第十二章 夕暮れの市街と、横取りされた紅
秀の手料理による夕食を終え、蘇然は家の門前にしゃがみ込んで、部屋の中で身支度をする秀を待っていた。
蘇然の給料が大幅にアップ(前払い)したことを知った秀は、今日の夕飯をいつもより豪華にしてくれたのだ。わざわざ市へ出て豚肉まで買い込んできてくれたのだが、以前の極貧生活を思えば、これはまさに大ご馳走である。
「うーん、まだ出てこないのかな……」
待ちきれなくなった蘇然が庭を行ったり来たりしていると、ふと視界の端に、部屋から歩み出てくる一筋の白い麗影が映った。
一領の白い着物を纏い、腰まで届く長い髪を結い上げて既婚女性の髪型にし、木製の簪をひとつ挿している。色白の顔立ちにはうっすらと恥じらいの朱が差し、その美しさを引き立てていた。ただ……そのためか、少し唇の色が蒼白く見える。
蘇然は息をのむほど見とれると同時に、ふと勿体なく思った。
(口紅があれば最高なんだけどな……。あ、そうだ。古代って口紅なんてないよな? 何を使ってたんだっけ?)
「夫君、秀が遅いとお怒りですか?」
「いや、ちょっと考え事をしてたんだ」
「まあ?」秀は不思議そうに首をかしげた。
「あのさ……女性が唇に塗るやつって、何て言うんだっけ?」
蘇然は秀の唇を指さした。と、折悪しく歩み寄ってきた秀と間合いが詰まり、収まりきらなかった蘇然の食指(人差し指)が、秀の柔らかい唇にサッと触れてしまった!
一瞬にして、空気があでやかに色づく。
「……夫君がお聞きになっているのは、『脂(紅・胭脂)』のことでしょうか……?」
秀はうつむき、照れくさそうに言った。だが何かを思い出したように、再び顔を上げて蘇然を見つめる。
「あ……ああ! それそれ!」
蘇然は気まずそうに半分背を向け、触れてしまった自分の人差し指を見つめてモジモジした。
(この人ったら……!)
秀は恥ずかしさと呆れで唇を尖らせた。
「夫君、秀を市(市場)へ連れていってくださるのでは? 遅くなりますと、お店が閉まってしまいますわ……」
「あ、そうだった! よし、行こう!」
秀はしなやかに前へ進むと、蘇然の腕をそっと抱きかかえ、半歩引いた位置で寄り添いながら一緒に外へと歩き出した。
◇
空はまだそれほど暗くなく、現代で言えば夕方の五時か六時頃だ。
隣を歩く秀の柔らかい体温と肌触りを感じながら、蘇然は心の中で欲望が頭を持ち上げるのを感じていた。
秀の年齢がまだ少し幼く見えることもあり、現代ではまともに彼女も作ったことがないオタク男子の蘇然は、今夜同じベッド(敷布団)で寝るとなっても、いつも端っこのギリギリに身を寄せているのだ。
夜、隣から聞こえてくる秀の細く規則正しい寝息を聞きながら、蘇然は一人で良心と欲求の葛藤を繰り広げている。毎回、超人的な理性を発揮して自分を抑えつけて眠りにつくのだが、男としてはこれほど過酷な拷問もない。
(……もう少し大きくなってくれたら最高なんだけどな……)
蘇然は切実な溜息とともにボヤいた。
「夫君……何をおっしゃいましたの?」
隣を歩いていた秀は、ボソッと言われた言葉の意味がサッパリ分からず、パチパチと目をたたかせて尋ねた。
「あ、いやいや! なんでもない、なんでもないって!」
蘇然は滝のような汗をかいた。こんなこと口が裂けても言えるわけがない。(君は十分可愛いんだけど、ちょっと幼いから手が出しづらくて……)なんて言ったら、どんな変態だと思われるか!
「そうですの……?」
秀は分かったような分からないような顔で頷いたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「秀は今日、とっても幸せですわ。こんな風に夫君とお出かけするなんて久しぶりですもの。秀はいつも一人でしたから……」
「これからは俺がいるだろ」
蘇然が秀の頬を指でちょんと突っつくと、そこが一瞬でぽっと赤く染まった。
「夫君、街中でそのようなことをしてはいけませんわ……人が見ております……」
秀は恥ずかしそうに周囲を見渡したが、ふと視線を止め、驚いたように声をあげた。
「あら……まあ、なんて男ぶりが良い公子様かしら……」
(ん? イケメンだと……!?)
