第五章 誓いの夜空と、小さな決意
「え? 迎えに、ですか?」
蘇然は少し驚いて孫茂を見つめた。隣の秀も戸惑いの色を隠せない。
「陳家のお屋敷は、ここからだいぶ離れているのですか? それじゃあ俺、今後は……」
蘇然は自分の足元を指さした。
「守義先生。我が陳家は徐州城内にございます。帳簿方ともなれば、さすがにこの村から通勤していただくわけにはまいりません……日々往復するのは時間がかかりすぎますし……それに、当主もそれを許さないでしょう」
それはそうだ。月給五貫(五千文)も払う帳簿方が毎日通勤ラッシュで遅刻するような真似は、雇い主として容認できるはずがない。秀の話では徐州城まで歩いて三日。馬に乗ったところでかなりの時間がかかる距離だ。ここに住み続けた場合……出勤した瞬間に折り返して帰宅しなければ間に合わない。
「…………」
秀はチラリと蘇然を見つめ、それから羨望の眼差しを向けてくる村人たちを見回すと、キュッと唇を噛みしめて深く眉をひそめた。
「秀ちゃん……」
「……はい?」
秀は小さく返事をし、顔を上げて蘇然を見つめた。
「君はどう思う? 行きたいか?」
「私の意見、ですか……?」
秀はぽかんとした。蘇然を見る瞳に、どこか不思議そうな色が混ざる。
「そうだよ。行くか行かないか、君が決めていい」
自分の意見を求めてくれた……。
どういうわけか、秀の胸の奥にじんわりと温かい感動が広がった。女性の立場が著しく低いこの時代において、蘇然のこうした態度はあまりにも優しく、誇らしかった。彼女は一瞬で、自分の心に秘めていた決意を固めた。
「蘇然様、そのお話ですが……」
秀は「あなたが決めてください」と言いかけたが、思い直して周囲の村人たちを見やった。やはり、住み慣れた村やみんなと離れるのは少し寂しい。
「あと何日かだけ……ここにいさせていただけますか?」
秀はおずおずと孫茂に尋ねた。
その可憐な表情を見た瞬間、目ざとい孫茂はすべてを察し、柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろんでございますとも! 私が陳家へ戻るだけでも丸一日以上かかりますし、当主への報告もございます。改めてお迎えに上がるまで、早くとも三日はかかりましょう」
実のところ、陳家の四執事の一人である孫茂にとって、ただの帳簿方を一人雇う程度で当主に報告する必要などない。だが問題は、この「蘇 守義」という青年が弱冠(二十歳前後)にして底知れぬ大才を秘めている点だ。これほどの逸材を見つけたとなれば、当主に報告しないわけにはいかない。
——人材の確保こそが一族繁栄の礎である。英才を見つけたら即座に登用し、他家に先を越されるな。
これが、徐州陳家の固い家訓なのだから。
「では……よろしくお願いいたしますわ」
秀はついに深く頷いた。村人たちと離れるのは寂しいけれど、それ以上に大切なのは自分の旦那様(仮)の将来だ。彼について行くと心に決めた以上、どこへ行こうと寄り添って生きる覚悟はある。何より、彼はこれほど自分を尊重し、大切にしてくれているのだから。
「じゃあ宣揚さん、三日後によろしく頼むよ」
秀が頷いてくれたのを見て、蘇然はホッと胸を撫で下ろした。もし彼女が反対していたら、どれほど高給な仕事だろうとお断りするつもりだったのだ。たった数日過ごしただけだが、すでに蘇然にとって秀はかけがえのない存在になりつつあった。
(待てよ、俺って出会ってすぐ人を好きになっちゃうタイプなのか……!?)
自分自身の心境の変化に一瞬焦ったが、すぐに都合よく言い訳を考え直した。
(いやいや! 彼女が責任取れって言ったんだからな! 捨て置くわけにはいかないだろ……うん、そういうことにしておこう!)
「ははは、承知いたしました。守義先生、では私はこれにて失礼いたします」
孫茂は蘇然に手を合わせて拱手の礼を執り、秀にも丁寧に会釈をして去っていった。
「宣揚さん、道中気をつけて!」
蘇然が背中に声をかける。
「ご、五貫だと……!?」
大柱が夢でも見ているかのように呆然と呟いた。近寄ってくると、信じられないといった様子で蘇然の肩を叩いた。
「すごいな、弟分……月給五貫なんて、夢みたいな話だぞ……!」
周囲の村人たちも一斉に押し寄せてきて、口々に祝福の言葉を贈った。
「秀ちゃん、本当に村を出て行っちまうのかい……?」
「こら、余計なこと言うんじゃないよ!」
ある男が妻の言葉を遮り、目を怒らせて言った。
「秀ちゃんが甲斐性のあるいい男を見つけたんだ、喜んでやるのが筋だろうが! ……だけどよ、秀ちゃん」
男は秀に向き直り、目元を緩めた。
「落ち着いたら……たまには顔を見せに帰ってこいよな」
「そうだそうだ!」
「たまには戻っておいで!」
村人たちのあたたかい声が響く。
秀は小さな口を手で覆い、瞳をウルウルと濡らした。何か言葉を返そうとしたが胸がいっぱいで声にならず、ただ何度も何度も深々と村人たちへお辞儀を繰り返した。
「ほらほら、解散解散! いつまで集まってんだ! さあ家に帰りな!」
ほぼ親心でこの少女を見守ってきた村の男が、秀が泣き出しそうなのを見て、照れ隠しに周囲を怒鳴り散らして追い払った。
「……一緒に帰りましょうか」
