第二章 ここは東漢(後漢)の時代!?
「徐州か……」
徐州なんて地名、確か歴史の授業で……と蘇然は脳みその引き出しを力いっぱいひっくり返した。だが、考えれば考えるほど血の気が引き、額からじっとりと嫌な汗が滲み出てくる。
「……太平の世ならまだしも、もし天下乱世の時代に飛ばされてたら……」
蘇然は目を丸くして、苦笑いを浮かべた。
「マジで泣くに泣けないぞ……」
首をかしげて考え込んでから、彼は急に後悔し始めた。もっと根掘り葉掘り聞いておけばよかったのだ。徐州、徐州と言うけれど、いったい何千年の歴史の中の「どの徐州」なんだ? 時代が千年もズレたら大違いだぞ!
その時、壁の亀裂からヒュッと冷たい風が吹き込み、蘇然は思わず首をすくめて服を引っ張り寄せた。
そして、自分が身にまとっている服をまじまじと見て、呆然とした。
(……なんだこれ? 何を着せられてんだ俺?)
あ! と焦って一応大事な部分を確かめる……よかった、ボクサーパンツは無事だった。どうやら上着だけを着替えさせられたらしい。それにしても、この上着ときたら……。
「うわぁ……」
手触りはガサガサとしていて荒い。どんな素材でできているのだろう。これがいわゆる「麻の服」というやつか?
「いつまでもこうして座ってても意味ないしな……」
頭を振り、立ち上がろうとした蘇然だったが、動く前に全身を激痛が襲った。特に額のあたりがずきずきと痛む。
土壁に手をつき、支えながらゆっくりと外へ出ると、冷たい風が正面から吹きつけてきて思わずよろめいた。
門の前に立つ大木の葉を見上げると、あらかた落ち尽くしている。もうすっかり秋なのだろう。
(さっきまでこの家の住人を貧乏呼ばわりしてバカにしてた俺が哀れだわ……)
(極寒の冬に凍死なんてオチになったら笑えないぞ……)
敷地を出たところで、蘇然の足がピタリと止まった。
目の前の畑で、一人の少女が農作業をしているのが目に入ったからだ。
「ふぅ……」
秀は息を吐き、白くしなやかな腕で額の汗をぬぐった。ふと人の気配を感じて警戒しながら振り返ると、そこに呆然と立ち尽くす蘇然の姿があった。その間抜けな様子に、少女の表情から警戒心がふっと薄れる。
「お客さま、お部屋で休んでいらっしゃらないで、どうされたのですか?」
秀は畑の脇へ歩み寄ると、水で手を洗い、にっこりと微笑みながら蘇然を見た。
「コホン……」
蘇然は少女の小さな足元から必死に視線を逸らし、気まずそうに言った。
「部屋の中が湿っぽくてさ、少し散歩をね……あ、俺の名前は蘇然っていうんだ」
「蘇然……さま?」
さっきからこの男性が自分の足元ばかりじっと見つめるので、秀は少し頬を赤らめていた。しかし名前を聞いた途端、別の考えが頭をよぎった。
蘇然……いかにも良家のお坊ちゃんらしい、風雅なお名前だわ。でも、このお方、本当に変わっていらっしゃる……どうして髪がこんなに短いの? 「身体髪膚これ父母に受く」と言うのに。それとも何か罪を犯して、刑罰でも受けられたのかしら?
着ている服も珍しい仕立てだし、生地は随分としっかりしている。特に下着の形が変わっていて……あ……。
考えが進むにつれ、秀の顔はポッと赤くなった。
「あの……秀ちゃん?」
目の前の少女が急に顔を赤らめたので、蘇然は首をかしげた。
「は、はい!?」
秀は驚いて飛び跳ねた。自分の不埒な想像が見抜かれたのかとヒヤヒヤしたが、彼の様子を見てほっと胸を撫で下ろした。
「蘇然……とても上品で素敵なお名前ですね。お客さまは士大夫(貴族・読書人)のお家柄なのですか?」
「『蘇然』でいいよ、呼び捨てで……」
蘇然はあたりを見回しながら尋ねた。
「綺麗な畑だね。君はここで……何をしてるの?」
秀は目を丸くして、呆然と目の前の男性を見つめた。
(このお方……本当にお金持ちのお坊ちゃまなのね。私が何をしているかもご存知ないなんて……)
「土を耕して、土地を育てているのですわ。村の長老たちが、こうしておけば来年良い収穫が得られるとおっしゃっていたので」
「土地を育てる……?」
蘇然は眉をひそめて首をひねった。
秀は心の中でそっと溜息をついた。この蘇然という男は、これまで一度も農作業をしたことがないのだろう。説明しても伝わりそうにない。だが、これだけ世間知らずなら、悪い人間ではないはずだ。
農業どころか、現代の蘇然は畑すらまともに見たことがないもやしっ子だ。ひょろりとした手足を見れば、軍人でないことくらい一目瞭然で、落ちぶれた貴族のお坊ちゃんにしか見えない。
「……良かったら、俺も手伝おうか?」
「え?」
秀は顔を上げ、目を大きく開いて蘇然を見つめた。この男性が、自分を手伝うと言った?