蘇然は少しヤキモチを焼きつつ、秀の視線の先を追った。……そして、一瞬で吹き出した。
そこには、見るからに「お坊ちゃま風」の非常に容姿端麗な公子が、侍女を一人連れて街を散策していた。あちこち興味深そうに眺めている。
「秀、目移りしたのか〜?」蘇然はからかった。
すると秀の表情が一変し、真顔で言った。
「夫君、なぜそのような冗談をおっしゃるのですか……」
(しまっ……古代人にこの手の軽口は厳禁だった!)
反省した蘇然は捉えるのをやめ、秀の耳元に顔を寄せてヒソヒソと囁いた。
耳元に吹きかけられた温かい吐息に、秀の耳たぶは一気に真っ赤になった。しかし今は照れている場合ではなかった。秀は目を丸くして、信じられないといった顔で言った。
「ふ、夫君……あの方が……女の人、ですって……!?」
「当たり前だろ! 喉仏すらないのに男なわけないじゃないか!」
蘇然が得意気に言ったのだが、運悪くその言葉が近くにいた「男装の公子」の耳に届いてしまった。
その美麗な顔の半分が真っ赤に染まる。怒りからか照れからか、その男装の麗人は蘇然を猛烈な勢いで睨みつけてきた。
(なんだよ、減るもんじゃなし!)
蘇然はアッカンベーとばかりに白目を剥いて見せると、クルリと背を向けて後頭部を相手に突きつけてやった。
秀は歩きながら何度も振り返り、(本当に女性なの……?)と信じられない様子だ。
「あの男……実にかさつく(腹立たしい)やつだわ!」
遠くで男装の麗人が牙を剥いて毒づいた。やはり声も女性だ。
「少……公子様、ゴホン!」隣の侍女が慌てて注意を促す。
「キーッ! 腹が立つわーっ!」
◇
蘇然は秀を連れて、小さなおしろいや脂を扱うお店に入った。色とりどりの小箱が並ぶ店内を見て、秀の瞳が期待に輝く。
「これなんかどうだ? いい色だぞ」
蘇然が手に取ったのは、現代でいうピンク色に近い優しい紅脂だった。
「お客さん、お目が高い!」店主がすささっと寄ってきた。
「その脂は今、大人気で手に入らない代物でしてね! 当店にも三つしか入荷しなかったんですが、すでに二つ売れてしまい、それが最後の一つでさぁ!」
(へっ! 現代の商人が使う使い古された限定商法(品薄商法)だな!)
蘇然は鼻で笑い、店主を無視して尋ねた。
「で、いくらなんだ?」
「三貫銭でございます!」
「さんかん……!?」
蘇然は頭の中で素早く計算した。俺の給料の四分の一以上だと……!?
やっぱりいつの時代も、女性の化粧品ってのは高額なんだな。秀に「買おうか」と言おうとした瞬間、秀がその紅脂をそっと棚に戻すのが見えた。
「どうした? 試してみないのか?」蘇然が不思議そうに聞く。
「夫君……」
秀は蘇然を見つめた。「高すぎるから要らない」と言いたいのだが、他人がいる手前、夫(許嫁)の面目を潰すわけにはいかない。葛藤して言い淀んでいるのだ。
蘇然は一瞬で秀の健気な配慮を理解した。胸が熱くなる。
(こんなに出来た奥さん、現代のパンダより希少だぞ……! おふくろ、俺は最高の嫁さんを見つけたよ。見せてやれないのが残念だけど……いやいや! 長生きしてくれよな! 俺はこっちで元気にやってるから心配しないでくれ……)
「試してみなよ!」
蘇然は紅脂を再び手に取ると、秀の手に握らせ、その手背を優しくぽんぽんと叩いた。その温かいトーンに、秀はもう拒むことができなかった。
「では……秀、試させていただきます……」
「店主! その脂、この本公子が買うわ! 小昭、お金を払いなさい!」
無神経で高飛車な声が、せっかくの良い雰囲気を叩き割った。
蘇然は腹を立てて振り返った。
(なんだこの礼儀知らずのバカ息子は! 順番待ちってものを知らんのか!? 俺たちがまだ手に持ってるのに買おうとするなんて、常識がないのかよ!)
……と、相手の顔を見た瞬間、蘇然は固まった。
(ゲッ……さっきの男装女子……!?)
「ふん!」
その「公子」は侍女にお金を払わせると、不躾に蘇然の隣へ歩み寄り、蘇然の手から紅脂をひょいっと奪い取った。そして、挑発的なドヤ顔で蘇然を見下ろしてくる。
蘇然の顔が、一気に怒りで真っ赤に染まった。
秀はクンクンと鼻を鳴らし、相手から漂うかすかな甘い香料に気づいた。そして相手の顔を間近でよく見て——(あ! 本当に女の子だ……!)と驚いた。
そんな周囲の視線も気にせず、横取りした紅脂を勝手に試し始める男装の麗人。
蘇然の怒りメーターが、ついに限界を突破したのだった!




