第六章 徐州城と、小さな新居
(ここが……徐州城か……!?)
馬車の小窓から顔を覗かせた蘇然は、遠方に見えるその巨体に目を奪われた。
素朴でどこか古雅な佇まい。天を突くように悠然と聳え立つ圧倒的なスケール感。その雄姿を目にした瞬間、蘇然は激しい感動に胸を打たれ、言葉を失ってしまった。
これぞ、古代中国・三国志の時代に実在した本物の城郭都市……!
まさか自分のこの目で拝むことができるなんて、夢にも思っていなかった。
当時の徐州は、東海・琅邪・彭城・広陵・下邳の二郡三国、六十二もの県を管轄し、現在の黒竜江省や安徽省にまたがる広大な地域を統括する一大拠点である。
「夫君……?」
秀は隣で全身をブルブルと震わせている蘇然を不思議そうに見つめ、小さな手をそっと彼の額に当てた。
「風邪でも召されましたか……?」
「そんなわけないだろ!」
蘇然は思わず苦笑した。秀にこの興奮が理解できるはずもない。ここはあの歴史に名高い「徐州城」なのだ。後世の杭州や北京のように、古都の面影を残しつつも近代化した街並みとは訳が違う。
高層ビルもなければ、耳を聾する車のクラクションもない。視界の限り見渡せば、どこまでも続く武骨な城壁と巨大な城門。その純度百パーセントの古代の空気が、蘇然の魂を激しく揺さぶっていた。
レトロ風だの再現だの、世間のテーマパークはすべてまやかしだ。この本物の威容と歴史の重みは、決して現代技術などで模倣できるものではない。
馬車はゆっくりと徐州城の南門へと近づいていく。
威風堂々……重厚かつ雄壮……。
それが、蘇然が徐州城門に対して抱いた素直な印象だった。
門の高さだけでも見上げるほどのビル二階分はあるだろうか。幅に至っては、車が五、六台……いや、馬車が五、六台同時にすれ違えるほどに広い。
城門の下には、重厚な甲冑を身に纏い、長矛を握りしめた甲士(兵士)たちが二列で居並んでいた。彼らの眼光から放たれる鋭い殺気に、蘇然は思わず目を逸らした。
ふと見上げると、粛々とした城門の壁面に大きく二文字が刻まれている。
——『徐州』。
旧字体(繁体字)に詳しいわけではないが、この場所に掲げられた文字が何を意味しているかなど、頭をひねるまでもない。
馬車が城門の手前で一度静止した。
孫茂が兵士と二、三言ほど会話を交わすと、手荷物検査を受けることもなく、あっさりと馬車は門を潜り抜けた。
門の脇で長い列を作り、一人ずつ検問を受けている一般の民衆たちを眺めながら、馬車の中の蘇然は複雑な感慨に浸っていた。
(……これが特権階級ってやつか)
あの壮大な城壁と城門には心底から感嘆させられたが、いざ城内に入り、木造の家々が整然と立ち並ぶ光景を目にすると、蘇然の興奮も次第に落ち着きを見せ始めた。現代の超高層ビル群を見慣れた彼にとって、さすがに素朴な木造建築にまでいちいち感動することはない。
ただ、道の広さには目を見張るものがあった。現代のように、狭い路地に各家庭がみ出し、車一台通るのも一苦労……といった乱雑さは微塵もない。
蘇然が興味深そうに通りを観察していると、いわゆる「商店街」の店舗群はどこも敷地外に売り物を陳列していなかった。
(まさか……この時代にも違法露店を取り締まる『城管』みたいな巡回役人がいるのか?)
そんな下らない想像をして、密かに一人でくすりと笑った。
馬車は辻を曲がり、別の通りへと入っていく。
(仕事をくれるってんだから、当然住む場所くらい用意してくれるよな?)
