第八十二章 地獄の馬歩と、太公の書
殺すか、それとも殺さぬべきか。
呂布は自邸の広間で一人、苦い酒を呷り続けていた。
目を閉じれば、昨日の司徒府で阿秀が蘇然をかばい、あの青白き書生のために命を投げ出そうとした姿が鮮やかに蘇る。胸の奥が張り裂けんばかりに痛んだ。
もし蘇然を斬り殺せば、阿秀は生涯にわたり自分を怨み続けるだろう。
だが、殺さねば……己がこれまで手を血で染め、積み上げてきた野心と苦難は何のためにあったというのか。
呂布はむくりと立ち上がり、傍らの方天画戟をひっつかむと中庭へと躍り出た。
ヒュンッ、ヒュンッ!
寒風を切り裂き、苛立ちのままに戟を振るう。猛烈な気勁が渦を巻き、丹精込めて植えられた庭の草木がことごとく薙ぎ払われていく。
「ハッ!」
一喝とともに戟を振り下ろすと、据えられていた築山が真っ二つに叩き割れ、凄まじい地響きを立てて崩れ落ちた。
呂布は虚空を睨みつけたまま肩で息をし、やがて夜空を仰いで重い溜息を吐き出した。
翌朝、夜明けと同時に呂布は単身、王允の屋敷へと乗り込んだ。
表門で出くわした王允は、黙って奥の中庭へと進んでゆく当代最強の武神の背中を、険しい視線で見送っていた。
「蘇守義ッ! 出てまいれッ!!」
後院の静寂を破り、呂布の雷霆の如き怒号が轟いた。
「朝っぱらから喚き散らしやがって、誰だよ……」
蘇然が不機嫌そうに扉を開け、そこに立つ仁王立ちの巨漢を見るや、ぎょっとして飛び退いた。
「……お、お前かよ!?」
呂布は眉間に青筋を立て、胸の奥で血を流しながら言い放った。
「中庭で半刻待つ。疾く来い!」
背を向け、大股で去っていった。
蘇然は首をかしげて寝台を振り返った。
「……秀?」
寝台の上では、秀が布団を首まで引き上げ、目だけを覗かせていた。昨夜、夫のおねだりに言われるがまま応えてしまった恥ずかしさから、まともに顔を合わせられずにいるのだ。
蘇然は扉を閉め、寝台へすり寄った。
「あいつ、本当に俺に武芸を教える気なのか?」
秀は唇を噛み、小声で囁いた。
「妾身にも分かりかねます……されど夫君、くれぐれもご用心くださいませ」
「ああ」
蘇然は頷きつつ、布団の隙間から滑り込んで秀を抱きしめた。
「秀、まだ照れてるのか?」
「もう、夫君ったら……!」秀は耳まで真っ赤にして身をよじらせた。
外から再び呂布の苛立たしげな怒号が響いた。
蘇然は舌打ちし、気勢を削がれて眉をひそめた。
秀は蘇然の胸元に手を添え、真剣な眼差しで見つめ返した。
「夫君……呂奉先の武芸は妾身を遥かに凌ぎます。もし彼が本気で手ほどきをしてくれるならば、夫君にとって得難い財産となりましょう」
「あいつが本気で教えると思うか?」
秀は言葉に詰まり、伏し目がちに視線を落とした。今にも泣き出しそうなその表情に、蘇然は慌てて取り繕った。
「あ、いや! 冗談だって! 昨夜、昔のことは全部聞いたんだから、誤解なんてしてないさ!」
「……夫君、怒っておられませぬか?」秀がおずおずと見上げてくる。
蘇然は破顔し、秀の耳元へ口を寄せた。
「怒るわけないだろ。昨夜の秀は、あんなに……」
「ふ、夫君ッ!」
「はいはい、言いません!」
照れ屋の妻をこれ以上からかうのをやめ、蘇然は羽織を引っ掛けて立ち上がった。
「よし、ちょっと見てくるよ。本当に教えてくれるなら、願ったり叶ったりだしな!」
中庭へ出ると、呂布は腕を組み、目を閉じて佇んでいた。
蘇然は腕を組んで牽制した。
「おい呂布、先に言っておくが、たとえお前から手ほどきを受けたとしても、『師匠』と呼ぶ筋合いはないからな!」
「フン!」
呂布は薄目を空け、冷笑を浮かべた。
「誰が貴様のような男を弟子に持つか。阿秀の顔に免じて幾つかの型を授けてやるに過ぎん。だが、貴様が怠惰に流れて儂の技に耐えきれず死んだとて……恨むなよ!」
眼光に宿るギラリとした殺気に、蘇然の背筋が冷やりとした。
(秀の言う通り、油断したら本当に消されるな……)
蘇然は気を引き締めつつ、興味本位で尋ねた。
「で、何を教えてくれるんだ?」
……半刻後。
「ぐ、ぐああぁぁ……ッ!!」
蘇然は顔を土気色にし、プルプルと生まれたての子鹿のように足を震わせながら、中庭の真ん中で馬歩(空気椅子のような型)を取っていた。
太ももが千切れそうな激痛に悲鳴を上げる。
「こ、これが武芸の稽古だってのかよッ!?」
ピシィッ!!