秀は涙をぬぐい、顔を上げた。その瞳に宿る一筋の愛おしさに、蘇然の心臓はハッとするほど跳ね上がった。
片手で蘇然の腕をしっかりと抱きしめ、もう片方の手で小さな竹籠を下げる秀。
籠の中には、先ほど手に入れた二百七十文の銭と、二個の生卵。
そして温かい村人たちの視線に見守られながら、二人は小さな我が家へと歩き出した。
◆
「秀ちゃん……もしここが好きならさ、あの仕事はお断りしてくるよ? だからそんな暗い顔しないでくれよ……」
夜。門前の平らな石に腰掛け、じっと夜空の星を見つめている秀を見て、蘇然は心配そうに声をかけた。彼の目に映る秀は、もっと無邪気で活発な少女であるべきだったからだ。
「そんなこと、できませんわ……!」
秀は蘇然の優しさに触れ、胸がぽっと温かくなった。
「蘇然様。せっかく孫先生とお約束なさったのですもの、反故にするなんてダメですわ……蘇然様が行くとおっしゃるなら、私、どこへでもついていきます……」
赤くなった頬を隠すように俯く秀を見て、蘇然はクスッと笑った。秀は恥ずかしさと甘えで、ぷくっと口を尖らせる。
「実はね、俺だってあんな堅苦しい場所に行きたいわけじゃないんだ」
蘇然は頭を掻いた。
「でもさ……男として、やっぱりちゃんとした仕事に就いて、君を養いたいじゃないか」
秀は可憐な瞳で蘇然を見つめた。その瞳にはいっぱいの愛おしさと笑顔が溢れている。彼女は自分が座っている石の上を少しあけて、ポンポンと叩いた。
「蘇然様……こちらへ」
ドキンと蘇然の心臓が鳴った。隣の秀を見やると、彼女はすっと顔を上げて星空を仰いでおり、どんな表情をしているのか読み取れない。
(ええい、行ってやるさ! 何をビビってんだ俺は!)
蘇然は意を決して近づき、秀のすぐ隣にどすんと腰を下ろした。二人の腕と腕が、隙間なくぴったりと触れ合う。チラリと横顔を見ると、秀の耳の裏まで真っ赤に染まっていた。
「蘇然様……」
秀は小さく息を吐き、鈴を転がすような優しい声で囁いた。
「……私を、お嫁にしてくださいますか? 一生涯、私を大切にしてくださいますか?」
(えっ……そんなストレートに!?)
蘇然は一瞬固まった。この時代の女の子って、もっと慎ましいものじゃないのか!?
淡い月光に照らされた秀の横顔は、清らかでどこか儚げで……まるで月宮の仙女のように美しかった。蘇然は不覚にも見とれてしまった。
「…………」
いつまで経っても返事がないため、秀は不安そうに蘇然を振り返った。すると、蘇然が口を半開きにして自分をまじまじと見つめているではないか。
「……蘇然様っ!」
秀は可笑しくもあり恥ずかしくもあり、彼の腕をポカッと小突いた。
「うわっ!? あ、ごめん!」
「私、お聞きしたのですけれど……!」
「なんて言ったっけ!?」
「もう……! 蘇然様、私をお嫁にしてくださるのか、一生涯大切にしてくださいますか、とお聞きしたのですわ!」
「もちろんさ!」
蘇然は深く頷き、力強く答えた。
「君だって『責任を取れ』って言ったじゃないか」
(こんなに健気で可愛い子を幸せにできなかったら、神様からバチが当たるわ!)
「責任……ですか」
秀はその言葉を反芻し、意味を理解したものの、どこか少し寂しそうな表情を浮かべた。
「……責任、だけなのですか……?」
蘇然とて、恋する少女の乙女心くらい分かっている。彼は大いに勇気を振り絞ると、左腕を回して秀の細い肩をそっと抱き寄せた。
秀は身をビクッと震わせたが、すぐに抵抗をやめ、おとなしく蘇然の胸の中に体を預けてきた。柔らかな体温と髪の香りが蘇然を包み込む。
「蘇然様には……ご両親やご親族はいらっしゃるのですか?」
「家族か……」
蘇然は夜空を見上げて溜息をついた。
「昔はおふくろがいたんだけどな。今は……もう誰もいないんだ」
秀は彼の言葉にいくつかの矛盾(現代の存在)を感じ取ったが、この聡明な少女は決してそれを追及しなかった。ただ胸の奥にそっと仕舞い込んだ。いつか彼が自分から、「どこから来たのか」を話してくれる日を待とうと決めて。
「私にも……遠い親戚のおじ様がいらっしゃいますけれど、お父様の遺言で、連絡を取らないようにと言われておりますの……」
「そっか……じゃあ俺たち、似た者同士だな」
寂しげな秀の表情を見て、蘇然は自分のセンチメンタルな感情を吹き飛ばし、優しく笑いかけた。
「似た者同士……ふふ、本当に素敵なお言葉ですね」
秀は愛くるしく微笑んだ。
「蘇然様。今日からあなたは一人ではありませんわ。私も一人ではありません。あなたがどこへ行こうと、私、どこまでもついていきます……」
(古代の女性って、なんて健気で愛おしいんだろ……現代じゃこんな子、絶対にお目にかかれないぞ。あ、でも……秀ちゃんってちょっと幼いよな。見た目だけなら高校生……いや、中学生くらいに見えるぞ……?)
(まあでも……タイムスリップも悪くないかもしれないな)
蘇然は愛おしそうに秀を見つめ、彼女の白く小さな手を自分の掌で包み込んだ。
「『子の手を携えて、子と共に老いん』……だな」
「『手を取り合い、共に歳を重ねる』……」
秀の瞳がキラリと輝き、彼女はうっとりと蘇然を見つめた。
(……さて、残る懸念事項はただ一つ)
黄巾の乱。
蘇然は星空を見上げ、心の中で静かに、長いため息を吐いたのだった。




