第七章 初出勤と、謎の帳簿
「冗談じゃないっての……!」
蘇然は不満をぶつぶつと呟きながら、秀が差し出してきた手水の桶を受け取った。
「ふふっ」
目の下にうっすらクマを作り、不機嫌そうに顔を洗う蘇然を見て、秀は口元を押さえて笑った。
「孫先生から『辰の刻(午前七時〜九時)』とお聞きした時、快く『承知した』とお答えになったのは蘇然様ではありませんか」
「そんなの知るかよ……」
辰の刻がそんな早朝だなんて知る由もない。まだ六時を過ぎたあたりじゃないか? 太陽すら顔を出していないというのに、本当についていない。
「はいはい、お着替えをお手伝いしますわね」
秀は歩み寄ると、蘇然の衣類の乱れを優しく整え、鈴を転がすような声で言った。
「孫先生が置いていってくださった粟で、温かいお粥を煮ましたの。召し上がってからお出かけくださいな」
粟のお粥、か……。
蘇然は渡された茶碗を見つめ、現代で食べていた数々の美味珍味を思い出して心の中で溜息をついた。ダメだ、考えると余計にお腹が空いて惨しくなる。
厨房から戻ってきた秀の手に乗っていたのは、小さな小皿に盛られた咸菜(塩漬けの漬物)だった。秀が美味しそうにハフハフとお粥を啜るのを見て、蘇然も口をすぼめ、漬物をかじりながらお粥を流し込んだ。
「じゃあ……行ってくるよ」
玄関の前に立ち、蘇然は秀を見つめた。
「はい……」
「…………」
蘇然はしばらく秀を見つめていたが、照れくさそうに頭を掻くと一度外へ出た。しかし、門のところでクルリと引き返してきた。
「あら? 蘇然様、何か忘れ物ですか?」
「あー……」
蘇然は少し躊躇いながら言った。
「君、何か言うことないの?」
「……?」
秀は可憐な瞳で蘇然を見つめ、首をかしげて考え込んだが、やがて首を横に振った。
「何もありませんけれど……あ、お仕事……頑張ってくださいね!」
(それだけかよ!?)
蘇然は眉をひそめた。この時代で初めて会社(職場)に出勤するのだから、もう少しこう、励ましの言葉とかがあってもいいじゃないか。一応、俺の彼女……いや、許嫁なんだから!
このまま大人しく出勤するのは、どうにも納得がいかない。
蘇然は意を決して数歩踏み込むと、秀の細い肩を引き寄せ、その美しい紅唇に自分の唇を重ねた。
「んむっ……!? あ……ん……」
としばらくの間。
息を荒らし、腕の中で力なく身を委ねて震える秀を見て、蘇然はニヤリと不敵に笑った。
「よし、これで良し! 励ましをくれないなら、自分からいただくまでさ」
真っ赤になって照れた目で蘇然を睨みつけると、秀は消え入りそうな声で呟いた。
「もう……意地悪……。早くお行きになって。遅刻したら大変ですわ……」
「あ、そうだった! 初出勤で遅刻はまずいな」
ハッと我に返った蘇然は、大股で屋敷を飛び出していった。
「道中、お気をつけくださいね!」
「分かってるってー!」
蘇然の背中が遠ざかっていくのを見送り、秀は微笑みながら首を振った。指先でそっと自分の唇に触れると、頬の紅潮がさらに色濃く染まっていく。
「困った人……」
◆
「陳府」!
徐州城の通行人に道を尋ね、蘇然はようやくその巨大な屋敷の前にたどり着いた。
看板に躍る大きな二文字を見上げ、蘇然の胸にうっすらと不安が込み上げてくる。社会人経験はあるものの、古代の屋敷で働く経験なんてあるわけがない。一体どう振る舞えばいいのだ?
門前に立つ、体格の良い二人の僕(下男)の姿を見て、蘇然はおずおずと足を踏み出せずにいた。どうやって入ればいいんだ?
「守義!」
「ん?」
自分の字で呼ばれていることに気づくまでテンポが遅れたが、振り返ると、そこには笑顔の孫茂が立っていた。
「宣揚兄さん……」
「弟よ、なぜ門の前で突っ立っておるのだ?」
孫茂は不思議そうに首をひねった。約束の時間が近づいても蘇然が現れないため、出迎えてみれば、門の外で呆然と立ち尽くしていたのだ。
「下男たちには言い含めておいたから、名を名乗れば通してくれたものを」
孫茂は蘇然の腕を引いて屋敷の中へと招き入れた。
「そうそう守義、あらかじめ言っておくがな……お主の能力が高いことは重々承知しておる。だが、お主はまだ陳府に入ったばかりだ。いきなり重要な業務を任せるわけには……」
「はは、分かってるよ」
蘇然は苦笑した。心の中では(むしろ何もさせずに、毎月給料だけ振り込んでくれるのが一番ありがたいんだけどな!)と叫んでいた。
「それで、俺の担当業務は何なんだ?」
蘇然があっさりと納得したため、孫茂はホッとしたように表情を緩めた。
「主にもお主の件は報告済みでな、大変期待されておられる。まずは陳家が所有する各店舗の帳簿を点検し、月ごとに集計し直す作業から始めてもらう」
(なんだ、試用期間ってやつか。成果を出せば昇進させてくれるのかな?)
