第十一章 給料の前借りと、許嫁への想い
「十一貫か〜十一貫〜♪ 十一貫か〜十一貫〜♪」
蘇然は上機嫌で道を歩いていた。頭の中は、秀にどんな買い物を買ってやろうかということでいっぱいだ。何しろ自分の妻(許嫁)としてついてきてくれたのだ。絶対に苦労なんてさせたくない。
……と、道の途中で蘇然はハッと立ち止まった。
(……待てよ? 俺、いま一文銭すら持ってなくないか……?)
買い物をしようにも手持ちゼロである。蘇然は自分のドジさに呆れつつ、踵を返して陳府へと引き返した。
◆
その頃、陳登は帳簿方の部屋で、師である蘇然から授かった秘術『九九の歌』を一人で細かく噛み締めていた。
読めば読むほどその合理性に驚嘆し、蘇然への敬意が無限に湧き上がってくる。書房へ戻るのも忘れ、机の上で夢中で計算を重ねていた。
「な……なあ、そこのお兄さん……」
突然声をかけられ、集中を乱された陳登はイラッとして顔を上げた。
「何の用だ……」
上がりかけた怒号は、目の前の人物を見た瞬間に喉で詰まった。そこに立っていたのは、たった今弟子入りしたばかりの我が師・蘇然ではないか!
陳登は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「お師匠様! 弟子、お姿に気づかずご無礼を働きました。どうかお許しくだされ!」
「あ、いやいや、いいんだって……」
蘇然も驚いた。そんな恐ろしい顔で睨まなくてもいいじゃないか。
陳登は心の中で少々困惑していた。誰だってこんな「天下の神術」を得たら、一人で静かに研究したいものだ。去ったはずの師がなぜ戻ってきたのだろう?
気まずそうに自分を指さす蘇然を見て、陳登はハッと察した。
「先ほど神術を伝授された衝撃で、弟子は興奮のあまり正式なご挨拶も済ませておりませんでした。私、姓は陳、名は登、字を元龍と申します……」
(陳登……陳元龍……!?)
蘇然は目をパチグリさせて固まった。
ゲームで知力80オーバーのあの名将・陳登が、自分を「お師匠様」と呼び、弟子入りの礼を執っている……!?
さっきのやり取りを思い返し、蘇然は自分の鈍さに頭を抱えた。相手が「元龍」と名乗っていたし、ここは陳府なのだから、陳登以外に誰がいるというのだ。
頭をポコポコ叩いている蘇然を見て、陳登は首をかしげた。チラリと机の上の『九九の歌』に視線を送り、ウズウズしながら言った。
「お師匠様、何かご用命でしょうか……?」
(用がないなら早く帰ってくれ!)というのが陳登の本音であった。
陳登に促され、蘇然は戻ってきた理由を思い出して歩み寄った。そして小声で尋ねる。
「あのさ、ちょっと相談したいことがあってね……不躾なお願いなんだけど……」
不躾だと分かっているなら言わないでくれ、と陳登は思いつつも、恭しく答えた。
「どうぞ、何なりとお命じくだされ」
「実はさ……」蘇然は頭を掻きながら気まずそうに言った。
「半月分……いや、今月分の給料を『前払い(前借り)』してもらうことってできないかな……? 月末に清算するってことでさ。ちょっと今、懐が寂しくて……」
「…………」
陳登の額に太い縦線が入った。
初出勤のその日に、上司(陳家公子)に向かって「半月分の給料を前借りさせろ」などと言い出す男がどこにいるのか。陳登は無言のままドアまで歩くと、下男を呼んでなにやら耳打ちした。
蘇然は壁の掛け軸を眺めるフリをしていたが、内心はバツが悪くてたまらなかった。現代なら初日に給料の前借りを頼んだら即クビ決定である。
(古代人ってなんて優しいんだ……!)