間もなく馬車は目的地に到着した。南門からそれほど離れていない場所のようだ。
蘇然は先に馬車を降りると、目の前に広がる小ぢんまりとした中庭と、標準的な民家風の建物を見上げた。
それから手を差し伸べ、秀が降りるのを優しくサポートする。
(ほうほう、なかなか広いじゃないか……)
庭だけでも三十坪(約百平米)近くはある。建物自体は少々年季が入っているものの、かつて住んでいた「天井に穴が開いて空が見える」土壁の家屋に比べれば、天と地ほどの差があった。なにしろ、ここはちゃんとした木造建築なのだ。以前の「茅葺き小屋」とは訳が違い、うっかり火の粉が飛んでも一瞬で全焼することもないだろう。
「守義弟、こちらの邸宅は我が主から弟への『進物』でございます」
孫茂はにこやかに口を開いた。蘇然は口数が少ないものの、根は素直で付き合いやすい男だと分かっていた。孫茂の親しみやすい態度も手伝って、二人の関係は二度しか会っていないとは思えないほど打ち解けたものになっていた。
「守義弟、気に入っていただけましたかな?」
孫茂は嬉しそうに屋敷の立地を説明し始めた。
「ここを出てすぐのところが市集(市場)でしてね。あちらが先ほどお入りになった南門。そしてこの方向へ少し歩けば陳府——つまり明日から弟が通う職場にございます。ははは、今後何か困ったことがあれば、何でもこの老兄(私)に頼ってくだされ! 四人の執事の一人として、できる限りの力になりますぞ」
「宣揚兄さん、何から何まで本当にありがとう……」
蘇然は微笑んで拱手の礼を執った。
「なあに、お気になさるな!」
孫茂は手を振ると、御者に馬車を回すよう指示を出した。
「私めもまだ役目が残っておりますので、これで失礼いたします。弟と奥様で、まずはゆっくりとお部屋をお片付けくだされ。あ、掃除の手配は事前に済ませてありますのでご安心を。そうそう守義、明日の『辰の刻(午前八時頃)』をどうかお忘れなきよう!」
「了解、了解!」
「ふふふ……」
孫茂は満足そうに微笑むと、秀に一礼して馬車へ乗り込んだ。彼は道中、ずっと御者席の隣に座って付き添ってくれていたのだ。一人の帳簿方に対する待遇としては、破格の礼遇と言えた。
「へえ……就職したら家までついてくるなんて、至れり尽くせりだな」
蘇然は首を横に振りながら、中庭へと踏み込んだ。
秀は愛おしそうに彼を見つめ、クスリと笑うと、静かに蘇然の後をついて行った。
この旦那様は本当に不思議な人だ。自分をとても大切にしてくれるし優しいけれど、話す言葉が時々とても可笑しい。「大賢良師(張角)」や「現在の帝(皇帝)」の話題になると、平気で呼び捨てにしてしまうのだから……後で誰もいない時に、「人前では絶対にそんな口を利いてはダメですよ」と優しく諭してあげなければ。
「うわぁ、見てごらんよ秀ちゃん!」
蘇然はいくつかの部屋を巡り、秀を振り向いて指をさした。
「3LDKの標準仕様だよ! 日当たり良好!」
相変わらず何を言っているのか分からず、秀は呆れたようにパチパチと瞬きをした。抱えていた荷物を奥の部屋へ置き、すぐに戻ってくると、ぽつんと空いた中庭の敷地を見つめた。
「立派なお庭……なんだかもったいないですわね……」
「まさか君……うちで飼ってた鶏や鴨を連れてくれば良かった、なんて思ってる?」
蘇然は思わず笑ってしまった。ここへ来る途中で話し合い、村で飼っていた家畜はすべて村人たちに「売って」きたのだ。売ると言っても実質的には譲ったようなもので、卵一個で四文もする時代に、鶏一羽をたった十文程度で手放してきたのだから。
門柱に寄りかかり、淋しそうに空地を見つめる秀の姿を見て、蘇然の胸がちくっと痛んだ。
彼はそっと歩み寄ると、秀の小さな体を後ろから優しく抱きしめた。
「……秀ちゃん、どうしたの?」
「私……生まれ育った家を離れるのは、これで二度目なのです……」
秀の絞り出すような切ない声を聞き、蘇然は「一度目は何があったのか」を尋ねる忍びなさを感じた。ただ黙って、彼女の肩を強く抱きしめることしかできなかった。
「蘇然様……夫君……。どうか私を捨てないでくださいね……?」
「天と地にかけて誓うよ。絶対に君を裏切らない」
(……絶対に、離さないからな)
蘇然は秀の温もりを感じながら、しっかりと頷いたのだった。