古代にもこんなシステムがあることに、蘇然は少し驚いた。
「実は先月、陳家の大帳簿方(会計責任者)が辞めてしまってな。現在はお主を含めて三人の帳簿方がおるが、私としてはお主を最も買っておる。大帳簿方の座はお主に転がり込む可能性が高いぞ」
「大帳簿方? 月給(月俸)はいくらなんだ?」
「……え?」
孫茂の顔が固まった。大帳簿方といえば財全般を握る権力職であり、役職手当や役得がいくらでも入るおいしいポジションだ。過剰になりすぎなければお上もお咎めなし……という役職なのに、開口一番「月給はいくらだ」と聞いてくるとは。
「月給は……八貫(八千文)だ……」
孫茂は引きつった笑みで答えた。
「八千文か……悪くないな。じゃあ宣揚兄さん、部屋へ案内してくれ」
「う、ウム……」
孫茂は蘇然をまじまじと見つめた。この小老弟、どこかタダ者ではない雰囲気を漂わせている……。
「ここが帳簿方の部屋だ」
孫茂が指さした部屋へ足を踏み入れる。
室内は思いのほか高級感があった。壁には掛け軸(書画)が飾られ、三つの机が並べられている。机の上には筆・墨・紙・硯が完璧に揃えられており、深緑色の高級な茶碗まで用意されていた。
(福利厚生はバッチリだな)
蘇然は引きつった笑みを浮かべつつ、一番長く使われていなさそうな机を選んで腰掛けた。
上に置かれていた帳簿をパラパラとめくってみる。……が、一目見た瞬間、頭が痛くなった。
「……九月三日、海塩を若干買い入れ、費やした銭百五十貫……若干……」
蘇然は呆れて首を振った。
「……九月六日、曹家に蜀錦を若干売り、得た銭二百貫余り……利益三十貫余り……」
(これが帳簿かよ……!?)
買い入れも売り払いもすべて「若干」や「余り」で済ませている。具体的にどれだけの量を動かしたのか、サッパリ分からない。プロ意識がかけらもないじゃないか!
呆れ果てた蘇然は、別の帳簿を手にとった。
「ん……?」
蘇然の目が留まった。
「九月二日、南門の穀物屋にて市価四貫で米百石を買い入れ、四百貫を費やす……九月二十日、南門の穀物屋にて市価四貫二百文で米百五十石を買い入れ、六百三十貫を費やす……」
(米の価格が上がり始めている……)
蘇然は静かに溜息をついた。乱世の足音が、確実に近づいているのだ。
しかし、陳家はどうしてこれほど大量の食糧(穀物)を買い込んでいるのだろう? 帳簿のどこを見ても、食糧を売り出した記録がない。つまり陳家は、莫大な量の米をひたすら倉庫に溜め込んでいるということだ。
まさか……。
待てよ? 「徐州城」の「陳家」……!?
(まさかここって……陳珪と陳登のあの陳家か!?)
ゲーム知識が脳裏を駆け巡る。陳登といえば知力80オーバーのキレ者であり、父親の陳珪に至っては知力90に迫る妖怪級の策士だ。彼らは乱世の到来を予見し、極秘裏に食糧を蓄えているのではないか?
歴史小説の知識が蘇る。乱世において、最も強いのは金持ちでもなければ、兵力を持つ者でもない。——「食糧」を持つ者こそが勝者なのだ!
どれほど兵がいようと、食糧がなければ一瞬で崩壊する。逆に食糧さえ抱えていれば、乱世の中でいくらでも兵を集めることができる。
徐州……徐州か。
黄巾の乱が勃発しても、徐州への被害はそれほど大きくなかったはずだ。北海が包囲される程度で済んだはず。なら、いま徐州を納めている州牧は「陶謙」か。
(良かった……城外に住むより、徐州城の中にいた方が遥かに安全だ)
安堵した蘇然は部屋の中を二、三歩行ったり来たりしたが、再び怪しげな視線を帳簿へと向けた。
(陳家がこれほど食糧を溜め込んでいるのは、ただのマネーゲーム(暴利)のためか? それとも……何か別の企みがあるのか?)
(まあいいや、他人の企みなんて俺には関係ない! 今日から俺は、晴れて古代のホワイトカラー(白領階級)だ!)
「よっしゃ……やったるぞ!」
蘇然は腕をまくり、古代での社会人生活へ一歩を踏み出すのだった。




