第四章 暗算の天才と、初めての仕事
ほんの数日で、蘇然の怪我はすっかり完治してしまった。
診療に来た陳おじさんは、「わしの見立てが間違っていたというのか? なぜたった数日で治ってしまうんだ?」と目を丸くして首をひねるばかりだった。
秀は陳おじさんに何度も何度も深く感謝し、蘇然もマナーとしてお礼を言った。けれど、腹の中では陳おじさんの煎じ薬に猛烈な悪感を抱いていた。飲むたびに口いっぱいに苦みが広がり、吐き気がするほどまずいのだ。それでも心配そうに見つめてくる秀の視線を感じると、男の意地が爆発し、グッと一気に飲み干してから部屋の隅でひっそりと後味の苦しみに悶絶していたのだった。
同居……同居生活かぁ……。
ああ、なんて不純なんだ……!
毎回「俺が外で寝るよ」と申し出ていたとはいえ、出会って数日の少女と同じ屋根の下で暮らすなんて……邪悪すぎるだろ、俺。
ただ、秀が自分に対してどんどん打ち解けてくれているのは実感していた。薬……じゃなくて、ご飯を食べる時もいつも優しく接してくれる。
あ! そうだ! 家の食料、もう底をつきそうなんだ!
蘇然は極めて深刻な問題に思い至った。食料だ。あの謎の雑穀米がいくらマズかろうと、貴重な主食であることには変わりない。万一それすらなくなったら飢え死にだ。
秀の話によれば、いま食べている小さな米袋すら、村のちょっとした裕福な家から借金(借り米)してきたものらしい。裕福と言ってもこの村レベルの話で、最底辺の生活よりほんの少しマシな程度だ。参ったな、本当に参った……。
「アゼン様、何を考えていらっしゃるの?」
外から戻ってきた秀が手を洗いながら、門の脇に腰掛けている蘇然を覗き込んできた。
「お金を稼ぐ方法を考えてたんだよ」
「お仕事ですか? まあ……!」
秀の胸にじんわりと温かいものが広がった。怪我が治ったばかりなのに、もう家計を助けようと仕事を探しているなんて。その心意気がとても嬉しかった。……でも、彼に一体何ができるのだろう?
(参ったぞ……俺が大学で学んだのはIT・コンピューターだ。この時代、PCどころか電卓すら存在しないのにどうしろってんだよ!)
蘇然は頭を抱えた。社会人としての経験はあるものの、デスクに座ってキーボードを叩くだけの仕事だったのだ。いまの自分ときたら、野菜の種類すら見分けられずに秀に笑われる始末である。
神様、助けてくれ……。
(ガラスだ! そうだ、タイムスリップモノの定番といえばガラス製造じゃないか! えーっと……ガラスは砂から作るんだっけ? でも、どんな砂を使えばいいんだ? 息を吹き込んで成形するんだっけ? どうやって吹くの? 口で??)
あー、ダメだ! さっぱり分からない!
暗い顔で悶々としている蘇然を見て、秀は心の中でそっと溜息をついた。気持ちは嬉しいけれど、きっと自分に何ができるかも分からず悩んでいるのだろう。
「アゼン様、焦らなくても大丈夫ですよ……」
秀はかがみ込んで蘇然の顔を覗き込んだ。不意に顔を上げた蘇然のぽかんとした間抜けな表情を見て、恥ずかしさと同時に少し誇らしい気持ちになる。
「そうだわ。陳おじさんから聞いたのですけれど、村の外から卵を買いに来ている業者がいらっしゃるそうなの。アゼン様も一緒に見に行かれませんか?」
いつも部屋の中でうずくまって悩んでいる彼を、少し外に連れ出して気分転換させてあげたかったのだ。
「卵? 君の家にも卵があるの?」
「『君の家』……?」
家族扱いしてくれない蘇然の言い方に、秀はぷくっと頬を膨らませて不機嫌な顔をした。
「あ、いや……うちに鶏がいるのかと思って!」
彼女の表情を見て、仕事の悩みも吹き飛び、蘇然は慌てて謝った。
少し怒ったフリをしてジロリと蘇然を睨みつけると、秀はすねた声で言った。
「村で鶏を飼っていない家なんてありませんわ。アゼン様のお邪魔にならないよう、裏庭に囲いを作って飼っているのですけれど……鳴き声、聞こえませんでしたか?」
「いや、声は聞いてたんだけど……」
蘇然は気まずそうに頭を掻いた。現代で見たことがある鶏といえば、すでに調理されてお皿の上に並んでいる姿だけだったからだ。
彼の気まずそうな様子を見て、秀も合点がいったようだ。可笑しそうにクスリと笑うと、立ち上がって手を差し伸べた。
「付き合ってくださいますか?」
「もちろん!」