容赦なく背中に細い竹の短棍が叩き込まれた。
「胸を張れ! 腹を引けい!」
呂布が冷徹に一喝する。
「痛ってえぇ……ッ!」
背中に走る火のような痛みに耐えながら、蘇然は心の中で呂布を八つ裂きに呪っていた。
苦痛に喘ぐ蘇然の無様な姿を見下ろし、呂布の胸に微かな快感が走った。だが、ふと脳裏に幼少期の並州の荒野で、自らもこうして泥に塗れながら鍛錬に励んでいた記憶が去来し、不意に視線を宙へと泳がせた。
「奉先、我が夫君は元より体が頑健ではございませぬ。そろそろ……」
凛とした声に我に返った呂布が見やると、そこには盆を持った秀が立ち、心配そうに蘇然を見つめていた。
呂布は鼻で笑った。
「儂らとて幼い頃はこのようにして耐え抜いてきたのだ。阿秀、儂が私怨で嫌がらせをしておると誤解するなよ」
秀は微かに眉をひそめ、崩れ落ちそうになる蘇然へ駆け寄った。
「夫君、滋養をつける薬湯を煎じてまいりました。息を整えてから召し上がってくださいませ……」
「湯、湯ぅ……?」
蘇然は息も絶え絶えに愚痴った。
「死ぬほど疲れて、飲む気力もねえよ……布団に戻って寝かせてくれ……」
秀と蘇然の仲睦まじいやり取りを目の当たりにし、呂布の胸の奥でどす黒い嫉妬が渦巻いた。
「フン! 惰弱極まりない奴め!」
呂布は短棍を放り出し、背を向けた。
「明朝、また参る! 江守義、はっきり言っておくぞ。阿秀を護り抜きたいならば、死ぬ気で励め。もし後日、儂の一撃すら受け止められぬままであったなら……阿秀が生涯儂を怨もうと、必ず貴様を叩き殺してやる!」
二人に背を向け、大股で去り際に冷酷な言葉を投げ捨てる。
「阿秀よ。夫の骸を見たくなくば、せいぜい厳しく尻を叩くことだな!」
「……秀、これ、本当に修行なのか?」
蘇然は軋む腰をさすりながら、情けない顔で秀を見上げた。
秀は愛おしそうに手巾で夫の額の汗を拭った。
「武芸とは足腰の土台こそが命にございます。土台が脆ければ、いかなる絶技を学ぼうとも砂上の楼閣に過ぎませぬ」
「ってことは、あいつ、嫌がらせじゃなくて本当に正しいことを教えてるのか……」
蘇然は眉をひそめ、ふと疑問を口にした。
「そういえば秀、お前あんなに強いのに、朝起きて鍛錬してるところを一度も見たことがないぞ?」
秀は口元を押さえてクスクスと笑った。
「妾身、夫君と出逢う前は毎朝欠かさず鍛錬に励んでおりましたのよ。ただ、夫君が朝寝坊がお好きで……毎朝のように抱きしめられて離していただけないものですから、朝稽古の時間など取れるはずがございませんでしょう? 徐州の陳先生のお屋敷へお邪魔した折に、僅かに身体を動かして勘を取り戻した程度ですわ。……正直、今の妾身の腕前は随分と鈍ってしまっておりますのよ」
「あ、あはは……そうだったのか」
蘇然は気まずそうに頭を掻いた。
「さあ夫君、この薬湯を飲んで横になってくださいな」
蘇然は少し考え、ゆっくりと首を横に振った。
「いや……あいつの言うことも一理ある。男の身で、いつまでも秀に護られてばかりじゃいられないだろ。せっかく三国最強の男に手ほどきを受けられるんだ、無駄にはできない。……秀、俺が強くなったら、今度は俺がお前を護るからな」
秀の胸が温かな光で満たされた。
「はい……妾身、夫君をお信じしております」
(夫君はとうに武芸を学び始める年頃を過ぎておいでですもの、どれほど励んでも並の兵卒に及ぶかどうか……されど、この尊いお志に水を差すような無粋なことは申しますまい)
蘇然が一気に薬湯を飲み干し、再び苦悶の表情を浮かべながらへっぴり腰で馬歩を取り始めるのを見つめ、秀は優しく微笑んだ。
怠惰を絵に描いたような夫が、自分のためにここまで泥臭く踏ん張ってくれている。その姿が、何よりも愛おしかった。
