第十章 「九九」の伝授と、天才の誤解
ハァハァ……。
蘇然が散歩のようなのんびりとした足取りで陳府に戻ると、門前に立つ体格のいい二人の下男(家将)が、どこか異様な眼差しで彼を見つめていた。
自分の身だしなみを上下チェックしてみるが、特に変なところはない。
(……ふん、こいつら頭がおかしいんじゃないのか?)
「あっ! 守義弟、やっと戻ったか! 公子がずっとお前を探していたのだぞ……!」
蘇然が数歩歩いたところで、孫茂がどこからともなく現れ、蘇然の腕を掴んで強引に帳簿方の部屋へと引っ張っていった。
「な、なんだよ? 何か事件でも起きたのか?」
蘇然はちんぷんかんぷんだ。
「いや、そういうわけではないが……」
孫茂はハッと我に返った。陳登から「蘇然を連れて参れ」と命じられたので慌てて探したのだが、別に屋敷が火事になったわけではない。
「じゃあ何をそんなに焦ってるんだよ」
「いや……焦るというか……」
孫茂は言葉に詰まった。陳家の若旦那が待っているというのに、なぜこの男はこんなにもマイペースなのだ? 呆れ果てた孫茂は、トボトボと蘇然の後をついていくしかなかった。
部屋に入ると、文机の前に座る陳登の姿があった。蘇然は壁の掛け軸をいじりながら声をかける。
「計算、できたか?」
後ろから入ってきた孫茂は開いた口が塞がらなかった。陳家の公子に対してなんという口のきき方だ!
しかし当の陳登はお茶を啜っており、まったく腹を立てる様子もなかった。この何の変哲もない青年が、実はとてつもない大才の持ち主であることを悟っていたからだ。
「フフッ……答えは『六万四千九百八十文』。銭に換算すれば『六十四貫と九百八十文』でございますな!(※一年=360日として計算)」
蘇然は疑わしそうな目で陳登を見ると、前へ歩み出て使っていない紙を一葉引き寄せた。筆を執り、現代の数式(等差数列の和の公式)をササッと書き走らせる。弾き出された数字を確認し、淡々と言った。
「正解」
陳登はその光景を見て目を丸くした。
自分が一時間以上もかけ、大量の紙を消費して何度も何度も計算し直してようやく辿り着いた答えを、この男は自分が理解できない怪しげな記号(数式)を二、三行書いただけで弾き出してしまったのだ。陳登は悔しそうに蘇然を見つめたが、ぐうの音も出ない。
足元に散らばる大量の計算用紙を目にした蘇然は、おかしそうに口元を緩めた。
「お前……まさか全部足し算したのか……?」
陳登の顔が一瞬で真っ赤に染まった。
(ふふん! これぞ二千年の文化の重みよ!)
蘇然は心の中で誇らしさがこみ上げてくるのを感じた。赤面する陳登をチラリと見やり、(先人の方々、申し訳ありません。俺も古代で飯を喰っていくために必死なんです……)と心の中で平謝りした。
「元龍、一つ教えを乞いたい儀がございます。先生、どうかご教授くだされ!」
「言ってみろよ」
今の蘇然はすこぶる機嫌が良かった。
「先ほど先生の出された問題を解く中で、数字と数字の間に目に見えぬ規則(法則)が存在する気配を感じました。しかし、どうしてもその正体に辿り着けませぬ……どうかこの題を解く術(真理)をご教示くだされ!」
陳登は立ち上がると、後ろで見ている孫茂が信じられないといった表情を浮かべる中、蘇然に対して恭しく「弟子(師事)の礼」を執った。
もっとも、古代の礼法に疎い蘇然はそれがどれほど重い意味を持つのか分かっていなかったが……。とにかく気分がいいので、ニコニコしながら歩み寄った。
「なんだ、そんなことか。いいか、よく見ろよ……」
蘇然は筆を執り、紙に数字を書きながら説明を始めた。
「一日目は一文、二日目は二文……最後の三百六十日目は三百六十文だろ? お前、気づかないか? 一日目と最後の日の和は『三百六十一文』。二日目と三百五十九日目の和も『三百六十一文』。他も全部同じになるんだよ」
「……っ!? なんと……!」
陳登の目が爛々と輝いた。蘇然から筆を奪い取ると、夢中で紙に数字を書き連ねた。
(おい! 俺がまだ喋ってる最中だろうが!)