秀は少しおかしくなった。こんな軟弱そうな身体で何ができるというのだろう。
けれど、蘇然の目を見た瞬間、秀のおかしがる気持ちは消え去った。
その瞳に宿っていたのは——労わりと、優しい憐みの色だったからだ。
ポッと頬を染め、秀は少しうつむいて蚊の泣くような声で言った。
「蘇……蘇然さん。あなたはお怪我をなさっているのですから。大丈夫ですよ、私、こんな仕事には慣れていますから……」
出会った当初は「私(妾身)」と名乗っていたのに、いまはごく普通の言葉遣いになっている。それにはちょっとした心理の変化が含まれているのだが、鈍感な蘇然が気づくはずもない。「まあ一人称なんて人それぞれだしな、皇帝だって自分のこと『朕』って言うし」くらいにしか思っていなかった。
「傷なんて大したことないって」
蘇然は腕を上げて見せたが、直後に痛みに顔を引きつらせた。それでも強がって腕をグルグルと回してみせる。
「ほら、平気だろ?」
秀はその様子を見て、可笑しさと同時に少し胸が温かくなるのを感じた。
「陳おじさんが、骨や筋の怪我は百日休ませないとダメだって言っていましたわ。そこまで酷くはないとしても、お大事になさってください。万一、後遺症でも残ったら大変ですから……」
(うっ、図星だ! おふくろも昔同じこと言ってたな……)
そう思いつつも、蘇然は引くに引けない。
「じゃあ……蘇然さんが寒くないのでしたら、私がこれを終えるまで、一緒にいてくださいますか?」
「も……もちろんだとも! 寒くなんて……うぐっ」
一陣の冷たい風が吹き抜け、蘇然は舌が回らなくなった。
秀は彼を深く見つめると、くるりと向き直って作業を再開した。
美少女が健気に働く姿を眺めながら、蘇然は心の中でどこか感慨にふけっていた。現代だったらこんな光景、なかなかお目にかかれないよな……あ、そうだ!
「ねえ、秀ちゃん。ここが徐州だって言ってたけど、今年は『何年』なんだ?」
「え?」
急に「秀ちゃん」と呼ばれて少し照れた秀だったが、質問の内容を聞いて不思議そうに振り返った。その瞳には疑念が浮かんでいる。
「光和六年ですけれど……」
「光……光和?」
蘇然は少女の怪しむような視線にも気づかず、一人でう〜んと頭を抱えた。光和っていつだ? 何年だっけ……?
「えーっと……」
蘇然は咳払いをし、少し気まずそうに言った。
「その……今の皇帝陛下って、どなただっけ?」
「どなた、ですって……?」
秀の瞳の疑念がさらに深まった。彼女は立ち上がり、じっと蘇然を見つめると、心配そうに囁いた。
「そんなお言葉、私の前だけにしてくださいね。もし滅多な人に聞かれたら……蘇然さん、大変なことになりますわよ……」
彼女は言葉を切り、周囲を警戒するように見回すと、早口で続けた。
「このお話はやめましょう。それより……良かったら、蘇然さんがどこからいらっしゃったのか教えてくださいな。私、ずっと気になっていたのです」
「…………」
蘇然は絶句した。皇帝が誰か教えてくれないと、自分がどこにいるのか分からないのだ。どこから来たかって? 参ったな、未来から来ましたなんて言えるかよ……。
「話づらいのでしたら、結構ですけれど……」
蘇然の躊躇を見て取り、秀は優しく微笑んだ。
「いいんだ、言いたくないわけじゃないんだよ。ただ……あまりにも浮世離れした話だからさ」
「ふふ、分かりましたわ」
秀は可憐に笑った。
「でも私、なんとなく感じていたのです。蘇然さんは、私がこれまで出会った誰とも違うなって……」
クリティカルヒット!
「あ、そうだわ、蘇然さん。お文字はお読みになれますか?」
秀はどこか恥ずかしそうに切り出した。
「実は村の陳おじさんが、今年の不作は天の神様がお怒りになっているからだって……門に『甲子』の二文字を貼れば災いを払えるとおっしゃっていたのですけれど」
「……甲子?」
「はい!」
秀は話す目と称される大きな瞳を輝かせて微笑んだ。
「蘇然さんほどの御方でも、大賢良師様のお名前はお知りになりませんの?」
「大賢良師!?」
蘇然はギョッとして、思わず叫んでしまった。
「張角か!? ここ、東漢(後漢)末期なのか!!?」
(おいおいおいマジかよ!! 俺、二千年も昔にタイムスリップしちまったのかよ!!)




