第一章 異世界(?)転生と、見知らぬ天井
深夜。蘇然は誰もいない静まり返った夜道を、フラフラと千鳥足で歩いていた。体からはぷんと強烈な酒の匂いが漂っている。
「……なんで急に逝っちまうんだよ……」
はぁぁ、と深くため息をつくと、彼は夜空に浮かぶ月を見上げた。
「人間には本当に魂なんてあるのかな……あるといいな。おい、相棒……お前は死んだんじゃない。きっとタイムスリップでもしたんだろ? そうだろ……ハハッ、異世界転生ってやつだよ!」
彼が「相棒」と呼ぶのは、大学時代からの大親友だ。卒業してからも頻繁に連絡を取り合う大親友だったのだが——昨日、突然悲報が飛び込んできた。
自殺だった。
フラフラと数歩歩きながら、蘇然はなおも「異世界転生」などと呟いていた。だが突然、周囲の明かりがふっと暗くなったことに気づく。
「おいおい、節電にするにしてもやりすぎだろ? それとも街灯が壊れたか? 頼むよ、少しは明かりをくれって……」
冗談半分で呟いた瞬間、彼の目の前に突如として一筋の銀白色の光がパッと広がった。
「おっ?」
蘇然はニッと笑ってその光の方へ足を踏み出したが——直後、足元がガバッと抜け落ちた。顔から笑顔が消え去る。
「きゃっ!?」
薄れゆく意識のなかで、少女の悲鳴のような声が聞こえた気がした。
そのまま、彼の意識は深い闇へと落ちていった。
◆
「痛たたた……」
ゆっくりと目を開けた蘇然は、激しい頭痛に見舞われた。酒の飲みすぎだろうか? 全身がバキバキに痛む。
重い体を起こし、何か呟こうとした瞬間——彼はそのまま固まった。
キョロキョロと怪訝そうに周囲を見回すにつれ、彼の目は極限まで見開かれていく。
……なんだここは!?
そこはあまりにも異質な「空間」……いや、「部屋」だった。
これを部屋と呼んでいいのだろうか。古風な言われ方をすれば、いわゆる「草葺きの土壁小屋」といったところか。土壁には亀裂が何本も走り、隙間から冷たい風が吹き込んでくる。
(どんだけ貧乏なんだよここ……冬になったら住人凍死するぞ?)
ふと見上げると——天井に巨大な穴が開いていた。
(天窓かよ! 夜に星を見るのには苦労しなさそうだな。随分とロマンチックな家だな……)
部屋には湿気と、どこかカビくさいような匂いが充満している。部屋の隅に目をやると、干し草が乱雑に積まれていた。ゴクリと生唾を飲み込み、蘇然の顔が引きつる。
泥の壁、転がる石ころ、雑草。そして自分が今座っている足元を見ると……ん?
「……なんだこれ? 布団のつもりか?」
手で触れてみるが、とてもまともな寝具とは思えない。
(俺は一体、どこにいるんだ……?)
「お目覚めになられましたか?」
そこへ、一人の少女が汗をぬぐいながら入ってきた。
「陳おじさんの言う通りだわ。本当に目を覚ますなんて……」
「あ、君は……誰?」
眉をひそめて尋ねる蘇然。少女が近づいてくると、彼は思わず目を奪われた。
粗末な麻の服を着たスッピンの少女だが、蘇然の視線を感じると、少し恥ずかしそうに頬をポッと赤らめた。何より印象的なのは、今にも語りかけてきそうなほど澄み切った、霊気あふれる大きな瞳だった。
「わ、私は……秀と申します……」
「シュウ……ちゃん?」
蘇然は口元を引きつらせた。何か言い返そうとして、ふと思い当たり、大慌てで周囲を見回す。
いくら田舎の農村だって、現代にこんなボロ小屋があるわけがない。
四方すべてが剥き出しの土壁——まさに「家徒四壁(家財道具一つない貧困)」そのものだ。
まさか……。
(おいおいおい……相棒、タイムスリップ(転生)したのは……俺の方なのか!?)
(落ち着け、落ち着け俺……! これはただの異世界転生か? それとも誰かの体に乗り移った(憑依)のか……?)
「お客さま、お怪我がまだ治っておりませんから、もう少し休んでいてくださいね」
秀と呼ばれた少女が心細そうに言った。
「陳おじさんが、骨や筋を痛めているから、何ヶ月も静養しないといけないっておっしゃっていました」
「コホン……」
先ほどまで、蘇然はこの少女と自分のあいだに怪しい関係があったらどうしようとビクビクしていた。この身体が本当に自分自身のものかどうかも怪しかったからだ。
だが、少女が自分のことを「お客様(先生)」と他人行儀に呼んだことで、ひとまず胸を撫で下ろした。どうやらこの少女と深い関係というわけではなさそうだ。……なぜか少しだけ残念な気もしたが。
「……あのさ、一つ聞いてもいい? 俺、一体どうなったんだ?」
話しているうちに、体にじんじんと痛みが戻ってきた。
「山から転げ落ちていらっしゃったみたいで……」
「頭もすごく痛いんだけど……」
「それは……」
秀はバツが悪そうに少し俯き、華奢な肩をかすかに震わせた。
「きっと、頭を強く打たれたせいだと思いますわ……」
「そっか、ついてないなぁ」
少女の妙な様子には気づかず、蘇然は乾燥してガサガサになった唇を舐めた。
「あの……お水、もらえる?」
秀は部屋の隅にある素焼きの水瓶から、柄杓で水を一杯すくい、碗に入れて差し出した。
欠けた粗末な碗を見て蘇然は一瞬眉をひそめたが、助けてもらった手前失礼だと思い直し、申し訳なさそうな笑みを浮かべて両手で受け取った。
「どこからいらっしゃったのですか?」
「どこから……って言われてもなぁ。あー……実は今、頭が混乱してて、いろいろ思い出せないんだ」
気まずそうに蘇然は誤魔化した。助けてくれた命の恩人に素性を明かさないのは不義理だが、本当のことなんて言えるはずがない。
周りを見渡せば戦前どころか古代レベルの風景だ。少女の言葉遣いからしても、少なくとも数百年は過去に遡っているに違いない。
「お首の傷は……大丈夫なのですか?」
蘇然の言葉を聞いた秀は、意外にも少し緊張した様子で、小さな指で蘇然の頭を指さした。
「え? ああ、大丈夫……ちょっと記憶が混乱してるだけだから。少し考えを整理してから答えてもいいかな?」
「はい!」
少女はすっと立ち上がり、控えめに微笑んだ。
「では、ごゆっくりお休みくださいね。秀は外におりますので……」
「あ、待って!」
出ていこうとする少女を慌てて呼び止める。少女の不審そうな視線に顔が熱くなったが、どうしても確認しておきたいことがあった。
「ここ……どこ?」
少女はパチパチと瞬きをした。その目元にはどこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「ここは徐州ですよ……あ、でも徐州の城下からはだいぶ離れていますから、歩いたら三日はかかりますけれど」
「徐州……」
蘇然が呆然と呟いている間に、少女は静かに部屋を出て行った。
(根は悪い人じゃなさそうね……)
外に出た秀はチラリと振り返り、蘇然の呆然とした表情をしっかりと目におさめた。そして門の脇に転がっている一本の「短い丸太(木棒)」に目をやると、ペロッと可愛らしく舌を出した。