蘇然は口をすぼめ、ちょっと不機嫌になった。せっかく格好よく解説してドヤ顔を決めようとしていたのに、割り込まれるとは。
「本当だ……! まったく同じになる……!」
陳登は驚嘆の声をあげ、熱烈な眼差しで蘇然を見つめた。
「ふん、まあな」
蘇然は満足そうに胸を張った。
「二日分の和がそれぞれ『三百六十一』になるんだから、三百六十日の半分、つまり……」
「『百八十日』……!」
陳登の心に激震が走った。
「そ、それからどうするのです!?」
「それから?」
蘇然は呆れ顔で言った。
「それから掛ければ(掛け算すれば)終わりだろ? 三百六十一に……」
あ、と蘇然は途中で口をつぐんだ。古代に「掛け算の体系的な数式」なんて……。
「かける……?」
陳登はその言葉を反芻し、怪訝な表情で途切れた蘇然を見つめた。
「…………」
(そんな目で見つめるなよ……俺はそっちの趣味はないんだからな!)
陳登のあまりにも強烈な「求知欲の眼差し」に、蘇然は顔の皮が引きつり、背筋がゾクゾクしてきた。
「ハァ……」
陳登はぽつりと溜息をついた。
自分がどれほど失態を演じていたかに気づいたからだ。この蘇先生が携えている技術は、間違いなく天下に二つとない極秘の神業(秘術)。親兄弟でもない自分のような者に、そう簡単に教えられるわけがないのだ。
門のところで見ていた孫茂は、生きた心地がしなかった。
(この守義弟、凄すぎる……! 公子をこれほど興奮させ、失態を演じさせるとは。陳府に引き抜いて大正解だったな。これでお館様へのご恩返しができるぞ……)
「あー……そろそろ良い時間だな……」
二人から死んだ魚のような熱量で見つめられ、蘇然は気まずそうにごまかした。
「蘇先生……」
陳登の一言に、孫茂は息をのんだ。
「ん? 何かあるのか?」
陳登は硬い表情で思案していたが、意を決したように蘇然の前に進み出ると、今度は最敬礼にあたる大礼(最上級の辞辞)を捧げた。
「公子……!?」孫茂が思わず声を漏らす。
陳登は孫茂を無視し、熱い瞳で蘇然を直視した。
「この陳元龍、謹んで先生に弟子入りの礼を捧げます。どうか私に、その奇術(数学)をご教授くだされ……!」
蘇然はぽかんと口を開けた。
(弟子入り……? え、俺を師匠にするってことか? でも待てよ……)
この現代数学の知識は俺の「飯の種」だ。こいつに教えてしまったら、俺のクビが飛んで飯が食えなくなるんじゃないか? 蘇然は躊躇した。
蘇然の迷いを見た孫茂は、我が公子のために一肌脱ごうと閃き、独り言のようにボヤいてみせた。
「あれぇ……? そうすると守義弟が『東房の大帳簿方』の役職も兼任することになるのか、確か月給が『六貫』だったかなぁ……」
ピクッ!
蘇然の耳がピカチュウ並みに反応した。六貫銭!?
(待てよ……俺の今の給料が五貫だろ? そこに六貫が加わったら……合計十一貫銭!? 超高給取りじゃないか!! これなら毎日美味いものが食える! いや、まず秀に新しい服を何着か買ってやれるぞ!)
「……まあ、教えてやらないこともないけどな」
蘇然は満足そうに頷いた。そして何かを思い出したように付け加える。
「ただ、一つ条件がある。その追加の六貫銭の給料だけど……『全額お米(穀物)現物』で支払ってくれないか?」
(給料の値上げ交渉をその場で決めるだと……!?)
陳登は少し呆れたが、こんな身外の物(金銭)で天下無双の暗算術が手に入るなら安いものだ。
「先生のおっしゃる通りにいたしましょう!」
陳登は頷き、助け舟を出してくれた孫茂に感謝の視線を送った。
ホッと胸を撫で下ろした蘇然は、紙を取り出すと、即席で『九九の歌(乗法九九表)』を書き書きして陳登に手渡した。そして人差し指を口に当て、思わせぶりに言った。
「いいか、絶対に他人に漏らすなよ?」
「弟子、謹んで教えを守ります!」
十一貫! 十一貫だぞー!
蘇然はウキウキ気分で部屋を飛び出していった。早く家に帰って、この大ニュースを秀に教えてやらねば!
「…………」
陳登は手の中の薄い紙を見つめ、ただただ感嘆していた。
そしてふと何かを思い出し、ハッと表情を変えて孫茂に振り向いた。
「宣揚……我が師は先ほど……『六貫分をすべて米穀で寄こせ』とおっしゃったな?」
「はい、確かにおっしゃいました」
孫茂は首をひねった。
陳登は吸い寄せられるように、一つの文机へと視線を向けた。
そこには——陳家が密かに進めている「食糧大量買い付けの極秘帳簿」が、無造作に開かれたまま置かれていたのだ。
(先生は……俺たちが食糧を集めている理由も、これから訪れる乱世の危機も、すべて見抜いた上で米を要求されたのか……!)
陳登は背筋が凍りつくような感動と畏怖に震え、呟いた。
「我が師……誠に恐ろしい大才なり……!」