ずっとここに座っているのも退屈だった。パソコンがあれば最高なんだが……高望みだな。
◆
「へえ、結構人が集まってるんだな」
村の広場へ向かいながら、蘇然はあちこちを興味深そうに見回した。
「ええ、今年は収穫が芳しくありませんでしたから。でも、卵を売ればしばらくの生活費になりますもの」
「秀ちゃん! おや、そちらのお方は?」
そこへ、たくましい体格の男が竹籠を下げて歩いてきた。籠の中にはぎっしりと卵が入っている。
「大柱兄さん! 奥様はお留守ですか? この方は……その、私の……」
秀は蘇然をチラリと見やり、ぽっと頬を染めて言いよどんだ。
「ああ、なるほどね!」
大柱は合点がいったように頷き、蘇然を見る目が一気に親しみやすいものに変わった。見知らぬ怪しい男かと思っていたが、秀ちゃんの旦那さんだったのか。あとでウチの女房にも教えてやろう。
「ん?」
大柱は秀の籠の中を覗き込み、不思議そうに首をひねった。
「秀ちゃん、その卵……全部売っちまうのかい? 自分ちの分は残さねえのか? お前、大好物だったろう……」
「いいえ……自分の分はちゃんと残してありますわ……」
秀は唇を噛みしめながら低く答えた。
蘇然は秀の顔を見つめた。知っているぞ。家を出る時、彼女は籠の中の卵を一個残さず全部詰め込んでいたのだ。
(秀ちゃん、卵が好きだったのか……? どうして全部売るんだ……? あ、そうか! 俺の薬代で家計が火の車だからか! これから二人分の食費もかかるし……待てよ、それじゃ俺、ヒモじゃないか!? タダ飯食らいのヒモ男かよ!? ダメだ、そんなの絶対ダメだ……!)
「蘇然様、行きましょう!」
秀に背中を押され、二人の番がやってきた。
「卵ひとつで四文ね……」
買い付け担当の買い出し番頭は、秀の籠の中の卵を一瞥し、それから秀の顔をじろじろと下心が透けて見えるような目で見つめた。
それを見た蘇然は、なんだか胸の奥がムカムカとした。自分の大切な宝物を横取りされそうな不快感だ。
番頭の隣に座っている中年の文化人風の男(掌もと)が、珍しそうに蘇然の全身を観察している。
「ここには三十二個の卵がありますわ。自分で数えましたから……」
秀が声をかけたが、番頭は取り合わず、目の前で一つずつ数え直した。ぴったり三十二個。その横柄な態度に、蘇然の不機嫌メーターはさらに上がった。
「ひとつ四文だから……三十二個で……」
番頭は机の上に広げた木簡(粗末な紙)に、算木を使ってちまちまと計算を始めた。
「百二十八文だろ」
蘇然が淡々と言い放った。
番頭はガバッと顔を上げ、蘇然を見つめ、隣の中年文人を見た。
「あ……はい、百二十八文です……」
中年文人はパッと目を輝かせ、ニコニコしながら言った。
「ほう! こちらのお嬢さんの卵は、実に見事な色艶をしている。どうだろう、特別にひとつ『五文』で買い取らせていただこう」
(お嬢さんじゃねえよ、誰がだ!)
心の中で吐き捨てつつ、蘇然は即座に答えた。
「なら百六十文だな。どうも」
中年文人は驚いたように番頭から筆を奪い取り、計算してみせた。完璧に合っている。彼の蘇然を見る目が一気に熱を帯びた。
「では、もしひとつ『六文』なら……?」
「百九十二文だ。まいど」
「…………」
中年文人は呆然として蘇然を凝視した。その視線の強さに、秀が恐怖を感じて蘇然の腕にしがみついてきた。蘇然は秀の手をポンポンと優しく叩いて安心させると、ニヤリと笑った。
「計算、合ってるだろ?」
中年文人は筆を置き、蘇然に向かって深々と一礼した。
「私は孫茂、字は宣揚と申します。先生、お名前をお伺いしても?」
「蘇然、字は守義です」
礼を尽くされた以上、無視するわけにもいかず、蘇然も古代風の抱拳の礼を返した。
「蘇 守義先生……素晴らしいお名前だ」
孫茂は目を細め、タヌキのような笑みを浮かべた。
「実は先生、このお嬢さんのところが最後の買い付けでしてね。先ほどまでに村全体で八百四十二個の卵を四文で買い取りました。そしてお嬢さんの卵三十二個を九文で買い取るとした場合……私どもが村に支払う金額、お嬢さんに支払う金額、そして総額はいくらになりますかな?」
(ふん、小学生の文章題かよ!)
一瞬だけ脳内で暗算し、蘇然は事もなげに答えを弾き出した。
「村には三千三百六十八文。うち(秀)には二百八十八文。合計で三千六百五十六文だ。合ってるか?」
(合ってるかどうか私に聞かれても……!)