手渡されたズッシリと重い「五貫銭」の袋を抱え、蘇然は陳登のことが急に神様のように思えてきた。二千年の現代数学を教えてやった甲斐があったというものだ。
「お師匠様、どうぞお気をつけて……」
陳登は蘇然の「熱烈な視線」に背筋を凍らせながらも、なんとか見送った。そして蘇然の姿が見えなくなるや否や、机の上の神術が書かれた紙を大切に巻き取り、飛ぶような速さで自分の書房へ駆け込んだ。
「良いか! 何があっても邪魔をするなよ!」と下男に言い渡して引きこもるのだった。
◆
テレビ時代劇の真似をして、蘇然は五貫銭の袋を懐に押し込んだ。……が、重すぎて服がずり落ちそうになり、結局お腹を抱えるようにして歩くハメになった。
(あー……現代のキャッシュカードが恋しい……)
通行人の奇妙な視線をシカトし、蘇然はウキウキ気分で我が家の門をくぐった。
「秀! 帰ったぞー!」
「夫君、聞こえておりますわ」
秀が奥からしなやかに姿を現した。可憐な笑顔を浮かべつつも、少し困ったように蘇然を見つめる。
「夫君、お外で大きな声をお出しになっては立ち代わり人に聞かれますわ。あまりよろしくありません……」
「何を言ってるんだよ!」蘇然は大らかに笑った。
「外で叫んでるわけじゃない、自分の家で叫んでるんだ。それに他人じゃなくて、自分の可愛いお嫁さんに向かって叫んでるんだから、何も怖くないさ!」
「お嫁……さん……?」
秀はパチクリと可憐な瞳をまたたかせ、小首をかしげてその意味を考えた。
「あー、つまり……妻(妻君)ってことだよ!」
蘇然はお腹(懐の銭)をポンと叩いた。
「妻……」
秀は恥ずかしそうに俯いた。再び顔を上げた時、その瞳には溢れんばかりの深い愛おしさが宿っていた。
「あら……?」
秀の華奢な指が、蘇然のポッコリ膨らんだお腹を指さした。
「夫君……そちらは……なぜそのように……?」
「ふふん、分からないだろ?」
蘇然はニヤリと笑うと、急に周りを警戒する素振りを見せた。
「よし、部屋に入って話そう……」
◆
「きゃっ……!?」
テーブルの上にジャラジャラと広げられた眩しい銅銭の山を見て、秀は眉をひそめ、真顔になった。
「夫君……正直にお話しくださいませ。このような大金、一体どこでお手に入れになったのですか?」
「おいおい!」
蘇然は不機嫌そうに顔を背け、椅子に座ってむくれた。
「俺が泥棒や強盗でもしたって言うのかよ?」
「そんな……」
秀はハッとした。蘇然が本気で腹を立てていると気づき、自分が彼の性格を誤解していたことに気づいたのだ。この人がそんな悪事に手を染めるはずがないのに、失礼な疑いをかけてしまった。
「夫君……」
「ハンッ」
蘇然は身を翻し、秀にそっぽを向けた。
「夫君、秀をお怒りなのですか……?」
秀はゆっくりと蘇然の前へ歩み寄った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「秀が悪かったのです……夫君を誤解してしまい、申し訳ありません……」
「わっ! 泣かないでくれよ!」
蘇然は慌てて立ち上がった。秀の目元から溢れる涙を指先で優しく拭いながら、慌てて宥める。
「嘘だよ、冗談だって! 怒ってないから! な? 泣かないでくれよ、本当にからかっただけなんだからさ……」
蘇然の温かい指先が目元に触れ、秀の頬は一瞬で真っ赤に染まった。唇を軽く噛み締め、照れくさそうに尋ねる。
「……本当に、秀をお怒りではないのですか?」
「当たり前だろ!」
「では……」秀はテーブルの五貫銭を指さした。
「そのお金の理由を、秀に教えていただけますか?」
「もちろんだよ!」
蘇然は、この可憐な許嫁がまた涙の「必殺技」を出さないかヒヤヒヤしながら、五貫銭の経緯を丁寧に説明した。陳登との勝負や給料の前払いの件を隠さず話すと、秀の疑いはようやく晴れた。
「……では夫君、このお金は私(秀)のために買い物をしようと……?」
「そうだよ。じゃなきゃ何に使うんだよ?」
(タバコもネットカフェもキャバクラもないこの時代に、俺が金持ってても使い道ないしな……飯食う以外はさ)と心の中で付け加えつつ。
秀は黙り込み、テーブルの銭から蘇然の顔へと視線を移した。その瞳に宿る輝きは——言葉にするなら「深い感動」そのものだった。
「秀にはそのような高価なものは必要ありませんわ……このお金は大切にとっておきましょう……」
「ダメに決まってるだろ!」蘇然は言った。
「街を歩いてたら、どの女性も少しは簪や首飾りをつけてたぞ。君の格好を見てみろよ……このままじゃ、俺が君を虐待してると思われるじゃないか!」
「ふふっ!」
秀は思わず口元を押さえて吹き出した。黒く澄んだ瞳で蘇然を見つめる。
「夫君は本当に心優しいお方です……秀を誠心誠意大切にしてくださるのに、どうして虐待などと……」
「ダメなものはダメ!」蘇然はテーブルを叩いた。
「絶対買う! そうじゃなきゃ、俺が前借りまでして持ってきた意味がないだろ!」
「夫君、お怒りにならないで……」
秀は少し躊躇いながら蘇然の隣へ歩み寄ると、小さな手で彼の腕をそっと包み込み、小声で言った。
「……本当はね、秀も何か一つくらい、綺麗なお飾りが欲しいと思っておりましたの。……夫君、秀と一緒にお買いものに行ってくださいますか?」
「もちろん! 今すぐ行こう!」蘇然は即座に立ち上がった。
「でも……お昼ご飯を召し上がってからにいたしましょう?」
秀の声は柔らかかったが、蘇然にはどうしても逆らえない不思議な説得力があった。
「……わかったよ」蘇然は降参した。
「じゃあお金は仕舞っておいてくれ。ご飯を食べたら出かけよう」
「はい」
秀はテーブルの銭を抱え、奥の部屋へと向かった。
タンスを開け、中に大事に仕舞われている「上質な赤い布地」と、その横に揃えて置かれた「一対の紅蝋燭(祝言用の赤いローソク)」にそっと手を触れる。
秀は唇を噛み締め、その頬をリンゴのように赤く染めるのだった。




