第八十三章 孟徳の刺殺と、傷残す画戟の一撃
「何だって!? 孟徳が董卓の暗殺に向かっただと!?」
蘇然は目を剥き、司徒府の書斎で机を叩いて身を乗り出した。
「声を落とさんかッ!」
王允は低く一喝し、手にしていた筆を置いて周囲の気配を伺った。
「数日前、あやつが儂の元へ忍び込み、我が家に伝わる七星宝刀を借りたいと願い出たのだ……。あの曹孟徳め、大功を成す前から疾く退路を計算に入れておったわ。あれほど周到に策を巡らせる男、真に油断ならぬ英物よ!」
「な、なんで伯父上は俺に一言も教えてくれなかったんですか!?」
蘇然は頭を抱えて悔しがった。もし事前に知っていれば、自分が何とか口実を作ってあの呂布を屋敷に足止めできたはずなのだ。史実の記憶によれば、曹操の暗殺が失敗したのは、まさに呂布が馬を引き連れて部屋へ戻ってきたからだったはずではないか!
「お主に話して何になる!」
王允は冷ややかに鼻を鳴らし、再び筆を執って紙に向かった。
「それよりお主、ここ数日あの蔡伯喈の屋敷へ足を運び、焦尾琴の音色とやらを聴いてきたのではないだろうな?」
「……あ、いや」蘇然は気まずそうに俯いた。「蔡伯父上だって董卓に従うのは身を切られる思いのはずで、決して本心から……」
「黙れッ!」王允は眉根を寄せ、鋭い眼光で睨みつけた。
「その話は金輪際口にするな! お主は己の分にのみ専念しておればよい!」
(この頑固親父め……!)
蘇然は首を振り、すごすごと書斎を後にした。
間もなく都の市井に衝撃の報が駆け巡った。
——曹孟徳、董卓の暗殺に失敗。佩刀を献上すると偽ってその場を繕い、夜闇に紛れて洛陽から脱走した、と。
蘇然は自室で胃を痛めながら地田団を踏んだ。(なんであの暗殺劇のタイミングをど忘れしてたんだ、俺のバカ……!)
心ここにあらずの蘇然の様子は、毎朝稽古をつけに来る呂布の鋭い眼光を欺くことはできなかった。
バシィッ!!
短棍が蘇然の背中を容赦なく叩き据える。
「貴様のように雑念に囚われて腰が据わらぬ腑抜けが、どうして儂の一撃を受け止められるというのだ!」
蘇然は背中に走る痛みに歯を食いしばり、悔しそうに呂布を睨み据えた。
普段なら必ず三倍にして減らず口を叩き返してくるはずの男が、今日は押し黙って呼吸を整えている。
呂布は怪訝そうに眉を吊り上げたが、ふと面白そうに口端を歪めた。
(……ほう、少しからかってやるか)
「聞いたぞ。あの曹孟徳は、貴様の親しい友であったそうだな?」
蘇然の肩が一瞬ピクリと跳ねたが、答えずに剣を構え直した。
呂布は一人ごちるように嘲笑を漏らした。
「先日、董丞相の寝所へ忍び込んで暗殺を企ておったわ。だが、儂が戻った瞬間に肝を潰し、慌てて宝刀を献上すると嘘八百を並べ立て、夜陰に乗じて洛陽から逃げ出したのだ……無様よな! 天下に名だたる英雄気取りが、蓋を開けてみればただの腰抜けよ!」
蘇然の胸の奥で、猛烈な怒りの炎が燃え上がった。
「孟徳殿は天下の義のために命を懸けたのだ! 貴様のような男に腰抜け呼ばわりされる筋合いはないッ!」
「ほう?」呂布は冷気を孕んだ足取りで蘇然へ肉薄し、耳元へ低く囁いた。
「……貴様も、あの暗殺に一枚噛んでおったのか?」
「…………ッ!」
心臓が跳ね上がったが、蘇然は怯むことなく冷たい眼差しで呂布を見据え返した。
「もし俺が事前に知っていたならな……死に物狂いでお前をここに足止めしてやったさ! 臍を噛む思いだね!」
呂布は目を丸くし、やがて腹の底から嘲笑を吐き出した。
「貴様がか? この儂を足止めするだと? 笑止千万! 鼠が虎の尾を踏むような妄言を吐くな!」
「ふん!」蘇然は鼻を鳴らし、再び木剣を振るい始めた。
「貴様らは何ゆえ、それほどまでに董丞相の命を狙うのだ?」
「誰もが貴様と同じだと思うなよ!」蘇然は冷笑した。
「義父をその手にかけ、敵の軍門に降って富貴を貪るような真似、誰もが平気でできると思うなッ!」
「貴様ッ!!」
それこそが呂布の魂を苛み続ける最大の毒棘であった。呂布の双眸が怒りで真っ赤に染まり、拳が震える。
だがその時、回廊の陰から秀が歩み出てくる気配を察し、呂布は奥歯が砕けんばかりに噛み締めて殺意をねじ伏せた。
時折、秀が自分へ向ける氷のように冷たい軽蔑の眼差し。
それを思い出すたびに呂布の胸は千々に引き裂かれ、己を唆した李粛への怨嗟が骨髄にまで染み入るのであった。
それからさらに一か月が過ぎた。
張良の遺した『太公の剣法』の理を貪るように読み解き、基礎の身のこなしを叩き込んできた蘇然は、「今なら、死角を突いて一撃を防ぐことくらいはできる」という手応えを感じ始めていた。何より、董卓の暴虐が日に日に激化する洛陽から、一刻も早く秀を連れて脱出したかったのだ。
翌朝、中庭に現れた呂布へその旨を告げると、呂布は目を丸くして蘇然を見据えた。
「わずか二か月の付け焼き刃で……この儂の一撃を受け止められると豪語するのか?」
呂布の口元に、ぞっとするような冷笑が浮かんだ。
「死んでも恨むなよ」
そう言い残し、呂布は踵を返して去っていった。
小半刻の後、戻ってきた呂布の右手には——黒光りする禍々しい刃が握られていた。
天下を震え上がらせる神兵、方天画戟であった!