それから数日の間、呂布は毎朝欠かさず司徒府へと通い詰めた。
蘇然を痛めつけるため半分、阿秀の顔を一目見るため半分であったが、次第に呂布の胸中には別の感情が芽生え始めていた。
初日こそ泣き言を垂れていた青白き書生が、どれほど足腰が痙攣しようとも、翌朝には逃げ出さずに中庭で待っているのだ。
足腰の芯を確かめるように軽く蹴りを入れてみた呂布は、内心で驚嘆の声を漏らした。
(……何という頑固な男だ。この軟弱者が、これほどの粘り強さを秘めておったとは)
だが、口を開けば相変わらず傲慢そのものであった。
「フン! 儂が幼い頃は、半年間微動だにせず馬歩を極めたものだ。この程度の小手調べで図に乗るな!」
殺すべきか、生かすべきか。
揺れ動く胸中を覆い隠し、呂布は冷ややかに問いかけた。
「今日より兵刃の扱いを仕込んでやる。貴様、いかなる武器を学ぶ気だ? 儂の方天画戟の技を学びたいと申すなら、授けてやらんこともないが」
蘇然は即座に首を横に振った。
「一番簡単で手っ取り早い奴にしてくれ。軍勢を率いて戦場に出る気なんてサラサラないんだ、身を護って秀を守れりゃ十分だ。剣術が覚えやすいって聞くから、剣にしてくれ」
「貴様という奴はッ!」
武の道を冒涜されたように怒り狂った呂布は、吐き捨てるように言い放った。
「ここで待っておれ!」
そう叫ぶや、門前の愛馬に飛び乗り、疾風の如く走り去っていった。
(……何なんだ、あいつは?)
呆気に取られる蘇然であったが、小半刻も経たぬうちに、呂布は土煙を上げて戻ってきた。
そして懐から一巻の薄汚れた書物を引き抜くや、蘇然の胸元へと乱暴に投げつけた。
「これを学べ!」
受け取った蘇然は、表紙すら破れ落ちて題名も定かではないボロボロの古書を見つめ、胡散臭そうに眉をひそめた。
「おい……適当な古本で誤魔化そうとしてないか? こんなのでお前の一撃を防げるようになるわけないだろ」
「無礼な小人めが!」
呂布は冷笑を浮かべ、胸を張った。
「某が一度『全力を尽くす』と言った以上、欺く真似など断じてせん! その書は某が数年前に手に入れたもの。中に記された剣法は恐ろしく精妙を極めておる。馬上で戟を振るう某には無用の長物なれど、貴様のような者にはうってつけよ! 死に物狂いで修めるがよい。……後日、一撃を受け止める自信がついたなら、いつでも勝負を挑んでこい。技足らずして我が刃の錆となったとて、恨むでないぞ!」
呂布は背を向け、大股で立ち去っていった。
門扉が閉まるのを見届け、蘇然は口を尖らせた。
「偉そうに……題名すらないボロ本を押し付けておいて、何が『欺かぬ』だよ」
ブツブツと文句を言いながら、蘇然は何気なくその古書の頁をペラリとめくった。
ふと目に留まった序文の墨痕に、蘇然の視線が吸い寄せられた。
『……これ、良が自ら創案せし剣法なり。この剣法、源は黄石公より授かりし『太公兵法』に発し、数載にわたり精修して大成を見るに至る……
良、深く思索するに、奇書の天下に失われんことを恐れ、ここに『太公兵法』の精要を併せ記すものなり。前半は良の剣法、後半は太公兵法の精髄なり……
後人もしこれを得ば、克明に精読し、大成の暁には我が大漢を護持せよ……
かつて良にこの書を授けし黄石公は言えり、「この書を読む者は、王者の師たるべし」と。切に正道に用いるべし! 良、今ふたたびこの言を識す。後人、天下の蒼生を重んぜよ。切に、切に銘記せよ!』
蘇然は首をかしげ、瞬きを繰り返した。
「……良? 黄石公? 『太公兵法』を授かって、王者の師となった……?」
現代人の歴史の記憶が、電光石火で閃いた。
(……良って、漢の三傑の筆頭、高祖・劉邦を天下人へと押し上げたあの伝説の軍師……張良のことかッ!?)




