第三章 『字』と、乱世の足音
蘇然は秀に支えられ、呆然としたまま部屋へと戻った。さっき彼女が口にした言葉が、彼の頭の中で雷のように響き渡っていた。
東漢(後漢)……ここは東漢末期なんだ!
乱世。紛れもない地獄の乱世だ!
まずは黄巾の乱が起きて、その後に董卓の暴政、群雄割拠の時代がやってきて、そこから三国志の泥沼の戦乱へ突入していく……。
ゲームの記憶をたどると、黄巾の乱が起きるのは確か西暦184年頃。で、晋が天下統一するのは……何年だっけ? まあいい、とにかく半世紀以上も戦乱が続くことだけは確かだ。つまり……
(いくら運が良くたって……俺、三国志の終わり頃までしか生き残れないじゃないか……!)
「蘇然さん? お身体でもお悪いのですか……?」
秀は心配そうに蘇然を見つめた。さっき自分の言い方がきつかったのだろうか。でも彼のためを思って言ったのだ。大賢良師様のお名前を呼び捨てるなんて滅相もないこと。けれど、彼が口にした「ここは東漢」とはどういう意味なのだろう。漢の時代なのは確かだが、なぜ頭に「東」をつけるのだろう。今はただの「漢」なのに……。
「ううん、なんでもない……」
蘇然はすっかり意気消沈していた。現代に残してきたおふくろや、親友の顔が目に浮かび、胸が締め付けられるように痛む。
「……さっき秀ちゃんが言っていた件だけどさ。文字なら、一応書けるよ」
(まあ、この時代の文字(篆書や隷書)とは違うだろうけど……)
「本当ですか!?」
秀は目を輝かせ、その瞳にパッと喜色の光を宿した。
「じゃあ……私、村の帳簿つけをしている陳おじさんのところへ行って、筆と墨をお借りしてきますわ! 蘇然さんに書いていただけますか?」
「あ……うん、いいよ」
蘇然は気まずそうに苦笑した。
「東漢末期かぁ……」
嬉しそうに部屋を飛び出していく秀を見送りながら、蘇然はドアの向こうの空を見上げて溜息をついた。
「大賢良師……張角。綿密に計画された全国規模の農民反乱、か……。どうか俺を巻き込まないでくれよ……いや、俺たちを、か」
「徐州ってことは……現代でいう山東省から江蘇省のあたりか」
「まあ、今年が『中平元年』じゃなくて良かったよ……」
三国志のゲームで慣らした蘇然は、黄巾の乱が爆発するのが「中平元年」であることを知っていた。つまり今はまだ起きていない。まだ少しだけ猶予があるはずだ。
——しかし、彼が知る由もなかった。
「光和六年」の翌年こそが、まさにその「中平元年」であるということを。
◆
門に貼られた『甲子』の二文字を、嬉しそうに眺めている秀。その姿を見つめながら、蘇然の胸には妙な痛みが広がっていた。
彼女はまだ知らないのだ。これが、惨絶な乱世の幕開けを告げる符牒だということを。
乱世……こんな苛烈な時代に、秀のような無垢な少女がどうやって生き残っていけるというのだろう。
出会ってまだ間もないけれど、命を救ってくれたこの少女に蘇然は深い愛着と好感を抱いていた。もし彼女が戦乱の渦に巻き込まれて命を落とすようなことがあれば……そんなの、あまりにも惨すぎる。
「蘇然さん……」
「え? ああ、何?」
呼びかけられて蘇然は我に返った。
秀は少し恥ずかしそうに蘇然を見つめていた。この人……どうしてそんな目で見つめてくるのかしら。でも、彼の瞳の奥にある色を見ていると、胸がキュッと締め付けられる……何か抱え込んでいるのかしら。
「蘇然さんは士大夫(貴族・読書人)のお方ですよね。でしたら『字』をお持ちのはずでしょう? 村の長老たちが言っていましたわ。字を持つようなお方のお名前を呼び捨てるのは、とても失礼なことだって……」
「字……?」
「はい……」
秀は唇を噛みしめた。
「俺、字はないんだよ」
「まあ……」
それを聞いて、秀の瞳からすっと光が消えた。
「でも、せっかくだから今作ろうかな。ねえ、君が考えてくれない?」
「ええっ!?」
秀の瞳に、再び生き生きとした輝きが戻った。
「で、ですが……私、文字も読めませんのに……そんなのお手伝いなんて……」
「ははっ」
蘇然は可笑しそうに笑い、それから不思議そうに尋ねた。
「ところで、なんで急に字があるかどうか聞いたの?」
「あっ……」
秀は両手で服の裾をぎゅっと握りしめ、唇を噛んだ。
「あの日……あの時のことを、覚えていらっしゃらないのですか?」
「あの日?」
蘇然は首をかしげた。
「どの日さ?」
「あなたって人は……!」
秀は悲しそうに蘇然を見つめた。
「一昨日のことですわ……私……私が向こうの山裾の湧き水で髪や体を洗っていた時、あなたが……っ」
彼女は遠くの一点を指さし、その顔をみるみる真っ赤に染めていった。
蘇然は眉をひそめて記憶を必死に手繰り寄せた。そういえば気を失う直前、朦朧とする意識の中で少女が水浴びをしている光景が見えたような……コホン。
(まさか……)
蘇然の顔が引きつっていくのを見て、秀の顔は爆発しそうなほど赤くなった。だが、自分の貞操がこの人に失われた(と誤解している)以上、覚悟を決めるしかない。蘇然がゆっくりと口を開くのを、秀はドッキドキと鼓動を早めながら待った。
「……俺、君に殴られて気絶させられたのか!?」
「っ……わ、私、筆と墨をお返ししてきますわ!!」
秀は顔から火が出るほど恥ずかしくなり、逃げるように走り去ってしまった。
「あはは……」
逃げていく秀の背中を可笑しそうに見送りながら、蘇然は自分の額の大きなコブを撫でて苦笑した。なんてこった、まさか鑑賞するどころか一方的にボコられただけだったとは!