木剣ではなく本物の凶器を前にして、蘇然の顔から血の気が引いた。
呂布の身から立ち込める殺気は、これまでとは比べ物にならなかった。
「気を引き締めよ。某は一切の手加減をせんぞ!」
呂布の切っ先が揺らめき、全身の毛穴から冷汗が噴き出す。蘇然は全神経を研ぎ澄まし、相手の双眸を凝視した。
その瞳の奥に宿っていたのは、容赦のない、底知れぬ本物の殺意であった。
(こいつ……本当に俺を殺す気だッ!)
「ハッッ!!」
空気を切り裂く爆音とともに、方天画戟が落雷の如く振り下ろされた!
死の恐怖に直面した蘇然は、頭が真っ白になりながらも、張良の剣譜に刻まれていた「剛を避け、隙に身を沈める」という唯一の理に従い、手にした長剣を斜めに掲げて衝撃を流さんとした!
ガギィィィンッッ!!
凄まじい衝撃が腕の骨を軋ませ、長剣は紙切れのように真っ二つにへし折れた!
刃を砕いた戟の切っ先が、寸分の狂いもなく蘇然の喉元へと迫る。
蘇然は本能のままに大地を蹴り、半身を捻って後方へと跳んだ!
ズバッッ!!
切っ先が蘇然の左肩の肉を深々と切り裂き、鮮血が噴水の如く吹き上がった。
「呂奉先ッッ!!」
回廊の奥から、悲鳴にも似た秀の絶叫が木霊した。
(……これほどの重傷を負えば、一月は床を離れられまい)
呂布は胸の内で深く息を吐き、血に染まる戟の穂先を見下ろした。
秀の鬼気迫る怒気に気圧され、僅かに目を伏せて呟いた。
「阿秀の夫君、見事に我が一撃を受け止めてみせた。約束は違えん……貴様らが洛陽を出ることを許そう」
秀は言葉もなく駆け寄り、血まみれの蘇然の身体を抱き起こした。青ざめた唇を震わせ、涙をボロボロと零す。
これほどの深手を負って、どうして徐州までの険しい道のりを無事に旅立つことができようか。
「事、ここに極まれり、か……」
呂布は遣る瀬ない息を吐き、司徒府を後にした。
(阿秀よ、儂を怨むな。あれでも手加減したのだ……。せめて、あと一月……貴様の姿をこの洛陽で見届けさせてくれ……)
「泣くなよ、秀……」
蘇然が痛みに顔を歪めながら言った。愛する女の涙を見るのが、何よりも辛かった。
秀は震える手で止血の粉を塗り、布で固く肩を縛り上げながら、涙を拭おうともしなかった。途中で糜貞が飛び込んできたが、部屋のただならぬ修羅場を見るや、息を呑んで静かに扉を閉めて出ていった。
「ほら、天下の呂布の一撃を防ぎ切ったんだぞ? さあ、荷物をまとめて急いで洛陽を出るぞ! 今のうちだ!」
「夫君……何を仰るのですか!」秀は涙声で叱りつけた。
「これほどの重傷を負ったお体で、どうやって長旅に耐えるとお思いですか! 傷が癒えるまで、一歩たりとも動いてはなりませぬ!」
蘇然は焦燥に駆られて眉をひそめた。
「いいかい秀、よく聞いてくれ。董卓の暴政は極に達した。俺の親友の曹孟徳が、遠からず関東中の諸侯を糾合して洛陽へ攻め寄せてくるはずなんだ。都が火の海になれば、逃げ出すことすらできなくなる!」
「真に……そのような合戦が?」秀は驚き、それでも首を横に振った。
「だとしても、夫君のお命には代えられませぬ。傷が塞がるまで、洛陽を離れることは許しません!」
(破傷風にかかったら現代の抗生物質もないんだぞ……)と蘇然は冷や汗を流し、観念してため息をついた。
「分かった、傷が塞がるまで待つよ……」
寝台に身を預け、蘇然は思考を巡らせた。
足止めを食らった以上、この時間を使って董卓の戦力を削る手を打たねばならない。関東諸侯が洛陽へ雪崩れ込んできた時、曹操と気脈を通じていれば、自分と秀の安全は確保できるはずだ。
(美女連環の計なんて御免被るからな……!)