孫茂は目を丸くし、大慌てで紙に筆を走らせて計算を始めた。たっぷりお線香一本分の時間が過ぎた頃、彼は筆を投げ出し、蘇然を見て感嘆の溜息をついた。
「素晴らしい……! 天才的な計算能力だ。私の敗北です……」
秀は小さな口を手で覆い、信じられないといった目で蘇然を見つめた。自分のこの不思議な旦那様(仮)に、こんな凄まじい特技があったなんて!
九文……蘇然様の言う通りなら二百八十八文!? 天あくま……そんな高値で売れたことなんて一度もないわ……!
(こんなに高く売れるって知っていたら、二個残しておけば良かったわ……一個は蘇然様に、もう一個は私に……ふふ。残念……)
周囲の村人たちも、開いた口が塞がらない様子で蘇然を見ていた。あまり見かけないヒョロヒョロしたもやしっ子だと思っていた男が、まさかこんな凄腕のインテリだったとは!
「本当に……ひとつ九文で買い取ってくださるのですか?」
秀がおずおずと尋ねた。
「私は二言はありません。奥様、ご安心召されよ」
孫茂はにっこりと微笑んだ。
「でしたら……」
秀は意を決して言った。
「卵を二個手元に戻して、三十個だけ売ることにしてもよろしいでしょうか……?」
「え……?」
孫茂は目の前の妙な少女を見て首を傾げた。他の農家の女なら、家中の卵をかき集めて持ってくるところなのに、せっかくの高値でわざわざ二個引き取るというのか?
「となると……先生、もう一度計算し直していただくことになりますが」
孫茂は蘇然を見つめた。まだ試すような色を隠し切れていない。
「計算するまでもないだろ。二百七十文だ」
「…………」
孫茂はぐうの音も出なくなのだった。観念して番頭を呼び寄せると、ボソボソと指示を出した。
番頭は馬車の後ろの箱から二百七十文を取り出し、秀に手渡した。秀は数えようとしたが、失礼にあたると思い直し、お礼を言ってそのまま受け取った。
孫茂は頷き、少し躊躇してから蘇然を見つめた。
「先生、差し支えなければ……どちらかのお屋敷にお仕えで?」
(ん? 俺に仕事のスカウトか?)
蘇然が答える前に、秀がひょいと間に割り込んできた。
「うちの夫(夫君)は、先日山から足を滑らせて怪我をしまして……今日やっと治ったばかりなのです」
夫……!?
蘇然は呆然として秀の横顔を見つめた。秀は顔を真っ赤に染めている。
(夫君、か……)
孫茂は秀の顔をまじまじと見た。よく見れば、ただの村娘とは思えない気品と美しさがある。そしてこの蘇然という男……とんでもない英才だ。
「……なるほど! でしたら先生、ひとつ不躾なお願いがございます」
孫茂は深々と頭を下げた。
「当家にて、先生を『帳簿方(会計・番頭)』としてお迎えしたいのですが……いかがでしょう?」
「当家……?」
蘇然は首を傾げた。
「当家って……どちら様ですか?」
「ゴーッ!!」
孫茂はズッコケそうになった。「当家(わが家)」という謙称(へりくだった言い方)だと通じなかったらしい! まさか「当」さんという苗字だと思ったのか!?
「我が主人は『陳』と申します。私は陳家の執事でございます……」
「最初からそう言ってよ……」
蘇然は恥ずかしそうに呟いた。
脈ありと見た孫茂は畳みかけた。
「通常の帳簿方の月給(月俸)は三貫(三千文)ですが……我が陳家は『月給五貫』でお迎えいたしたい!」
周囲の村人たちから「うわあぁっ!」とどよめきが起こった。五貫!? 買い付けに来たお金持ちが、あの秀ちゃんの男に月五千文も払うって言ったのか!?
大柱などは開いた口が塞がらなかった。さっきまで「秀ちゃんも頼りない男とくっついちゃって……」と哀れんでいた自分を叩き直したい気分だった。
「五貫……」
蘇然はかがみ込んで秀に囁いた。
「秀ちゃん、五貫って何文?」
「……」
秀は可憐に微笑み、声をひそめて答えた。
「五千文ですよ……」
「卵一個で四文だろ? つまり……卵一千二百五十個分か?」
蘇然が呟いた。
孫茂は再びズッコケそうになった。卵千二百五十個換算かい! しかし、一瞬でこの計算をこなした頭脳に、ますます惚れ込んでしまった。
「先生! ぜひ、我が家に来ていただけませんか!?」
孫茂は焦っていた。これほどの計算の天才、もし曹家や糜家のような大豪族に奪われたら大変な損失だ。
「もし月給にご不満でしたら、主人に掛け合ってさらにお包みいたします!」
「宣揚さん、落ち着いてくれよ。俺のことは守義でいいからさ」
蘇然は苦笑した。
孫茂はほっと胸を撫で下ろした。「守義」と字で呼ばせてくれたということは、承諾してくれたということだ。
「ありがとうございます、守義先生! では私は一度屋敷へ戻り、二、三日中に改めてお迎えにあがります!」




