は首を横に振り、軽蔑するように言い放った。
「だが、あの張角とやらも身の程知らずの増長が過ぎる。まだ漢王朝は倒れておらんのだぞ! 泥の分際で何を企んでおるのだ?」
「父上のお考えでは……?」
「いくら朝廷の綱紀が廃れ、十常侍(宦官)どもがのさばっておるとはいえ、たかが貧民(泥脚子)どもが暴動を起こしたところで、朝廷の正規軍が本気を出せば鎮圧など容易いことだ」
「……ならば父上、なぜ私にこれほどの食糧を買い集めさせたのですか?」
陳登には理解できなかった。朝廷がすぐに鎮圧するなら、なぜ食糧を買い占める必要があるのか?
「これだからお前は!」
陳珪は息子の視野の狭さに失望したように首を振った。
「もっと遠くを見据えよ! あの張角が挙兵し、もし成功すれば……いや、仮に失敗に終わったとしても、『それこそが本当の乱世の始まり』なのだ!」
「……!」
陳登の脳裏に電撃が走った。ようやく父の真意を理解したのだ。
「フン! 袁家や夏侯家もまた、その時をじっと待っておるのだ。袁遺のあの一見ぼんやりした老狐め、腹の中ではすべてお見通しよ。皇帝の命はもう長くない。次の皇帝が即位した瞬間に擁立すれば、一気に『擁立の功臣』として袁家の権勢は膨れ上がる……!」
「……では、我が陳家は焦る必要はないのですな?」
「焦る? 何を焦ることがある!」
陳珪は高らかに笑った。
「今の朝廷に、まともに動かせる兵が残っていると思うか? ああ……大漢王朝もここまで落ちぶれるとは、嘆かわしいことだ……。だがな、どれほど天下が荒れようとも、この徐州の一畝三分地(縄張り)を支配するのは、我ら世家(名門名士)だ! ……惜しむらくは、あの糜竺の小童が分別もなく、事あるごとに我が陳家と対立することだがな」
陳珪は陳登を鋭い眼光で見つめ、重々しく言った。
「我が陳家の歴史を、ワシらの代で断ち切るわけにはいかん! 万事に慎重を期せ……良いな!」
「ははっ! 承知いたしました、父上!」
◆
部屋を出た陳登は、ふうと溜息をついた。自分の見識はまだまだ父の足元にも及ばない。父にとっては自明の理であっても、自分には見えていないことが多すぎる。学問の道はどこまでも遠い……。
「ん……?」
帳簿方の部屋の前を通りかかった陳登は、妙な光景を目にして足を止めた。
一人の青年が部屋の前の日向にどっかりと腰掛け、片手にお菓子、片手に茶碗を抱えて、幸せそうにモグモグと食べているのではないか。
陳登の顔から一気に笑みが消えた。礼儀作法もへったくれもなく、人様の屋敷の廊下で食い散らかしている男の無礼さに、むっと胸くそが悪くなったのだ。
「貴様、何者だ?」
陳登は眉をひそめ、冷ややかな声で問い詰めた。
「うおっ!?」
日向ぼっこをしながらお菓子を楽しんでいた蘇然は、突然の上からの喝声に飛び上がらんばかりに驚いた。振り返ると、自分と同世代くらいの気品ある青年が、冷たい目で見下ろしている。
「あ、えーっと……江哲……じゃなくて! 蘇然、字は守義です!」
「お前が……蘇守義か?」
名前を聞いた瞬間、陳登の瞳の奥の怒りがすっと引いていった。
何しろこの男、自分が陳家の若旦那(公子)だと分かっても露ほども怯える様子がなく、世間の者が浮かべるような卑屈な笑みすら浮かべていない。陳登は一瞬で、目の前の男をただ者ではないと評価し直した。
「噂では……お前は『暗算の術』に長けているそうだな?」
陳登は蘇然を品定めするように見つめながら、淡々と言い放った。胸の奥で、直感が囁いている。——この男、本当に底知れぬ英才かもしれない、と。
「まあね、小意思(朝飯前)ですよ……あ、いや! 大したことありません、大したことありませんって!」
「ほう……フフッ」
陳登は心の中で思わず笑ってしまった。なんだか非常に面白い男だ。
「そこまで言うのなら、私がお前を試してやろう」
「へ……?」
蘇然は目を丸くした。出勤一日目から、いきなり抜き打ちテスト(抜き打ち監査)かよ!?
(よしよし、いいだろう! 試せるものなら試してみろ! お前ら古代人なんて、現代の『九九の足し算掛け算』を一発ぶちかませば全員イチコロなんだからな!)
(質問するお前もラク、答える俺もカンタン! ウィンウィンだな!)
「で、何を出題するつもりなんだい?」
蘇然は首をかしげ、余裕の表情で問い返した。
「暗算が得意だと言うのなら……私とお前で、『暗算勝負』をしようではないか」
「へっ!」
蘇然の口元が、思わず楽しそうに吊り上がったのだった。