肩の痛みを堪え、蘇然は王允の書斎へと足を運んだ。
扉を開けるなり、王允が顔を上げた。
「守義か……む? その肩の血塗れの包帯は何事だ!?」
「大したことありません、かすり傷です」蘇然は手を振り、本題を切り出した。
「伯父上。遠からず、関東の諸侯連合軍が洛陽へ向けて進軍してまいります」
王允は白髭を撫で、深く思索に沈んだ。この甥の予言が外れたことは、ただの一度もないのだ。
「守義の言、常に核心を穿つ。もし真に諸侯が決起するならば、千載一遇の好機……上手く立ち回れば、董卓を根こそぎ葬り去ることも夢ではない!」
「されど伯父上、関東の諸侯どもは皆、己の野心を胸に秘めた烏合の衆です。足並みが揃うはずもなく、決定打にはなりますまい」
王允は眉をひそめ、熟考の末に眼光をギラリと輝かせた。
「ならば……老夫が朝中の忠臣たちを糾合し、董卓が城外の諸侯を迎え撃つために軍を出した間隙を突き、洛陽の内部から呼応して挟撃いたすというのはいかがだ!?」
「伯父上たち、兵権もないのにどうやって戦う気です!?」蘇然が目を丸くする。
王允は不敵に微笑んだ。
「百官の手勢、家僕や私兵を掻き集めれば、三千から五千の精兵が揃う! 朝廷の危急の折、老夫自ら甲冑を纏って先陣を切って何が悪い!」
(この爺さん、本当に過激派だな……!)
蘇然は苦笑いを浮かべ、宥めるように言った。
「伯父上、どうか落ち着いてください。策は某が練り上げますゆえ。……ところで伯父上、ここ数日、呂布と話していて気づいたのですが……あやつ、董卓に対して密かに鬱屈を抱えているように見えます」
「ほう、呂布が……?」王允の目が細められた。
「あやつを上手く味方に引き込めれば、最大の切り札になりましょう」
(まあ、あいつが秀を欲しがるようなら即座に切り捨てるがな……)と蘇然は心の中で付け加えた。
それから半月の後、天下を揺るがす檄文が飛翔した。
曹操が偽りの密勅を掲げて諸侯へ檄を飛ばし、董卓の暴虐を糾弾したのだ。これに応じ、天下の十七路諸侯が一斉に義旗を掲げた!
第一鎮:後将軍・南陽太守 袁術
第二鎮:冀州刺史 韓馥
第三鎮:豫州刺史 孔伷
第四鎮:兗州刺史 劉岱
第五鎮:河内太守 王匡
第六鎮:陳留太守 張邈
第七鎮:東郡太守 喬瑁
第八鎮:山陽太守 袁遺
第九鎮:済北相 鮑信
第十鎮:北海太守 孔融
第十一鎮:広陵太守 張超
第十二鎮:徐州刺史 陶謙
第十三鎮:西涼太守 馬騰
第十四鎮:北平太守 公孫瓚
第十五鎮:上党太守 張楊
第十六鎮:烏程侯・長沙太守 孫堅
第十七鎮:祁郷侯・渤海太守 袁紹
歴史の激流が、寸分の狂いもなく動き出したのを見届けた蘇然は、密かに方悦を呼び寄せた。
懐から三通の錦嚢(秘策を記した袋)を取り出し、託す。
「方悦よ。この錦嚢を懐に納め、洛陽を脱出して曹孟徳の陣営へ向かってくれ。もし戦況が某の読んだ通りに推移したなら、一通ずつ孟徳へ手渡すのだ。もし事態が予想と食い違ったなら、決して開封せず、そのまま持ち帰るように」
方悦は錦嚢を胸元へ厳重にしまい込み、深々と拱手した。
「先生、くれぐれも御身をおいといくだされ! 某、参ります!」
平服に着替えた方悦は、夜陰に乗じて洛陽の城門を抜け、酸棗の盟友軍の陣営を目指して馬を走らせていった。