(……まあ、冗談はさておき)
『字』か。秀の様子を見るに、本格的にこの世界で生きていくなら『字』を持っておいた方が良さそうだ。
古代中国では、名前(名)を補う意味や、忠・孝・節・義、あるいは福・禄・寿・康といったおめでたい意味を込めて字をつけるのが一般的だ。平民だって「富貴」「進財」「平安」なんて名前をつける。
(じゃあ、俺はどうする?)
「忠」? 誰に忠義を尽くすんだ? 皇帝? それとも曹操や劉備や孫権か? いやいや、俺はただ平穏に生きたいだけだ。秀ちゃんと一緒に、無事に生き残れればそれでいい。却下!
「孝」? ああ……現代のおふくろには申し訳ないことをしたな。息子が千八百年前にタイムスリップしたなんて知ったら倒れちゃうだろな。孝行できなくてごめんな……。
「節」? 節操とか名節か? 現代人の俺が、権力者にへりくだらないなんてプライドを張る必要はない。生き残ることが最優先だ。
「義」? 男の友情か? それとも人間としての義理か……うん、これは悪くないな。
「福・禄・寿・康」なんてのも欲深すぎるしな。よし決めた!
「『守義』にしよう。蘇然、字は守義だ!」
別に大層な義理立てをしたいわけじゃない。ただ「来福」とか「有財」なんて文字を背負うより、人間としての筋(義)を守って生きていきたいからだ。
『蘇 守義』——うん、しっくりくる。
◆
「……あざな、お決まりになりましたの?」
部屋に戻ってきた秀は、壁に背をもたれて座っている蘇然に、おずおずと尋ねた。
「うん! これから俺は『蘇然、字は守義』と名乗ることにするよ」
「蘇 守義……」
秀は首をかしげて何度かその響きを口の中で転がした。次第に彼女の顔に可憐な笑みが広がっていく。
「素晴らしいお名前ですね。では、これからは……」
「あ、ちょっと待った」
蘇然は秀の言葉を制し、悪戯っぽく微笑んだ。
「『字』ってのはさ、友人同士が呼ぶためのものなんだよ」
「……え?」
秀は本気でムッとした。この人ったら……!
「なんだい、俺とただの『友達』でいたいのかい? 俺の勘違いだったかな?」
蘇然はわざとらしく目を丸くし、すまなさそうに手を合わせた。
「ごめんごめん! じゃあ、これからは普通に『守義』って呼んでくれていいよ」
「…………」
秀は眉をひそめて蘇然をじっと睨みつけた。ぷくっと頬を膨らませているのは、本気で腹を立てている証拠だ。
「冗談だってば!」
蘇然は気まずそうに秀の視線から目を逸らした。
「『アゼン(然ちゃん)』って呼んでよ。現代にいた頃、おふくろもそう呼んでたんだ」
「ア……アゼン様のお母様、ですか?」
初めて呼ぶ呼び名に、秀は少し気恥ずかしそうだ。
「それにしてもアゼン様、村の長老が『親在せば遠く遊ばず』とおっしゃっていましたわ。お母様を置いてこんな遠くまでいらっしゃるなんて……」
「……遊ぶに必ず方あり(遠出するなら必ず行き先を告げよ)、だろ?」
蘇然は小さく呟き、心の中で深く溜息をついた。好きでタイムスリップしたわけじゃないんだよ。それもこんな乱世に転生するなんて、俺の頭がおかしかったのか!?
秀はパチパチと瞬きをして蘇然を見つめた。彼の顔に浮かんだ深い孤独と失望の色を、彼女は見逃さなかった。
「アゼン様……お母様をこちらにお迎えすれば良いではありませんか。私、働き者ですから、ちゃんとお世話もできますわ」
「迎える……か」
蘇然は自嘲気味に微笑んだ。
「俺はもう、あそこには戻れないんだ……」
落胆する蘇然の横顔を見て、秀の胸にこれまで感じたことのない温かな感情が芽生えた。
正直なところ、出会った当初は彼のことを「好き」だなんて思っていなかった。けれど孤児の身で、女一人で生きていくのは噂や危険がつきまとう。それに、この人に肌を見られてしまった(と思っている)のだから……。
けれど、いまこの瞬間。秀は目の前の蘇然という男性に、強く惹きつけられている自分に気づいた。
蘇然、字は守義……とても温かくて素敵な名前だわ。
(おじ様……秀はやはり、お父様の教えに従って、都から遠く離れて生きていきますわ……)




